
福島県須賀川市が生んだ有名人と言えば、ウルトラマンやゴジラを作り出した特撮の神様、円谷英二さんを思い出す方が多いと思います。
今日は、同じ須賀川市出身の大正時代の女医である服部ケサさんのお話をしたいと思います。
服部ケサの兄は歌人で、国文学者、また妹のてい子は、水野仙子の名で知られる女流作家です。
ケサは文学一家に生まれました。
ケサ自身も、与謝野鉄幹・晶子夫妻の主宰する「明星」や、河合酔茗の「女子文壇」に投稿するなど、文才と情熱には、目を見張るものがあったと言われています。
しかし、2人の兄弟とは異なる医師の道を選択したのは、家族の相次ぐ疾患と、その看護に当たった経験からだと言われています。
実体験の中で、自分の人生の選択肢に出会うというのは、平成の時代も、大正の時代も同じです。
最初、ケサは、裁縫学校を卒業します。
しかし、縫い物ばかりの仕事に疑問を持ち、妹と同じように文学の道に進みたいと考えます。
歌人であり、国学者でもある兄の住む東京に、文学の勉強に向かいます。
ところがそんなときに、父、母、姉が次々と病気になってしまいます。
ケサは、故郷の須賀川に戻って一生懸命看病します。
その看病の中で、ケサは日増しに「医者になりたい」と思うようになっていきます。
ケサは、思いきって父に自分の思いを打ち明けます。
思いを聞いた父は、厳しくも愛情に満ちた励ましの言葉を送ります。
「それもよかろう。けれどケサ、もっとも重い患者の友となるのでなければ医者としての値打ちはない。人にまねのできない医者になれ。私もできたら医者になりたかったのだよ」
自分の思いと父の言葉を胸に秘めながら、ケサは、医学校に入るため昼も夜も一生懸命勉強します。
人を救いたいという気持ちはもちろん必要ですが、人を救うための知識をしっかりと学ばなければ医師にはなれません。
ケサが猛勉強の末に、東京女子医科大学へ入学したのは21歳、明治38(1905)年8月のことです。
入学後のケサは、成績もよく、校内の新聞づくりでも文章が上手だったことから、友だちを感心させていました。
順風満帆な学生生活を送っていたケサは、修学中の二十五歳のときに、赤痢にかかってしまいます。
そればかりか、心臓、腎臓(じんぞう)まで次々と悪くなってしまいます。
「せっかく志を立てたのに、このまま死んでしまうのか」
ケサは苦しい息の中で、こんな言葉を何回もつぶやいたのだそうです。
それほど重篤な状況に陥ったケサを救ったのは、家族や医学校の先生、友だちの寝ずの看病でした。
奇跡的に助かったと思ったケサは、このとき、人の優しさや神の愛を強く心に感じたそうです。
そして、自分の生涯を決定づける次の言葉を、心の中に刻みつけたと言います。
「人、その友のために生命を捨てる。これより大きな愛はなし」
ケサは、医者の資格を取得した後、すぐに医者として働いた訳ではありませんでした。
はじめは、東京の慈善病院(現在の三井記念病院)に、看護婦として勤務します。
医者としての勤め先が無かったのではなく、より患者の近くで勤務する事が多い看護婦の仕事の方が、病人のため働く決意を固めたケサには、医者以上に大切な仕事だと思えたからです。
そして、この病院で多くのハンセン病患者と出会ったことで、ケサはハンセン病の人のために一生を捧げる決心をします。
ハンセン病は、現代医学では完治可能な病気です。
しかし、ひと昔前までは社会問題にさえなる大変な病気でした。
そういった病気を抱えた患者のために自分の生涯を捧げるという決意をしたことは、父の励ましの言葉にあった「もっとも重い患者の友となる」を実践するためです。
また、この病院では、看護婦の三上千代子(みなかみちよこ)ともめぐり会います。
千代子は、ケサより少し年下で、ハンセン病患者のために何かをしてあげたいと強く思っていました。
同じ願いを持っている二人の間には心に通じるものがありました。
二人は生きる希望をなくした患者に、
「神が、あなたを守っています。そして、私もあなたの友だちなのです。」
と言って、患者の手を握って励まします。
ある年、イギリスのコンウォール・リーという女性が日本を訪れました。
自分のお金で、草津にハンセン病の病院を建てました。
しかし、当時の草津は、山奥ということもあり、医者も看護婦も来てくれませんでした。
リー婦人のハンセン病の病院で働くことが、自分の使命と考えた千代子は、草津へ行く決断をしました。
ですが、看護婦の知識だけでは多くの患者を治療することは不可能でした。
そこで、千代子は医者の資格を持つケサに助けを求めました。
その求めに応じて、ケサはすぐに草津へ向かいます。
草津で汽車を降りたケサは、病院がある湯の沢まで、山の中を40キロメートルも歩きます。
医者も看護婦も、リー婦人の募集に応じてくれない理由を理解しながら、これから先の自分のことを考えて少し弱気になります。
そんな時、ふと顔を上げたケサの目に、雄大に噴煙を上げる浅間山が映ります。
「そうだ、あの山のように、大きな心を持とう。」
ケサは浅間山にも励まされて、新たに心に誓います。
病院でのケサは、毎日百人以上の患者を診ます。
また、患者からは若いけれど腕は確かだと頼りにされました。
そのため、近隣の病人の要請を受けて、どこへでも往診に出かけて行きます。
近隣と言っても、片道5㎞程度の往診は普通でした。
ときには10㎞も離れた所に、往診かばんやお産道具を持って治療に駆け付けた事もあります。
雪の日は特に苦労したと言います。
信頼される医師として、ケサの仕事は多くなり、休む時間はどんどん減っていきます。
そして、心臓の弱いケサは、ついにぜんそく発作のため倒れてしまいます。
それでもケサは、休もうとはしません。
どうしてもハンセン病患者の憩いの村を作りたいという夢があったからです。
大正13(1924)年、ケサと千代子は、スズランの咲く土地に夢にまで見た病院を建てます。
そこにはスズラン病院の看板をかけます。
その3週間後、ケサは、突然心臓発作を起こし亡くなりました。
大正13年11月、40歳の若さでした。
ケサの死を悲しむ患者たちが、戸外にはあふれ、家の周りには、七重にも八重にも囲みができたといいます。
ケサの死に大きな悲しみとショックを受けたのは千代子でした。
降りしきる雪の中を、墓前にひざまずき、自分の体が雪にうずもれていくのも分からないほど、まるで愛人とでも別れたように涙する千代子の姿が、多くの人に見られました。
悼会の席上、三上千代子は静かに語りました。
「池の中に投じた小石はもはや浮かび上がることもないけれど、その波紋は必ず岸辺に達します」
たったひとりの小さな一歩でも、波紋はかならず大きく広がり、みんなの力は次第に大きくなって、かならずや岸辺に達する。
ライ病患者のために献身的な治療を行い。その治療に生涯を棒げ、わずか40歳という短い人生をまっとうされた大正時代の女医である服部ケサさんの物語が、今の時代にしっかりと伝わっていること
このことが、「たったひとりの小さな一歩でも、波紋はかならず大きく広がり、みんなの力は次第に大きくなって、かならずや岸辺に達する」を証明しているのかもしれません。
※このお話は「伝えたいふるさと100のお話」を参考にして書かせていただきました。

