20160907 原惣右衛門
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原宗右衛門は、赤穂城明け渡しの後も、赤穂城下に住んでいました。
ある日、大石内蔵助から秘密の相談があるとの書状をもらいました。
惣右衛門は、母に
「事情があって京都に参ります。
 ことによっては、さらに江戸に向かうことになるやもしれません。
 いずれにせよ、ひと月ほどは帰れないと思います。
 その間、母上には御不自由をおかけしますが、
 どうかお暇をいただきたいと思います」と申しました。これを聞いた母は、
「あなたは、江戸に行ったら、もう帰らないおつもりか」と訊ねました。
惣右衛門が黙っていると母は、
「武士は先祖代々禄を頂戴する身です。
 主君のために一命を捨てることは、すでに定まっていることです。
 母に悔いはありません。
 ですからあなたは、随分、意思を堅固にして志を遂げなさい。
 必ず未練の働きがあってはなりません。
 万一、それでおくれをとり、命をまっとうして帰るなら
 母は二度とあなたと対面はいたしません」と静かに申されました。


惣右衛門はつつしみ、
「このたびの謀(はかりごと)は密と承っています。
 大石様からは、密かにと、仇討のことをご相談いただいています。
 たとえ親子の間といえども、洩らさないことが先君様への忠です。
 そのために母上様にもいままで、
 このことを包み隠していましたことをおゆるしください。
 ただ、心にかかるのは、
 ご老体の上、私が果てましては誰が後に残ってご養育仕るのか。
 このことのみが、嘆かわしいのです」
このように落涙して申しますと、母は大いに怒りました。
「忠孝をともにまっとうするのは不可能なことです。
 主君の仇を報ぜんとする者が、
 老婆ひとりの故をもって大事を誤るのですか。
 すぐに行きなさい。
 今生の対面は、これきりです」
こうして惣右衛門は涙を流して母と別れて京都に至るのですが、このとい大石内蔵助は重い病で臥せっていました。惣右衛門は、一心に看護します。
京都滞在の数日後、どうしても母の身が案じられた惣右衛門は、内蔵助にその次第を告げて、再度帰郷して母の安否を伺いました。
母は、そんな惣右衛門をいぶかりました。惣右衛門は、
「大石様が病のため、発足が少し延びたのです。それで帰ってこれました」と言いました。
母はしばらく黙っていました。惣右衛門は、そんな母に酒を進めて、数杯を傾け談話しました。
夜が更け母子は、それぞれ寝所に入りました。
翌朝、いつもなら夜明けとともに起きだす母が、起きて来ません。
惣右衛門は、下女に、母の様子を伺いにいかせました。
下女が驚いて大声で叫びました。
惣右衛門は、母の寝所に走りました。
母は、自害して果てていました。
脇に、一通の文がありました。
 過ぎし日の暇乞(いとまご)いの折から、
 かえすがえすも母ありと思うべからずと申し聞かして来ました。
 けれどあなたは帰って来ました。
 それは、孝行に似た不孝です。
 とかくとかく老いた母が世にながらえているがゆえに
 このような不覚を見ることになりました。
 ですから、先に自ら死んであなたに義を教え、
 武士に恥が許されないことを示します。
 これは子を思う道です。
 あなたも50歳を越えました。
 もう中老です。
 ですから申すに及ばないことですけれど、
 町人百姓は、義不義によらずに
 ただ命を大切にして父母を育みます。
 これも人の道です。
 けれども武士の家に生まれては、
 義とご恩に一命を捨てて報いることが人の道です。
 あなたは、母のことに心がひかれている様子です。
 老いた心のひがみで、このように成り行きになりました。
 あなたはいよいよ心をかため、
 亡き先君の御ために、命を捨てて給わるべく。
       かしこ
惣右衛門は後悔はするけれど、その甲斐もなく、野辺送りを営みました。
その後の惣右衛門の心は、鉄の石のようになりました。
やがて江戸に下った惣右衛門は、義士46人とともに、主君の仇を討ち、その名を天下に顕しましたが、それはこの母の故をもってののことでした。
以上のお話は、江戸中期成立の逸話・見聞集である『明良洪範』からの抜粋ですが、赤穂浪士ファンの方なら、結構このお話をご存知の方も多いのではないかと思います。
少し補足しておきます。
なぜ、武家の母がここまでの覚悟を持っていたかについてです。
それは母の遺書の中にあります。
「町人百姓は、義不義によらずにただ命を大切にして父母を育みます。これも人の道です」というところです。
ここで、「町人、百姓」と母は書いています。
江戸時代、町人も百姓は、天子様の大御宝と考えられていました。
その大御宝をお守りし、城下の誰もが豊かに安心して安全に暮らせるようにと、天子様から直接に、あるいは将軍を経由して藩を任されているのがお殿様でした。
そして武士がそのお殿様に代々お仕えして禄を食むということは、生まれたときから死ぬ日まで、大御宝を預かる身として、人々の模範となって生きるということを意味しました。
この点について、近年の映画もドラマも小説も学校教育においてさえ、何か大きな履き違えをしているように思えてなりません。
武士は君臨していた、庶民から搾取していた、威張っていた等々、いったいどこの国の話をしているのでしょうか。
武士は腰に刀を差します。
武家の女性も、胸に常に懐刀を所持しました。
けれど武家の女性たちは、その懐刀を、常に袋に入れて所持していました。
袋に入っていれば、いざというときに抜くのに手間がかかります。
つまり、身を護ったり、人を斬るためであれば、袋に入れていては役にたたないのです。
ではなぜ袋に入れて懐刀を所持していたのでしょうか。
答は、自害のためです。
恥をかかぬよう、いざというときは自分が死ぬために、懐刀を常時携帯したのです。
いま、ほとんどの人がスマホを持ち歩いていますが、それと同じくらい、武家の女性にとって、懐刀は身近で大切なものだったのです。
人の上に立つ、大御宝を預かるということは、それほどまでの覚悟を常住坐臥必要とすることです。
民衆の上にただ君臨し、搾取するなら、護身用の刀は懐に、しかも袋に入れて持つことはありません。
そしてそういう心がけの延長線上に、原惣右衛門の母の死があります。
天子様のたいせつな大御宝をお預かりするということは、そこまでの深い決意と覚悟を要するものであったし、その覚悟を持つことが、男女を問わず当然と考えられてきたのが、武家社会というものであったのです。
お読みいただき、ありがとうございました。

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