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←いつも応援クリックをありがとうございます。戦前戦中戦後にかけて、多くの軍人さんや元軍人さんたちに愛され続けたものに和歌や俳句があります。
いまでも新聞や雑誌のなかには、たくさんの文芸作品が掲載されています。なぜこれほどまでに短文字の詩歌が愛され続けているのでしょうか。
古来、和歌や俳句はあらゆる日本文化の原点と言われてきました。
なぜなら古典といわれる和歌や俳句は、その文字上に書かれていることだけではなく、その文の外に歌意があるからです。
たとえば和歌です。
和歌には上の句と下の句があります。
その上下はいわばベクトルです。
そして上下二つのベクトルで指し示した三角形の頂点、そこに作者の真意があるとされてきました。
歌を読む者は、その二つのベクトルで、詠み手が真に言いたかったこと、伝えたかったことを読み解きます。
そしてその歌の真意に気付いたとき、読み手は大きな感動を得ることができます。
表面に書いてあることではなく、その奥に書かれている、つまり文字に書いてないところにある真意を読み解く、あるいは察するという文化が、実は、現代にもある、日本人の思いやりの心や、相手への細やかな気遣い、気配りに通じています。

そこでひとつ例をあげます。小倉百人一首にある素性法師の歌です。
今来むといひしばかりに長月の
有明の月を待ち出でつるかな
この歌は、現代語に直訳すれば「すぐに帰って来るよと、あの人は言って出て行ったけれど、あれから長い月日が経って、とうとう晩秋の明け方の月になってしまいましたわ」という歌です。
「待ち出でつるかな」は女言葉で、最近の百人一首の解説書などをみると、この歌はお坊さんが女言葉で歌を詠んでいるから、この歌を詠んだ素性法師はいわゆるオカマのオネエに違いなく、彼氏が出て行ったきり帰ってきてくれないことを嘆いているのだと解説しているものがあります。
けれど違うと思うのです。
以下は私の解釈です。
素性法師は、お坊さんになる前は、俗名を良岑玄利(よしみねのはるとし)といって、左近将監(さこんのしょうげん)であった人です。
左近将監といえば、近衛大将(左近衛大将・右近衛大将)の一角で、同じ役職をいただいた歴史上の人物といえば、徳川家康がこれにあたります。
戦前でいえば陸軍大将、戦後であれば陸自の幕僚長に相当する高官です。
そのいわば陸軍大将が、官位を捨て、家も捨てて出家しています。
出家は、この世の生を捨てて生まれ変わって別な存在(仏に帰依した僧)となるということを意味します。
問題は、なぜ身分のある良岑玄利が身分を捨て、家を捨ててまでして出家して法師になったのかです。
これはいってみれば徳川家康公が、その地位を得た後に、お坊さんになって出家するようなものです。
これがたいへんなことであることは想像に難くありません。
もともと素性法師は九~十世紀初頭にかけて生きた人です。
藤原純友の乱など、諸国で争いが相次いだ時期にあたります。
そういう時代にあって、良岑玄利は陸軍大将(左近将監)の要職にありました。
彼が左近将監をしていた時代の戦が、具体的にどの戦を指すものなのかは、はっきりとはわかっていません。
ただ歌に「有明」と出てきていることから、地名と夜明けを掛けて九州での大きな戦であったのかもしれませんが、それは歌からはわかりません。
ただ良岑玄利はその戦の最高責任者として指揮を執ったのであろうことは、役職上、当然のことです。そして戦となれば多くの血が流れます。
戦いは、良岑玄利の名指揮によって勝ったからこそ彼は都に戻ってくることができました。
けれどその戦のあと、良岑玄利は出家し、戦で亡くなった兵たちの家を一軒一軒、尋ねてまわって、その家の仏壇に手を合わせ、経を唱える旅をしているのであろうと思われます。
旅をしたという具体的な記録があるわけではありません。
歌が、そのことを如実に物語っているのです。
なぜならこの歌は、女性の言葉で書かれた歌だからです。
彼が諸国を訪ね歩いたある日、尋ねて行った先は亡くなった兵の家です。
そこにいたのは、兵の妻なのか母なのか、姉なのか妹なのかはわからりません。
けれどその女性が、
「あの人(子)は、戦に出発するときに、
今度の戦いは、簡単な戦だから、
きっとすぐに帰れるよ(今来む)と
言いのこして出て行ったんですよ。
だからきっと帰ってきてくれるに違いないって、
ずっと待っていたのです。
あれから何カ月も経ちました。
もう晩秋です。
有明の夜明けに月が出る季節になってしまいました。
それなのに、あの人はまだ帰って来てくれないんですよ。」
そう言って、一筋の涙をこぼす女性の前で、ただうなだれるしかなかった、出家した元左近将監、この歌は、そのときのことを詠んでいるのであるかと私は思うのです。
旅を終えた素性法師は、その後、仏門の世界で権律師(ごんのりっし)になっています。
権律師というのは、坊さんとしては、僧正、大僧都(だいそうず)に続く高い位です。
俗世で身分が高かったからというだけで就けるような位ではありません。
仏僧としての実績がなければなれない位です。
素性法師の、そうした姿があったからこそ、彼は万人が認める高僧となったのです。
この素性法師のような話は、日清、日露、あるいは日華事変や大東亜戦争の時にも、たくさん残っています。
松井岩根大将もそのひとりです。
大将は戦地の岩を取り寄せて興亜観音を寄進しています。
乃木大将は日露戦争の戦没者のために、全国の神社に「忠魂碑」を寄進し、全国の慰霊の旅をされています。
少し古い話ならば、戦国時代の名将が、出家して仏門に入り、なくなった将兵の御霊を安んじることに生涯を捧げたという話なども、たくさん残っています。
以下は大東亜戦争で特攻隊を送り出した玉井浅一司令のことです。
司令は戦争が終わった昭和二十二年の猛暑の日、愛媛県の関行男大尉の実家に、大尉の母のサカエさんを訪ねて、関大尉の母に両手をついて深く頭を下げると、次のように言ったといいます。
「自己弁護になりますが、簡単に死ねない定めになっている人間もいます。
私は若いころ、空母の艦首に激突しました。
ですから散華された部下たちの、
その瞬間の張りつめた恐ろしさは少しはわかるような気がします。
せめてお経をあげて部下たちの冥福を祈らせてください。
祈っても罪が軽くなるわけじゃありませんが」
この後、玉井司令は、日蓮宗のお坊さんになりました。
そして海岸で平たい小石を集め、そこに亡き特攻隊員ひとりひとりの名前を書いて、仏壇に供えました。
そしてお亡くなりになるその日まで、彼らの供養を続けられています。
昭和三十九年五月、江田島の海軍兵学校で、戦没者の慰霊祭が行われました。
そのとき日蓮宗の導師として、枢遵院日覚という高僧が、役僧二人をともなって着座しました。
戦友たちは、その導師が玉井浅一さんであることに気づきました。
玉井さんの前には、軍艦旗をバックに物故者一同の白木の位牌が並んでいました。
位牌に書かれたひとつひとつの戒名は、玉井さんが、沐浴(もくよく)をして、丹精込めて、何日もかけて書き込んだものでした。
読経がはじまると、豊かな声量と心底から湧きあがる玉井さんの経を読む声は、参会者の胸を打ちました。
来場していた遺族や戦友たち全員が、いつのまにか頭を垂れ、滂沱の涙を流しました。
会場に鳴咽がひびきました。
導師の読経と、遺族の心が、ひとつに溶け合いました。
その年の暮れ、玉井浅一さんは六十二年の生涯を閉じました。
武将であれば、国を護るために戦わなければなりません。
けれど戦えば、敵味方を問わず、尊い命をたくさん失うことになります。
戦えば人が死ぬのは当たり前と、人の命をなんとも思わない将軍や王が、世界の歴史にはたくさん登場しますが、日本の将は、昔も現代も部下たちの命を、どこまでも大切にしてきたのです。
この素性法師の歌は、そういう日本の武人の心を、見事に象徴しているのです。
この歌を百人一首に選んだ藤原定家は、この歌の詠み手の名前に、元の左近将監だった頃の良岑玄利の名ではなく、そっと「素性法師」と添えました。
その心、それが、古来変わらぬ、日本人の心なのだと思います。
人には言葉にできない思いがあります。
その言葉にできない思いを描くために、万言を用いるか、それとも短い言葉にその思いを凝縮するか。
それは文化の違いといえるかもしれません。
日本人は、たった三十一文字の和歌の中に、伝えたい思いを凝縮する技術を築きました。
そしてその和歌の心が、いまなお、多くの日本人の心の中に息づいています。
お読みいただき、ありがとうございました。


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