
昨日、メーリングリストで、LVさんから「この国を孫たちに残すの・・・(もうろく老人正言録」というブログの記事のご紹介をいただきました。
フィリピンに建てられたカミカゼ記念碑のおはなしです。
以下、引用します。(文章はねずきちがすこしアレンジしています)。
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フィリピンの首都マニラ市の北側にある、広い平野の中の道路脇に、ポツンと小さな霊園のような敷地があります。
四角い壁に囲われた中に横に長い石碑が立っている。
これがフィリピン人ダニエル・ディソンが奔走してフィリピン政府にって建立されたカミカゼ記念碑です。
このあたりは先の大戦中、日本軍が使用していたマバラカット飛行場であり、ここから最初の神風特別攻撃隊が飛び立った。
記念碑には、ダニエル・ディソンが書いた次のような碑文が記されています。
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第2次大戦終結までに、カミカゼはアメリカ軍艦を総計322隻撃沈または大破、9千人以上の海軍軍人を戦死させ、一方、5千人のカミカゼ隊員の内4600人が自殺攻撃にて戦死した。
カミカゼは、世界史上比較しうるもののない全く大胆不敵なものであった。
歴史的調査が明らかにしたところによれば、カミカゼを支えた信条とは、世界のすべての民族に対する機会の均等と親睦が、自らの死によって実現されることを心底から願って自らの身を捧げたカミカゼ志願者達の思いである。
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ディソンが大戦中に日本軍人と出会ったのは1941(昭和16)年、11歳の時です。
ディソン氏は語ります。
「昼食を終えたところで、突然地面が揺れ、窓がガタガタ鳴った。
祖父が「地震だ」と叫んだ。
つぎに、ゴーという低い轟音がした。
続いて、ポップコーンが破裂するような音が空から降ってきた。
窓に駆け寄って空を見上げると、小さな破裂した煙がいくつも見えた。
はるか上には、爆撃機の編隊が二つ見えた。
初めて見る日本軍でした。
地震だと思ったのは、その爆撃機が落とした爆弾だったのです。
近くにあるクラーク飛行場は、アメリカ軍の極東での主力基地です。
そこを日本軍が急襲した。
祖父は「何故日本がこんなところを攻撃できるんだ? 日本はずっと遠くにあるはずじゃないか」と叫んでいました。
祖父は新聞で日中戦争の事を知っており、また近くに住む中国人が日本人は残虐だと触れ回っていたので、日本軍をとても恐れていたのです。
もちろん私も日本軍をとても恐れていました。
しかし、心の中では、ひそかに日本軍のことを賞賛もしていた。
なにしろ、決して敗れないはずの白人を、私達と同じアジア人の日本人がやっつけているのですから。
私達は皆、日本の爆撃機の数を数えていました。
私はその光景を忘れません。12月の深い青色の空に機体が白く美しく見えました。」
年が明けて1月1日、日本軍がディソンの住むアンヘレスの町にもやってきました。
アメリカ軍とその指揮下にあるフィリピン兵たちは、散発的な抵抗をしながらも、南に逃げていったのです。
ディソンの一家は戦闘を逃れて、深い谷間に数日隠れていたのですが、ようやく静かになったので、町に戻ってきた。
町には大勢の日本兵がいました。
ディソン少年の伯父はマニラで日本人と働いたことがあるので、「『アリガト』と言え」と、教えてくれた。
そこで、ディソンらが「アリガト!アリガト!」と言うと、日本兵はみな笑い出した。何かひどい扱いを受けるのではないかと心配していたディソンは、少しほっとした。
日本兵たちは、ポケットから何かを出して、子供達に渡した。
ディソン少年も一つ貰ったが、それは布でできた小さな袋で口をひもで縛るようになっていた。巾着である。明けてみると、小さな四角いビスケット(乾パン)と砂糖のボール(金平糖)
が入っていた。
それが、ディソンが日本兵からもらった最初のものだった。
やがてディソン少年は、日本兵たちとバスケットボールをしたり、また知り合いが日本軍の炊事場で働くようになると、その手伝いをするようになった。
ヤマカワ中尉という25歳くらいの人が、ディソンを自分の弟に似ていると言って、可愛がってくれた。
よくディソンの手をとって、一緒に散歩をした。
ある時、ヤマカワ中尉はディソンが描いた絵を見て、
「うーん、ベリーグッドじゃないか」と言った。
そして時々、白い紙を鉛筆をくれて、自分や部下の絵を描かせた。
妻子を故郷においてフィリピンに駐屯している日本軍将兵たちにとって、フィリピンの子供達は心を和ませてくれる存在だったようだ。
後にディソンの妻になるエンリケッタも、アンヘレスのすぐ南のポラックという町に住んでいて、似たような経験をしている。
近くに日本軍の飛行場があり、毎日そこに行って、雑草を引き抜く仕事をしては1ペソ貰う。やがて背の低いがっりとした体格の日本兵が、エンリケッタによくキャンディーやクッキ
ーをくれるようになった。
エンリケッタは飛行士たちとも仲良しになった。
飛行士の一人はエンリケッタを抱き上げて、戦闘機の翼の上に乗せ、その特設ステージで、エンリケッタは得意の歌と踊りを披露した。
司令官のマエダさんはそんな光景をいつも見ているだけだったが、ある時、エンリケッタが熱を出して二日も基地に行かないでいると、トラックで家まで見舞いに来てくれた。
そして袋一杯のキャンディーとクッキーを置いていってくれた。
しかし、1944(昭和19)年になると、戦局が悪化し、食糧事情も悪くなっていった。
共産ゲリラや親米派ゲリラの活動が活発になり、親日派の市長や警察署長、そして日本兵の暗殺が行われるようになった。
日本軍そのものが幹線道路で待ち伏せ攻撃を受けるようになり、日本の将兵は疑い深くなっていった。
ゲリラを支援した人間や、ゲリラとの疑いをかけられた人々が処刑された。
9月21日、アメリカ軍の飛行機がアンヘレス周辺にあるすべての飛行場を爆撃した。それからは毎日、空襲があった。
その頃から、アンヘレスで鉢巻きをした日本軍の飛行士たちを見かけるようになった。
日本の兵隊たちは、彼らと街で会うと、お辞儀をしていた。
ある晩、この飛行士たちが泊まっている家からピアノの伴奏が始まり、いろいろな軍歌が聞こえてきた。悲しい調子の曲も流れた。
その一つが「海ゆかば」だった。
そして翌朝、彼らは飛び立つと、二度と帰ってこないのだった。
こうした事が繰り返されたが、ディソン少年を含めフィリピン人たちは、彼らがどういうことをしているのか、知らなかった。
1945(昭和20)年1月28日、アメリカ軍がアンヘレスを占領した。
アンヘレス周辺には、敗走し、部隊からはぐれた日本兵たちがうろうろしていたが、ゲリラや米軍などに容赦なく殺されていった。
2ヶ月もするとアンヘレスでの生活ももとに戻った。
ディソンはしばらくアメリカ軍の身の回りをする仕事をしていたが、6月には高等学校が再開されたので、仕事を辞めて、学校に通い始めた。
1946年7月4日、フィリピンは独立した。
しかし、経済はアメリカ人に牛耳られ、独立とは名ばかりのものだった。
共産ゲリラが政府を攻撃し、街を爆弾などで襲う事件が頻発した。
ディソンはフィリピン大学の美術学部の奨学生に選ばれた。
美術の勉強の傍らで、歴史にも興味を持つようになった。
そして、フィリピンの歴史を掘り下げていくと、全く教えられていなかった事をいくつも発見した。
たとえば・・・
フィリピンは16世紀にスペインによって植民地化される前に、西洋文明とは違った文明を発達させていた。
その事を知っただけで、フィリピン人としての誇りを感じた。
アメリカの植民地時代には、常にアメリカ人の下にいて、その顔色をうかがっており、かつてフィリピン人の誇りを持ったことはなかった。
1963年に大学を卒業すると、画家になるための修行をしながら、伯父と伯母が始めた会社に勤め始めた。
1965年、35歳の時、ディソンの兄がマニラの路上の古本屋で、一冊の古本を買った。それがディソンの運命を変えた。
その本は『ディバイン・ウインド(神風)』というタイトルのアメリカで出版されたポケット版の本だった。猪口力平元大佐・中島正元少佐著『神風特別攻撃隊』の英訳版だった。
この本を兄から借りて読んで、ディソンは衝撃を受けた。
クラーク飛行場やアンヘレス、そしてその隣町でカミカゼが生まれたマバラカットについてが書いてあった。
少年の時に見たあの鉢巻きをした飛行士達がカミカゼだったのである。
ディソンは言う。
「読み進むに従って、私はこの本により深く結びつき、カミカゼの飛行士達に驚き、心が動かされていきました。
私はカミカゼの意味について深く知っていきました。
そして、本の最後で、カミカゼの飛行士達の遺書に行き当たりました。
これらの遺書を読むと、私はカミカゼのことを記録し残していくために何かをしなければいけないと強く思うようになったのでした。」
ディソンは、著者の猪口氏や中島氏と手紙をやりとりして、カミカゼが1944年10月20日にマバラカットで誕生したことを確認した。
息子達の教育費で生活の方は苦しかったが、そんな中でディソンは政府に、カミカゼが初出撃した飛行場の跡地に記念碑を建立するよう働きかけた。
妻のエンリケッタも学校の教師をしながら、ディソンの活動を支えてくれた。
幼いころ、日本の飛行士達と遊んだ記憶が、無意識のうちにそうさせたのかも知れない。
しかし、状況は最悪だった。
ディソンは体調を崩し、1971年には会社を辞めた。
翌年、マルコス大統領がフィリピン全土に戒厳令を敷き、アンヘレスも共産ゲリラの活動で治安は最悪だった。
そんな混乱の中で、もし政府関係者が反日の人間だったら、ディソンは逮捕されるかもしれない。
1973年、ようやくチャンスがやってきた。
マルコス大統領が日本からの投資を呼び込もうと、マニラの南郊2時間の場所に日本将兵の慰霊碑を建てる事を許可したのだ。
ディソンはマルコス政権の観光局長に会って、カミカゼの記念碑を建てる事の方がずっと重要であることを説いた。
局長は賛同した。
一週間も経たないうちに観光局のジャーナリストが取材にやってきて、ディソンがカミカゼについて話した内容を全国版の新聞に掲載してくれた。
こうして1974年にかつてのマバラカット東飛行場の跡地に
「第2次大戦に於いて日本神風特別攻撃隊機が最初に飛び立った飛行場」
という碑文が入った記念碑が建立された。
観光局のジャーナリストが記念碑完成を報道すると、アメリカやカナダ、シンガポール、スペインなどから記者が取材にやってきて、カミカゼ記念碑を世界中に報道した。
それで世界各地から観光客やジャーナリストがやってくるようになった。
ディソンは、次のように語ります。
「今のフィリピン人は、アメリカと中国、ヨーロッパと日本が混じり合ったもので、明確なアイデンティティがない事がとても悲しい。
私の家にある小さなカミカゼ博物館には、定期的に高校生や大学生が訪問しますが、・・・私は、カミカゼ精神とはアジア人が到達しうる究極のものであることを、彼らに教えているのです。
カミカゼの精神は、自らのアイデンティティ、自らの名誉や文化を守るために、自らの命を引き換えにするところまで、人は到達できることが出来るのだ、ということを示しているのです。
そして、フィリピン人は彼らのような行為をまだしたことがない、と学生達に教えているのです。」
カミカゼの精神が日本人としてのアイデンティティにどう関わっているのか、それを理解することは、現代の日本人には難しくなってしまったのかもしれません。
しかし、同じく特攻隊員の手紙や遺書について書いたイワン・モリスの次の言葉が良いヒントになるかもしれません。
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むしろ彼らの言葉は、
日本人として
生まれてこのかた受けた恩恵にたいして、
報恩をしなければならないという気持ちを
表現しているのではないだろうか。
恩恵を受けてきた、
今も受けているという気持ちと、
いざという時に必要とあれば、
どのような犠牲を払っても、
その恩に報いたいという気持ちが、
平戦時を問わず何世紀にもわたって、
日本人のモラルの力強い底流を
なしていたと思うのである。
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参照:ダニエル・ディソン著
『フィリピン少年が見たカミカゼ』
桜の花出版
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戦時中の、ほんのわずかな期間に、日本の将兵と接しただけのフィリピン人のダニエル・ディソンさんでさえ、英霊たちの真実の姿に、高潔な誇りと人としての正しい心、人としての強さ、心を感じてくれています。
まして、日本に生まれ、日本に育ったボクたちが、彼ら英霊となられた方々への恩を忘れてどうする。
命を賭けて戦ってくれたのは、この日本のため、日本に住む、いま、この日本で生きているボクたちのためだったのではないのか。
そのことを、もういちどボクたちは、考えてみる必要があるのではないでしょうか。
ボクたちはいま、日本の心をつたえる会という会をつくり、みんなでもういちど日本の心を取り戻す運動をしようとしています。
そのボクたちには、強力な武器がある。
それは、同じ心を持つボクたちは、独りじゃないということ。
fightyさんからのメッセージです。
“独りじゃないことが、ボクたちの最後の武器さ”
日本人としての誇りを取り戻そう!と思う方
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