
自転車といえば、いまでは本当に一般化した乗り物です。
自転車の先祖は、1817年にドイツのカール・フォン・ドライスによって発明された木製の乗り物で、ドライジーネ (Draisine)というものなのだそうです。
二輪ですが、ペダルやチェーンはついていません(上の図)。
自転車はその後、次々と進化を重ね、いまでは、一般的なママチャリだけでなく、マウンテンバイク、折りたたみ式、電動アシスト式など、ものすごい種類の自転車が販売されています。
自転車による最高速度の記録としては、平地での公式最高速度記録として、1995年10月3日にオランダのフレッド・ロンベルバーグが記録した268km/hというものがあるそうです。
すごいですね。
スポーツタイプの自転車には、外装式ギヤチェンジがついていますが、ママチャリですと、内装式3段のギヤチェンジのものをよく見かけます。
この内装式ギア、なかには14段変速なんてものもあるのだそうです。ねずきちもびっくりです。

実はこの自転車が、農業効率化のための農機具発明の原点となった、というのが今日のお話です。
いまから120年ほど昔のことです。
当時の農作業は、田を起こすのも稲をこぐのも、ほとんどを手作業に頼っていました。
田は、手作業で鍬(くわ)で耕します。
田植えも、一株ごとに、手で植えます。
秋になると、千歯(せんば)という道具を使って稲こぎをします。
千歯というのは、長細い鉄の歯を、髪の毛をとかすときに使うクシのように並べたもので、その歯の間に稲をはさみ、引っ張って籾(もみ)を落とすものです。
この千歯は、元禄時代にいまのの大阪府高石市高師浜で考案されたもので、日本の古式の脱穀用農具です。

木の台の上から鉄製、もしくは竹製の櫛状の歯が水平に突き出した形をしていて、木製の台に付属した足置きを踏んで体重で固定し、櫛状の歯の部分に刈り取った後に乾燥した稲や麦の束を振りかぶって叩きつけ、引いて梳きとります。
力がいるし、時間もかかる。とてもたいへんな仕事です。
島根県の東出雲町に、佐藤忠次郎が生まれたのは、明治20(1887)年のことです。
忠次郎は、12歳のとき、父が目の病気にかかり、働けなくなってしまった。
一家の生活を見なければならなった忠次郎は、せっかく進学した高等小学校を辞め、親戚の農業の手伝いをして収入を得るようになります。
14歳の時、生家近くの宝満山で銅の採掘が始まります。
彼はそこへ坑夫として通うことになった。
ある秋の朝のことです。
銅山への道を古い自転車で走っていた忠次郎は、誤ってハンドルをとられて転んでしまいます。
起き上がってみると、横転した自転車の車輪がまだ回転している。
その回転する車輪が、道端に垂れている稲穂に触れている。
そしてパラパラと稲穂が飛び散っている様子を見ます。
彼の頭の中に、何かがパチンと閃きます。
速く回転するものに稲穂を当てれば、力を用いなくても能率よく籾が落ちるのではないか。
忠次郎は、新しい稲こぎ機をつくり出そうと研究に取り組みます。
しかし考えたものを作るには、金属を熱して鍛える技術がいります。
「そうだ。鍛冶屋の仕事を習おう。そうすれば、自分で機械をつくれる」
忠次郎は、銅山の仕事をするかたわら、暇をみては鍛冶屋の仕事の手伝いに行った。
仕事を覚え、自分で金属の加工ができるようになると、土間を仕事場にして、あれこれと試作品を作ります。
「一度にもっとたくさんの籾(もみ)を落とすことはできないか」
「こんなに力を入れなくても、籾を落とすことはできないか」
忠次郎の研究への意欲はますます大きくなっていきました。
考えてはつくり、また考えてはつくり直すという努力を続けます。
ところがその間に、祖父が亡くなり、祖母も亡くなり、ついには母まで亡くなる。
父は、目の病気がすこし快復し、農作業を始めた。
忠次郎は、銅山から帰ると、父の農業を手伝い、夜遅くまで研究を続けます。
働きながら、忠次郎は「もっと効率的に仕事できるような機械は作れないものか」と考えます。
「足で踏むとうまく回転するようになったなあ。これに稲の穂をあてれば籾がよく落ちるのではないか」
「歯が切れすぎて籾が傷ついてしまう。これでは使えない」」
「針金を歯にしたらどうだろうか」
「歯を三角形の山の形にしたらどうだろう」
忠次郎はつくってはやめ、つくっては壊しました。
家の外には、試しにつくった機械の山ができる。
こうして、大正3(1914)年、忠次郎27歳のとき、ついに回転式稲こぎ機ができあがりました。
最初のひらめきから、13年の月日が経っていました。
忠次郎はできあがった回転式稲こぎ機を、5台作り「サトー式稲麦こぎ機」と名付けて、近くの農家で試してもらいました。

新しい機械の評判はなかなかよく、明くる年には30台をつくって島根県各地へ出荷し、やがてその機械は日本全国へ、広がっていきました。
その後も、田の土をほり起こして草を取る除草器も発明し、忠次郎は農家の人々に大変喜ばれましす。
また忠次郎は、大量に農機具を作り、ねだんを安くすることに努めたので、農機具は、県内はもとより、日本全国、そして、タト国にまで広がっていった。
こうしてできた会社が、佐藤造機株式会社、後の三菱農機株式会社です。
いまでは、三菱農機株式会社は、クボタ、ヤンマー、ヰセキに次いで、国内シェア第4位、資本金30億円、年商620億円、取扱品目は、トラクタ・耕耘機・管理機等整地機械、田植機・野菜移植機等栽培用機械 コンバイン・バインダ・ハーベスタ等収穫調整機械、その他農業機械、育苗・米穀・花卉栽培・菌床栽培・低温処理等施設、各種ハウス等建築土木工事、 生ゴミ処理機等廃棄物処理装置、その他産業用機械も扱う会社となっています。
ねずきちも子供の頃、自転車でよく転びましたが、イテテテテ!となるばかりで、まさかその自転車から回転式稲扱機なんて、まるで思いつきませんでした(笑)
佐藤忠次郎は、決して豊かだったわけではありません。
むしろ貧しさのどん底の中にいた。
それでも忠次郎は、希望と夢を失わず、まじめに努力をし続けた。
そして14年かかって、夢をカタチにした。
きっと「なにもかも揃っているから何かができる」というものではないのだろうと思います。足りないから工夫する。努力する。
そしてその努力を何年も続けた先に、大きな結果があるのだろうと思います。
いま、日本の危機に際して、それぞれの立場で、それぞれの人が、日本を取り戻すための保守活動を始めています。
ひとりひとりができることは、ほんのちょっぴりかもしれません。
けれどたいせつなことは、きっと日本は復活する、絶対に再生するって希望をもち、夢を抱いて、日々、少しずつでも努力を重ねること。
足りないと嘆くのではなく、ひとりひとりが「勇気をもって前に向かって進む」ことなのではないでしょうか。
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