右の柱「尊朝愛国(そんちょうあいこく)」
左の柱「売身輪忠(ばいしんゆちゅう)」

日本で最初に「愛国」という文字が使われたのは、いまから約1300年前、第41代持統天皇が持統4(690)年に、大伴部博麻(おおともべのはかま)という兵士に与えた「勅語」が最初とされています。
これは、日本書紀第三十三巻持統天皇に記された言葉で、そこには次のように書かれています。
「朕嘉厥尊朝愛国 売己顕忠」
意味は、おおよそ次のようなものです。
(朕は、朝廷を尊び、国を愛し、己(おのれ)を売ってまで忠を顕したことを感謝する)
持統天皇は、大伴部博麻に、従七位下の位を与え、絹織物十反、真綿十屯(1.68㎏)、布三十反、稲千束、水田四町の報酬を与え、さらに課税を父族、母族、妻族まで免じています。
そして今日にいたるまで、天皇が一般個人に与えた「勅語」というのは、これが最初で最後です。
では、大伴部博麻は、いったい何をした人なのでしょうか。
斉明6(660)年、唐は、新羅の求めに応じて、蘇定方(そうていほう)を将軍に任じ、山東半島から13万の軍勢に海を渡らせ、百済に上陸し、百済王都を占領します。
百済の義慈王は、熊津に逃れるけれど、間もなく降伏し、この年の6月7日、百済国は滅亡します。

滅ぼされた百済の遺臣は鬼室福信・黒歯常之らを中心として百済復興の兵をあげ、日本に滞在していた百済王の太子豊璋王を擁立し、百済国の復興を企図します。
そして日本に救援を要請した。
中大兄皇子はこれを承諾します。
そして当時68歳だった斉明天皇に働きかけ、朝鮮半島出兵の決定を仰ぎます。
斉明天皇は、中大兄皇子らとともに九州に渡り、筑紫国の朝倉宮(現在甘木市宮野村)を行在所に定め、大本営を設置します。
このとき、中大兄皇子、大海人両皇子を乗せた軍船に、二人に愛された額田王(ぬかだのおおきみ)も乗っていた。
額田王がこの時詠んだ歌が、有名な、
熟田津(にぎたづ)に
船乗りせむと月待てば
潮もかなひぬ 今こぎいでな
そして筑後国から、大宝律令に基づいて、陽郡(やめごおり・現福岡県八女市)から、20歳から60歳まで農民の男子を徴兵し、三個軍団(約9千人)を編成します。
このとき、八女から一兵卒として徴用された中のひとりが大伴部博麻です。
ちなみに大伴部(おおともべ)の「部」は、古代の部民制を意味します。
したがって、大伴部の博麻という名前は、九州の豪族「大伴氏」に属する何らかの職業集団(部)の一員であった博麻(はかま)君という意味になります。
さて、いよいよ百済へ出陣という斉明7(661)年、斉明天皇は朝倉宮で崩御(ほうぎょ)されます。
そして斉明天皇の後任として、中大兄皇子が「天智天皇」として即位します。
天智天皇は、征新羅将軍に、阿部比羅夫(あべのひらふ)を任じます。
阿部比羅夫という人は、この百済遠征軍の大将をおおせつかる4年前、水軍180隻を率いて、蝦夷を征伐した実績のある将軍です。
征新羅軍は、那の津(博多港)から3班に分かれて朝鮮半島に出発します。
先遣隊 1万余人 661年5月出発
主力隊 2万7千人 662年3月出発
後続隊 1万余人
という編成です。
日本の戦闘構想は、まず先遣隊とともに豊璋王を帰国させ、百済復興軍の強化を図る。
そして主力軍の参入により、新羅を撃破したあと、後続隊の到着を待って唐軍と決戦するという考えです。
天智2(663)年、豊璋王率いる百済復興軍は、日本の援軍を得て、百済南部に侵入した新羅軍を駆逐します。
このままでは危ないとみた新羅は、再び唐に増援を依頼します。
唐は、劉仁軌率いる水軍7000名を派遣し、部隊は白村江に集結します。
日本と百済の連合軍は、10日遅れで白村江に集結した唐・新羅連合軍に戦いを挑むけれど、火計、干潮の時間差などを利用した唐・新羅水軍に大敗し、白村江に集結した1000隻余りの倭船のうち400隻余りを炎上させられ、大敗します。
日本水軍は、各地で転戦中の陸上軍および亡命を望む百済遺民を船に乗せ、唐の水軍に追われる中、やっとのことで帰国した。
これが白村江(はくすきのえ)の戦いです。
ちなみに当時の唐は至るところで諸民族を征服しています。
丁度このころの唐の勢力圏は中華史上最大のものです。
また、この時参加した唐の水軍は、主力は女真族(満洲人)で構成されていたといいます。
さて、この戦に一兵卒として出征した大伴部博麻は、唐軍の捕虜となり長安に連行されます。
連行された博麻らは、捕虜とはいえ拘束されることなく自由に長安を往来できたようです。
そんななかで博麻はある日、「唐の軍隊が日本襲来を計画している」との情報を耳にします。
唐の軍隊が日本に攻めてきたら大変です。
日本にとっての一大事です。
大勢の人が殺されてしまいます。
「なんとしてもこのことを、日本に知らせなければならない」
しかし虜囚の身です。
旅費がない。
博麻は、土師連富杼・氷連老・筑紫君薩夜麻・弓削連元宝の子の四人の仲間にこう言います。
「ワシを奴隷に売れ。そのお金でおまえが日本に帰るのだ。そして唐による日本襲来計画のことを伝えてくれ」
博麻は奴隷に売られ、その売却代金をもとに、四人は衣服、食料、旅費を調達して、日本に向かいます。
天智10(671)年、四人はようやく対馬に到着します。
四人の報告は、直ちに「筑紫國大宰府政庁」に伝えられ、天智天皇に奏上されます。
情報は生かされ、天智天皇は、大宰府沿岸の警備を強化し、また都を近江に移して、国土の防衛を図ります。
一方、博麻は、ひとり唐の地にとどまること20数年、知り合いの唐人から、日本に行くが一緒に来ないかと、声をかけられます。
そして日本書紀によれば、持統4(690)年10月、博麻は30年の年月を経て、ようやく日本に帰ってきます。
この、己の身を奴隷に売ってまでして情報を伝えた「大伴部博麻」の国を想う忠誠に、時の女帝・持統天皇が、博麻に贈ったのが、冒頭の勅語と、階位と報償の数々でした。
そしてその勅語の中に「愛国」の言葉がうまれたのです。
「愛国」という言葉は、近年では、単に戦時用語の一種であるかのように思われがちな言葉となっています。
しかし「愛国」という言葉は、この物語が示すように、いまから1300年以上も昔から使われている、「国を思い、身を捨てても国、すなわち『みんなのために』尽くす」という、意味が込めた言葉であるとわかります。
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日心会のMLでこの物語が紹介されたとき、ゆみさんが、次のようなメッセージを下さいました。
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そんな大昔から、身を捨ててまで、日本を守ろうとした人がいたのですね。
そんな方々が守り通してくれた日本を、私利私欲のために平気で、外国に売り渡す政治家たちに好き勝手されてたまるか!!
外国人参政権、断固反対!!
美しい日本を次の世代の子供たちに残してあげれるように頑張りましょう!
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ぼくもまったく同感です。
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~白村江の戦と大伴部博麻~

