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大日本帝国の国旗

上の旗は、大日本帝国の国旗です。
日本国の国旗と大日本帝国の国旗とは丸の大きさと縦横の比率が違います。
すこし、赤丸が大きいです。
個人的には、大日本帝国の国旗の方が、好きな気がします。
さて、この国旗はどこの国の国旗でしょうか。
連合国統治領日本の国旗

実はこれも日本の国旗です。
連合国統治領日本の国旗でした。
二度とこんな国旗は掲げたくないものです。
次の国旗は、どこの国のものでしょう。
満洲国国旗

実はこれ、満洲国の国旗です。
黄色い広い部分があり、左上に四色があります。
「五族協和」をイメージしています。
黄色は満州民族と統一、赤は大和民族と情熱、青は漢民族と青春、白はモンゴル民族と純真、黒はKoreanと決心を表しています。
満州国は、1932年から1945年までのたった13年間、現在の中国東北部に存在した国家です。
かつて、東亜の平和と統合の象徴として築かれた満洲国。
いま、満洲国は地球上に存在しません。
しかし、かつては一つの国家として、まるで奇跡のような素晴らしい建設と発展を遂げた国でした。
満洲について語るとき、多くの歴史教科書や左翼系学者は、昭和6(1931)年の柳条湖事件に端を発した満州事変、これによる帝国陸軍の満洲占領をきっかけとして、昭和7(1932)年の満洲国建国が行われた、と語られることが多いようです。
そういう記述は、実は故意に日本を貶めようとする罠(わな)です。
赤穂浪士の討ち入りを、討入当日だけを切り出して、四十七士が、爺をみんなでよってたかったいじめた物語とするようなものです。
歴史には、常に流れがあるのです。
満洲というのは、もともと、広大な原野の土地です。
そこには、半農半牧の女真族がいて、広大な原野で静かに暮らしていた。
女真人には、顔立ちに特徴があります。
面長で、眉が薄い。
漢人が卵型、朝鮮人がえらが張っているのと同様、女真人にも特有の特徴がありました。
女真人と言うのは、清王朝を興した種族です。
いまから400年近く前、Chinaの明国の治世が乱れ、国内が内乱状態となります。
そこで多くの漢人たちが、万里の長城を越えて、女真人の土地に流れてきた。
悪さばかりします。
徒党を組み、農地を襲い、家畜を奪い、農場主に暴行を加えた。
やむなく女真族は、ヌルハチが八部族を統一して、明を攻め滅ぼします。
そして漢族の首都である北京に紫禁城を構えて、そこに移り住んだ。
マキャベリの君主論には「統治に従わない国家制するためには、国王がその国に出向いて、直接統治をせよ」というくだりがあります。
17世紀のはじめ、明国を攻めたヌルハチも、その通りの実践をしたのです。
彼は、明を滅ぼすと、みずから北京に移り住み、清国を建国します。
そして学問好きだった清の皇帝が、女真族の聖地である万里の長城以北の地を、文殊菩薩の名前をもじって、マンジュ=満洲と呼んだ。
そして、満洲の地には漢人立ち入るべからずという制度をひきます。
北京に本拠を構える女真族の清王朝にとって、満洲は聖地だったのです。
ところが、清朝末期になって、ロシアが露骨な南下政策を推進してきます。
このまま放置したら、満洲も朝鮮半島も、いずれロシアの植民地にされてしまう。
そうなったら、国力の弱い日本は、あっという間に、ロシアに蹂躙されてしまう。
ロシアに蹂躙されたらどうなるか。
そのことは、日本が大東亜戦争終結のとき、実際に体験しています。
女は死ぬまで強姦され、家族は財産を没収され、抵抗する者は容赦なく殺された。
そういう現実が目の前に迫ったとき、日本の明治政府は、朝鮮王と交渉し、共同してロシアの侵略から両国を守ろうと提言します。
ところが当時の朝鮮は、清の属国です。
みずからの力ではなにひとつ決めることができない。
やむをえず日本は清と交渉するのだけれど、清はなにも手を打つことなく、自国の領土が欧米列強に食い散らかされ、民が奴隷として私財や自由を収奪されるにまかせている。
皇帝以下の王族は、広いChinaの大地をいくら食い散らかされても、相変わらずの贅沢暮らしができるかもしれないが、民は不幸です。
家財を没収され、奴隷にされ、男は生涯苦力に、女は生涯なぐさみものにされた。
あげくのはてが、清国政府は、日本に対して余計な口は出すなとばかり、無防備な日本の船舶を攻撃したりしてきた。
欧米列強に下手に手出しをすれば、苛烈な報復が待っています。
ところが、日本は下手に紳士だから、少々軽くあしらっても、話し合いで解決しましょうと言ってくるだけで、直接的な報復はしてこない。
報復がないから、平気で攻撃する。昨今のシーシェパードと同じです。
相手が日本で、日本はやさしくて、なんの報復の心配もないから、徹底的にいたぶり、嘘八百を並べ立てて攻撃する。
同じことを、日本と同様クジラを獲るフィンランドあたりには、絶対に彼らはしません。
なぜか。報復が怖いからです。
弱きを助け、強きをくじくのが正義である、なんてのは、日本の常識、世界の非常識です。
世界は弱肉強食。強い者に対してはどこまでも媚びへつらい、抵抗しな相手には、どこまでも居丈高になる。
ロシアの脅威が迫っているのに、清はなにもしない。
日本は清に、互いに連携し、ロシアの南下に対抗しましょうという。
どうやって対抗するのかといえば、清は国力があるから(当時の清は日本の何十倍もの国力があった)、一緒にロシアと「話し合いで解決しましょう」。いつぞやの反日左翼と同じです。「話し合い」が最終兵器と思っている。
これでは清にすら相手にされません。
大国清の国力を利用して、自らは戦わずにロシアの脅威を防ごうとする。
そんな日本を、清は侮ります。
清は、日本の商船を平気で襲うようになった。
先に書いたシーシェパードと同じです。
軟弱だから襲われる。
これ対し、日本がついに堪忍袋の緒を切らして立ち上がったのが日清戦争です。
日清戦争は、陛下率いる帝国軍人たちの必死の努力で、辛くも勝利します。
そして日清戦争のあとの下関条約(明治28(1895)年)で、日本は清国から「永遠に」遼東半島の主権ならびに該地方にある城塁、兵器製造所及び官有物の割与を受けました。
「永遠に」です。
下関条約に、はっきりとそう書いてある。
このとき割与を受けたところは、他に台湾、澎湖諸島があります。
日本にしてみれば、もともとがロシアの南下(侵略)から日本を守ろうとして始めた戦争です。
台湾はともかく、遼東半島とそこにある旅順港は、日本の対ロシア対策として、どういうカタチであれ、押さえておく必要のある場所です。
このことは、逆にロシアにしてみれば、南下政策にあたってどうしても必要な旅順の港を日本に取られたのは、大失策です。
なぜなら寒国ロシアにとって、太平洋側の足がかり(不凍港)となる旅順はどうしても必要な土地だったからです。
ロシアは、極東に艦隊を派遣して日本に圧力をかけるとともに、ドイツ、フランスと組んで日本の権益に干渉します。
これが、明治28(1895)年の三国干渉です。
三国干渉の際の文言は、概略次のようなものです。
~~~~~~~~~~
日本による遼東半島所有は、清国の首都北京を脅かすだけでなく、朝鮮の独立を有名無実にし、極東の平和の妨げとなる。
従って、半島領有の放棄を勧告し誠実な友好の意を表する
~~~~~~~~~~
つまり、「日本の遼東半島を領有」は、北京に対する脅迫で、「朝鮮の独立」を否定するものだという。いいがかりもはなはだしいです。
三国干渉は、こっちが入院加療中であることをよいことにして、イチャモンをつけてきて、2枚のTシャツのうちの1枚をよこせ!と言ってきたようなものですが、国力の乏しい日本は、とてもじゃないが、三国と戦うだけの力はありません。この干渉を受け入れざるをえなかった。
三国干渉を、文字どおりに解釈すれば、ロシア、ドイツ、フランスの三国は、もともと旅順は清の土地なのだから、まー、戦争があったとはいっても、あまりムキにならずに、返してあげなさいよ、と一見好々爺風の勧告に見えます。
その三国の意思が本当なら、旅順は清に返還され、外国がそこを領有することはありえない。
ところが日本が三国干渉を受け入れると、すぐにドイツは、明治30(1897)年には、宣教師殺害を理由に膠州湾を占領した。
フランスは明治32(1899)年に広州湾一帯を租借した。
イギリスは九龍半島・威海衛を租借してしまいます。
租借といえば聞こえはいいが、要するに領土の一部をぶんどって自国の領土にしたのです。
ロシアはどうしかというと、なんと清国の総理李鴻章に50万ルーブル、副総理の張蔭桓に25万ルーブルという大金を渡し、明治29(1896)年には、李鴻章・ロバノフ協定を結び、明治38(1898)年には、遼東半島南端の旅順・大連を租借してしまいます。
つまり、日本が返還したTシャツを、横からさらってしまった。
このあたりのドイツ、フランス、イギリス、ロシアの対応というのは、非常にわかりやすいです。
とくにドイツのように、たったひとりのドイツ人宣教師が殺害されたことで、いっきに領土的野心を全開にして大量のChineseを殺戮(報復)し、膠州湾を占領して、租借してします。
欧米には、こういう呵責な報復主義があって、だから舐められない。
いまだにChineseに恐怖を与え続けている。
香港などは、つい最近までイギリスが統治していたけれど、そのことにChinaがいちゃもんをつけたり、香港国内で、イギリス人を殺傷したり、暴動をおこしたり、英国人貴婦人を強姦したりという事件は、まるで発生していません。
苛烈な報復主義の相手と、いくらいじめても我慢する相手。
国際社会にあって日本にないもの。それは、良心を実現したいなら、それなりの武力をもち、言うことを聞くか、さもなければ死か、という二者択一を迫る迫力があるかないかなのかもしれません。
日本人はきれいごとをいうから、まず、暴力は振るわないし、振るっても、ごめんなさいと誤れば、すぐに許してくれる。
だから、日本に対してならいくらでも、平気で悪口を言える。
これが欧米が相手だと、下手なことを言ったら、あとでナニをされるかわかったものではない。必ず報復される。だから何もいわない。いわないごころか、ゴマをする。
もうひとつ大切な教訓は、ロシアが、清の総理や副総理個人に大金を渡して買収したという事実です。
権力を持ったものに大金を渡して懐柔するとともに、いうことを聞かないなら、徹底的に国を荒らして弾圧するぞと軍力を展開する。
三国志で、魏の曹操が、呉の孫権に、魏と提携しよう(属国になれ)と親書を送る一方で、80万の軍勢を赤壁に展開した。
仲良くしようと話を持ちかける一方で、言うことを聞かなければ圧倒的な軍事力で攻め滅ぼすぞと圧力をかける。これが古来外交の要諦です。
これが貨幣経済の発展とともに、さらに複雑になります。
中東の王族といえば、世界の大金持ちとして有名ですが、なぜ彼らが大金持ちなのかといえば、オイル資本が、「石油を安く売ってくれたら、王様に何百億献金しまっせ」とやっている。
それで相場よりはるかに下値で石油を買う。
王様が、個人で金を受け取らず、相場で石油を売れば、石油の売却益が庶民に分散され、庶民が豊かになります。
民を思う王なら、自己の利益よりも国民の生活が豊かになることを望む。
しかしそれでは、石油を格安で手に入れられないから、金を受け取らず、石油を相場で売るというなら、王宮にミサイルを撃ち込み、軍を上陸させて国を滅ぼすぞ、と脅す。
飴とムチ。これが世界の外交の常識といえるのです。
こうして、軍事力を展開するとともに、権力者にカネを与え、その国に言うことを聞かせ、実効支配するという手段は、現代日本でもみられます。
朝鮮半島や台湾では、Chinaからカネをもらった政治家が、政治権力をとり、自己の利益と引き換えに、国民に嘘八百を教え込み、民の生活の劣化を招いている。
日本では、戦後間もないころ済州島から密入国して日本に住みつき、GHQが朝鮮進駐軍を編成したとき、そこで利益を得て上野で貧しい日本人から戸籍を買って、地方に「進駐」した司令官の倅が、いま、Chinaからカネをもらい、日本を売り渡そうとしている。
先ほど中東の王族の話を書きましたが、第一次世界大戦以降の世界の大戦は、ある意味石油の奪い合いです。
第二次大戦の前には、東亜が石油産地だった。
それが中東に大油田が発見され、世界の火薬庫は、中東に移った。
いま、中東の石油が枯渇してきて、東シナ海の海底油田が、火薬庫になっている。
東シナ海は、Chinaと台湾と日本の国境が交差しているけれど、油田は国境とは関係なしに海底に広がっています。
その石油を露骨にモノにしようという極道国家が、のこりの二つの国の政治に介入し、国を乱しているというのが、いまの世相の根っこにあたります。
さて、話は飛びましたが、日本が遼東半島を清に帰すと、即座にロシアは遼東半島を清から取り上げて、これを自国の領土にしてしまいます。
もう領土的野心全開です。
だったら、あの三国干渉の文言は何なのさっ!などと、いまさら言ってもアトノマツリです。
そしてロシアは、旅順に世界最強ともいえる何重にも防御線を引いた要塞を築いてしまう。
これが後年、二百三高地の大激戦の舞台になります。
また旅順港に、ロシアは太平洋艦隊を停泊させます。
満洲もいっきにロシアの支配下に置いてしまいます。
いよいよ次は朝鮮半島を支配下です。
その向こうには日本がある。
なにせこの時代、世界で植民地化されていないイエローの国は、日本しかなかったのです。
日本には資源はないけれど、人間が働き者です。男には技術があり、奴隷に使うにはちょうど良い。
女は世界一美しい肌を持ち、年をとってもその美しさがかげらず、従順でおとなしい。なんとも世界で稀有な魅力を持つ民族です。
しかも、軍事的にみると、日本の港は凍らない。
ロシアの太平洋進出への足がかりになります。
日本は、そもそもロシアの南下を防ぐために、日清戦争を戦ったのです。
それが、結果として遼東半島をロシアに奪われ、ついでに満洲まで、奪われた。
これでは、なんのために日清戦争で、陛下と軍が多くの将兵の命を犠牲にして戦ったのかわからりません。
そもそも政府というものは、国民が最小の労力で最大の民益をあげるために存在しているのです。命を犠牲にして、最大の労力をかけたあげく、最小の成果では、政府はなにをやっているのかわからない。
あげくの果てが、朝鮮国王の妻の閔妃などが、せっかく日本が朝鮮のために開発してあげた鍾城・鏡源の鉱山採掘権や朝鮮北部の森林伐採権、関税権など、朝鮮国家の基盤ともいうべき権益を、個人や一族の贅沢のために、そくさくとロシアに売り払い、むしろ率先してロシアを朝鮮半島に引き込もうとします。
これも、上に述べた、買収工作です。
朝鮮には、教養がなくて贅沢好きな閔妃がいたから、ロシアにしてみれば、非常に工作がしやすかった。
最近、閔妃を明成皇后などといってもてはやす風潮があるけれど、そもそも当時の朝鮮はChina属国であり、国王は「王」です。「皇帝」ではない。したがって、「王」の妻は、「王妃」であって「皇后」ではない。
しかもその閔妃は、朝鮮の国家経営の柱ともいうべき、最大の国益(当時)を、ただ同然でロシアに売却しているのです。
いまの日本で言ったら、トヨタとマツシタと、ソニー、シャープに、JR、郵政と大手都銀の経営権を、ぜんぶまとめてChinaに売ってしまったようなものです。
売った閔妃とその一族は、個人的には大儲けできたし、贅沢三昧できたかもしれないが、そこで働く社員と、基幹産業を失った国民にとっては、地獄の日々が待っています。
日本は、あわてて国費を出して、朝鮮にこれらの買い戻しをさせています。
中途半端な似非平和主義が、よけいに話をこじらせていたのです。
ロシアの南下圧力を前に、日本は明治36(1903)年の日露交渉で、朝鮮半島を日本、満洲をロシアの支配下に置くという妥協案・・・いわゆる満韓交換論をロシア側へ提案します。
あたりまえのことですが、ロシアはこれを一蹴します。
ロシアは、かのナポレオンさえも破った世界最強の陸軍と、世界最強の海軍力を誇り、日本との国力は20倍以上あるのです。
日本の交換条件など、稚戯(ちぎ:幼稚な遊び)に等しい。
結局最後は、追い詰められ、追いつめられて、明治大帝陛下のご聖断を仰ぎ、やむなくロシアに宣戦布告した(明治37(1904)年2月)、つまり、政府が軍に泣きついた。
これが日露戦争です。
日露戦争は、軍部の必死の努力で日本の勝利に終わります。
間違えちゃいけないです。ほんとに「必死の努力」だったのです。
だから軍部は、勝利した勢いで、強引に停戦を政府に迫ります。
ところが日本政府の文民たちは、軍が戦いに勝利したとみるや、一転して、戦いの継続を支援しますなどと寝ぼけたことを言い始める。
「話し合い」という最終兵器があるから、軍などは必要ないといっていた文民が、結局話をこじらせて、日本を戦争に引きづり込んだと思えば、こんどはもっと戦えなどと言い出す。
しかし、奉天戦までで精いっぱいであることを認識している軍は、どうしてもと停戦を政府にせまった。
陛下は、政府に対し、絶対に停戦をするよう命じます。
明治38(1905)年)9月5日、アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトの斡旋によって、米国ニューハンプシャー州ポーツマス近郊のメイン州にある「ポーツマス海軍造船所」において、日本全権小村寿太郎とロシア全権セルゲイ・ウィッテの間で調印されたのが、「ポーツマス条約」です。
このあたりの国内の駆け引きや、政治と軍の動きを見ていると、やはり日本という国は、陛下を頂点に仰いで、武士が統治しなければ、どうにもならない国なのかと思ってしまいます。
いまでも一般の町人(会社員・商店)、農民、職人(製造業従事者)は、政治などは、雲の上のオカミたちが勝手にやっていることで、ワシらには関係ない、くらいの軽い気持ちしか持ち合わせていない人がなかにはある。
武人は常に命がけです。負けはすなわち死を意味します。
文民は、負けても死にません。言い訳をします。
話を戻します。
ポーツマス条約には、概略次のことが書かれています。
おどろくべきことに、これだけ情報が発達した現代においても、ポーツマス条約の全文は、なかなか手に入らない。ネットからでも探し出すのは困難です。
ウィキペディア(Wikipedia)などを見ても、ポーツマス条約については、いちばん肝心な第二条については、なぜか省略されて書かれている。へんてこな話です。
~~~~~~~~~~
【前文】日本国天皇とロシア皇帝は、平和を強く希求し、この条約の締結に至った。
第一条  ロシアは、日本が韓国における最高の政治的・軍事的・経済的利益を有することを認める。
第二条 ロシアは遼東半島を除いて、満州をChinaに返す。
第五条 ロシアは、日本がChinaの同意を得て、旅順、大連を租借することを認める。
第六条 ロシアは、China政府の同意を得て、長春以南の鉄道、付属利権を日本に譲渡する。
第九条 ロシアは、日本に南樺太と隣接するすべての島を割譲する。その境界線は北緯50度とする。また両国ともに樺太には軍事施設は設けないものとする。
第十一条 ロシアは、日本にオホーツクとベーリング海の漁業権を認める。
~~~~~~~~~
ポーツマス条約は、全文15条と付属文書からなる条約です。
日露戦争後に締結されたポーツマス条約で、明確に、ロシアは満洲をChinaに返すと約束します。
そして第五条、第六条の「China政府の同意」については、明治38(1905)年12月22日に、北京で、日本ー清国両国間の日清条約(満州善後条約)において、次のように取り決めがなされた。
~~~~~~~~~~
第一条 清は、ロシアがポーツマス条約第5条6条により日本に譲った権利を認める。
~~~~~~~~~~
これで結論が出ました。
長春より南の鉄道とその地域の一切の権利は、日本のものとなったわけです。
これは国際条約によって締結された正規の調印文書です。
日本は、満洲をロシアと清から「正式に」、譲り受けたのです。
しかしなりゆきで日本は満洲を統治することになったけれど、もともと、日本には領土的野心はありません。
(あるなら、その地に住む人々から、徹底的な搾取と財産の強奪をしています)。
たまたま日本の安全を図るための行動が、結果として満洲を日本が統治するという事態を招いたというのが、実際のところです。
その満洲には、広大な原野が広がっているだけです。
後年、豊富な資源があることが日本の調査でわかり、その開発が行われますが、日露戦争直後の時点では、そうしたことはわかっていない。
わかっていたら、そもそもロシアもChinaも、絶対に満洲を手放しません。
だから、満洲の経営は、まずは農地の開墾からとなります。
日本からは、民間の開拓団が、満洲の原野の開拓のために現地に向かいます。
これも政府のきちんとした展望や政策に基づくものではありません。
いわば、民間のボランティアとして開拓団が組まれ、満洲の原野の農業指導と農地確保に向かった。
「開拓」というのは、野山を耕して畑にすることです。
「開拓」と「侵略」では意味が違う。
「侵略」するなら、農地の開拓など必要ないです。
なぜなら、農地は、簡単に荒らされる危険を伴うからです。
満洲に開拓のために移住した人たちを、「満洲開拓団」といいました。
満洲開拓団

彼らは、現地の人々に農業指導を行い、また自ら率先して、農業を営み、原野しかなかった満洲での農業生産高を劇的に向上させていきます。
ここで、もうひとつの歴史を語っておく必要があります。
それは満洲の馬賊のことです。
もともと、満洲は、清王朝の聖地として、漢族立ち入るべからずとされた土地です。
清朝統治約200年。満洲は、満人たちだけのいわば楽土となっていました。
ところが、清朝末期になると国が乱れ、内乱続きの清国から、平和な楽土を求めて、多くの漢人たちが満洲の地に進出してきます。
このあたりの歴史は、昨今、Chineseの流入著しい日本も、しっかりと振り返ってみる必要があると思うのですが、漢人たちの満洲進出によって、それまで治安のよかった満洲地方は、いきなり、治安が悪化します。
古来、漢族の特徴は、武器を持たない弱者に対しては集団で居丈高になる。自己の利益のためには、他人を殺してもなんとも思わない、そういう人が数多くいる、ということです。
満人たちしかいなかった満洲に、漢人が進出してくることにより、泥棒、窃盗、強姦、集団による暴行、残虐なリンチなどが横行します。
漢人の進出が、どんな事態を招くか。
このことは、昨今の日本でも、見ることができます。
今年正月には、銀座の時計店に、壁をこじ開けるという強引な方法の泥棒がはいった。
あんな事件が起こったら、これから先、銀行や保険会社は、宝飾店が開店するときは、壁に鋼鉄が仕込んであるか確認しなければ、融資も保険の引き受けもできなくなる。
福岡一家惨殺事件のような、日本人には考えもつかないような悲惨で惨たらしい事件が起こっている。
まして銃刀の所持があたりまえだった時代の出来事です。
漢人たちの傍若無人は、酸鼻を極めた。
やむなく満人たちは、得意の馬を駆って、そうした盗賊団を退治するための自警団を作りました。これが満洲の馬賊です。
ちなみに満洲人というのは、もとの名前を女真人といいます。
日本はChinaとの戦争では連戦連勝しているけれど、この女真人との戦いには、かつて日本は大敗を喫したことがあります。
西暦663年の白村江(はくすきのえ)の戦いです。
馬賊は、だんだんに専業化し、武器を蓄え、軍閥と化していきます。
また当初は満人たちだけで構成されていた馬賊も、人口比で、漢人が上回るようになってくると、漢人たちだけの馬賊(もどき)なども横行しはじめます。
当時、そうした馬賊は、「もどき」を含めて、満洲地方に30万人もいたといいます。
満人たちは、こうした馬賊たちの跋扈(ばっこ)に悩まされ続けていた。
そうしたところに、お気楽な日本人開拓団が行ったのです。
話がやっかなことには、当時の満州の地に、共産パルチザンが多数いたことです。
共産パルチザンというのは、国際共産党コミンテルンの指令に基づいて活動する暴力革命集団です。その元締めは、当時ロシア革命を起こしていたロシア国内の共産主義者たちです。パルチザンを焚きつけて、日本の統治をぐじゃぐじゃにしちまえ!
内乱が起こればいいのです。
国際的に、日本が統治の責任をまっとうできないとなれば、再び国際的に圧力をかけて、日本を満洲から追い出すことができる。
反日暴徒と化した馬賊は、軍閥を名乗り、日本排除のためと称して、テロや暴行、略奪、放火、殺人、強姦など、好き放題の犯罪をした。
そんな中で書かれた者に、元関東軍司令官本庄繁の遺稿があります。
~~~~~~~~~~~
日本人や朝鮮人に対する暴力が広がり、小学生が学校に通うにも、関東軍による保護が必要だった。
そのような状態の中で、学校を閉鎖するにいたった。
満洲の日本人や朝鮮人も帰国せざるを得なくなり、30万人ほどの人達が帰って行った。
関東軍自体も、満洲軍を刺激しないよう気を配った。
軍の訓練の時には、実弾を持たないようにし、訓練の日時や場所も満洲軍に報告した。
しかし、満洲軍は実弾を持って、関東軍と同じ場所で軍事訓練を始めたり、銃を向けたりしてきた。
~~~~~~~~~~~
当時、満洲鉄道の路線妨害事件などは、年間なんと30万件です。
30万件です。30万件。とんでもない数です。
昭和6(1931)年6月には、満洲で中村大尉ら二人の日本軍人が中国兵に殺される事件が起きています。
帝国軍人が殺されたのです。
戦争になりそうになるけれど、日本政府は争いを避け、中国に抗議するだけに止めています。
亡くなられた中村震太郎大尉らは、泣き寝入りです。
仲間を殺された戦友たちも、涙をのむしかなかった。
7月には、満洲で万宝山事件(朝鮮の農民が満洲で開拓した土地を、中国の農民500人が襲撃した事件)が起きています。とんでもない破壊活動です。
万宝山事件現場
万宝山事件現場

こんな情況が続いたらどうなるか。
日本は、いっさいの卑怯な手段をとることなく、正々堂々と国際条約にのっとり満洲を領有し、そこに民間人の開拓団が行っている。
現地の農業指導をし、農地を開拓し、種を植え、作物を育て、道路を作り、町を作り、線路をひいた。
現地の人々への医療活動も行った。
まじめに誠実に、誠心誠意、町の人々とも共同した。
ところが一方では、共産パルチザンと結託したChineseたちが、暴徒を作り、あちこちで破壊工作や略奪、殺人を繰り広げている。
日本人経営の商店で買い物した客から取引税を改めてとる。
日本人に土地家屋を貸した満人を投獄する。
長春や奉天では、Chineseの警官が、日本人を見ると袋叩きにしたり投石したりしています。
ついには、小学生の通学を領事館警察隊が護衛しなければならないという、異常な状態まで日常化してしまいます。
襲われたのは日本人だけではありません。
朝鮮人農民に至っては、入植した農地を取り上げられ、暴行を受けた上で家財道具一切を略奪されて追放されたりもしている。
こうして20万人もいる日本人入植者たちが、餓死するか、日本へ引き上げるかの選択を余儀なくされるところまで追いつめられたのです。
これがもし現代の日本社会で同様なことが行われたらどうだろうか。
山手線や新幹線の運行が、毎日妨害され、線路を壊され、駅が破壊され、町中で銃撃が行われ、建物が爆破され、商店が投石され、暴行され、財産を奪われる。
おそらく欧米ならばすぐに自警団が編成され、不逞のヤカラに対して銃をもっておとなたちが立ち向かうだろうし、即時、軍を出動させて徹底的な治安維持が図られる。
そもそもイエローは、人ですらないという認識だったのです。
徹底した、弾圧と反撃を行ったであろうことは、容易に想像できます。
ところが日本政府の文民がこれにたいして行ったことは、
「平和のために我慢しろ。戦争はいけない」
日本政府の対応は、いまの日本の世の中と同じです。
ひとにぎりの在日朝鮮人に裏社会を牛耳られ、国会までも汚染され、利権をほしいままにされ、パチンコ賭博で財産を奪われ、女たちが穢され、日本人には考えもつかないような凶悪な犯罪を行われ、全国各地で偉人の銅像や彫像が、首を折られ、横倒しにされ、日本の国旗さえも、日の丸をウンコマークにされ、それでもひとつ覚えに無責任な「平和第一、戦争反対」のきれいごとしかいわない。
世の中には、ふつうにまじめに生きたい人の方が多いのです。
そのまともな人たちが、日々被害にあい、身内を殺される。
これが内地なら、警察や機動隊の出動になるかもしれない。
しかし、満洲は、当時まだ「国」ではなく、Chinaの一部を日本が「統治」しているにすぎない。しかも相手は銃で武装した大軍です。
外地であれば、治安維持活動は軍の仕事です。
なぜなら、警察は、国内で法を執行する機関です。
つまり国内法があって、はじめて警察による治安活動は正当化される。
国内法が通用しない外地にあっては、軍による統制活動しか他に方法はないのです。
これは世界の常識です。
だからこそ軍が駐屯している。
ところが、日本政府は、その治安活動をすべき軍に対し、軍事行動を起こしてはならない、銃には弾を込めてはならないという。
敵が大勢で迫ってきても、実際に銃撃を受けるまでは、丸腰でいなさいという。
これが文民統制です。聞いて呆れます。
その結果何が起こったか。
被害規模はますます膨らんだ。
多くの日本人が、ひどい目にあわされた。
目の前に訓練を受けた軍人がいるのです。
しかし、軍は行動してくれない。
軍は国家の命令がなければ、動けないのです。
軍は何もしてくれない。
私たちが、殺され、盗まれ、奪われても、軍は、なにひとつしてくれない。
狙われたのは日本人ばかりではないのです。
要するにパルチザン以外のふつうの満洲人、漢人、朝鮮人、日本人、抵抗しない者たちが、片端から被害にあっている。
誰のための政府なのか。なんのための軍隊なのか。
「腰の軍刀は竹光かっ!」
なぜ漢人たちが、満洲で暴れたかには、理由があります。
そうです。日本の調査で、満洲には豊富な資源があることがわかったのです。
日本は戦えば強い。
だから満洲の資源に着目したアメリカ、ロシアは、Chineseたちにカネや武器を与え、日本人や日本人と仲良くする満洲人たちにイヤガラセの限りをつくして、出て行かせようとしたのです。
一方で、漢人たちからみれば、満洲良いとこ一度はおいで、です。
いくら暴れても、統治者である日本人は抵抗しない。
軍資金や食糧、武器は、米露が、後ろからいくらでも補給してくれる。
万一日本の官憲に捕まっても安心です。
日本人はやさしいから、牢屋でたらふく飯を食わしてくれるし、腹が痛いといえば、薬もくれるし、風呂もはいらせてくれるし、一日いくらで日当までつけてくれる。
体が痛いといえば、医者やマッサージまでつけれくれる。
しかも、生まれてはじめて、「布団」という、やわらかなマットの上で、上掛けまでつけて気持ちよく寝かせてくれる。おまけに健康のために、毎日、体操までさせてくれます。
これではどちらが看守で、どちらが犯罪者かわからない。
しかも冬には暖房付きです。
シャバにいれば、満洲では、大衆は武器を持っていないし、農家は丸腰です。自警団も、せいぜい六尺棒くらいしか持っていない。
どんなに盗もうが、暴れようがやりほうだい。
逮捕されたら、生まれてはじめての文化的生活まで満喫できる。
共産パルチザンたちにとって、満洲はまさに犯罪天国そのものだったのです。
おかげで満洲には、続々と悪党たちが集まってきます。
気がついたら、満洲にいた関東軍1万人に対し、満洲の軍閥は、軍装を整えた正式な軍隊だけで25万人、その他着たきりすずめで、武器を持った共産パルチザンは、その数倍以上、合計してみれば、なんと300万人ものChineseパルチザンがいる、という状況になってしまった。
もともと満洲にいた満洲人が、300万人です。
そこに2600万人もの漢人たちが勝手にはいりこんだ。
あたりまえです。
悪党を野放しにしといたら、どんどん増殖する。
ガン細胞みたいなものです。
ガンは、小さいうちに切除しないと、全身に広がって死に至らしめます。
要するに、このときの日本政府は、満洲の地に、ガンが生まれ、ちゃんとした外科医(軍)がいたにもかかわらず、外科医(軍)にメス(弾)をもっちゃいけないと指導し、おかげで多くのまっとうな市民の生活が圧迫されることを放置した。
そもそもガン細胞というものは、早期発見早期治療があたりまえです。
日本は、満洲で権益を得ると同時に、全軍を派遣し、徹底的なパルチザン掃討作戦を展開していたら、その後のChina事変も、大東亜戦争も起こらなかったかもしれないのではないか。当時の状況を知るにつけ、そんな気がしてなりません。
当時の日本人入植者は、23万人です。
関東軍は、1万人。
対する漢人パルチザンや軍閥は、300万人です。
どうにもならないところまで追い詰められて、日本軍は、万宝山事件の2か月後、柳条湖事件を起こします。
これは、関東軍が満洲鉄道の線路を爆破したものです。そして事件を張学良軍閥のやったことに見せかけ、反撃を開始します。
なるほど張学良軍閥がやったと見せかけたことは、悪いことといえます。
ですが、そこまでしなければならないまで、打つべき手を遅らせ、現場を追い詰めたのは政府です。
そしてそうまでしなければならないだけの事情が、当時の満洲にはたしかにあったのです。
結局、正規軍だけで25分の1、非正規軍を含めれば、300分の1しかいない状況で、関東軍は、パルチザンの正規軍と戦うことになりました。
兵の数は圧倒的大差ですが、関東軍の将兵は、必死の覚悟で戦い、連戦連勝、軍閥やパルチザンを追い詰めます。
そしてあっという間に、満洲の軍閥を制圧してしまう。
悪党を駆逐したのです。
満洲の地に平和と安全が戻った。
満洲から、日本に対抗する軍閥が追い出されると、満洲各地では、自分たちこそ清王朝の本拠地である、清王朝を満洲の地で再興し、満洲国をChinaから独立させよう、という動きが、満洲全土で起こります。
これも軍部の独走という歴史学者がいるけれど、当時の満洲の生活者の立場にたってみろといいたい。
いまで言ったら、オウムが村の人口をはるかに上回るサティアンを作って、近隣に毒ガスをばら撒いたり、村人を拉致し暴行を働き続けていたようなものです。
やっと警官隊が入り、関係者一同を逮捕して、サティアンを取り壊し、村に平和がもどったら、どうするか。
満洲では、一気に、独立の機運が高まります。
もともと満洲は、女真族の土地。独立地だったのです。
かつての平和を取り戻したい。
独立運動の中心となった于沖漢(うちゅうかん)に、石原莞爾はこう言ったといいます。
「五族は絶対に平等でなくてならない。それには、日本のもっている一切の権益を満州にかえす」
于沖漢は、それをきいて驚いたといいます。
日本に領土的野心はまるでない。
于沖漢ら、満人たちは、満洲の独立をよびかける建国集会を開きます。
このときの于沖漢の演説です。
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満蒙は古来東亜の天府と称せられた地です。土地は広大で、住民は多い。
もし、在住している五族が互いに協力して資源開発をしたら、必ずや満洲の文明は欧州にまさり、その富源は東洋に冠絶することでしょう。
しかしながら今日に至るまで文化なおいまだ興らず、富源なおいまだ啓けないのは、すなわち過去において各民族が協和を欠いたせいです。
もし諸民族が建国精神と王道主義に則って、協和に努力し、共同発展したならば、農治産業は改革され、資本主義の独占もなく、共産主義の横行もなく、三民主義の欺瞞もなく、人々の負担は軽減され、治安は維持され、幸福は増進するのです。
産業はこれによって興り、人民の生活はこれより富裕となるにちがいありません!
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そしてまず奉天省が中国と離れて新しい国をつくろうと動き始めました。
次に吉林省が独立します。
そして、遼寧省、熱河省が共同で独立宣言を発表します。
それぞれの地域が、Chinaと離れて独立を始めたのです。
ふつうの市民たちにとって、共産パルチザンの横行や、三民主義者たちの暴行は、もううんざりだったのです。
そして政治を根本から立て直すため、いまの日本でいったら各都道府県が独立を宣言。そして、各省の代表がついに奉天に集まり,建国会議が行なわれます。
みんなが、満洲全体を一つにまとめて王道楽土の新国家を作ろうと燃えていたのです。
「王道楽土」というのは、国王が道楽を楽しむ地(土)ではありません。
「正しい道で国を治め、国民が安らかで明るく暮らせる地」という意味です。
そして、奉天城に集まった各省や団体の代表約700人の総意で、満洲国建国が宣言されます。
これにより「五族協和」をモットーとする満洲国が誕生したのです。
「五族協和」は満洲国の理想です。
「満洲、日本、朝鮮、漢、蒙古の五族が、仲良く力を合わせよう」という意味です。
日本は、満洲国の国づくりを支える決断をします。
まずはダムの建設です。大規模なダムを次々と建設しました。
なかでも「豊満ダム」は、高さ90M、長さ1100M、東洋最大級のダムです。
ダム建設によって、まず満洲の水害が減りました。
治水が可能になったのです。
これにより、農業がいっきに振興します。
加えてダムは、満洲やその周辺の電力を賄います。
豊満ダムが完成した時、世界中から多くの人が見学に来ています。
フィリピンの外相は、ダムの大きさと役割の大きさに驚き、次のように述べています。
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フィリピンはスペイン植民地として350年、アメリカの支配下で40年が経過しています。
しかしスペインも、アメリカも、住民の生活向上に役立つものはなに一つ作っていません。
満洲は建国わずか10年にしてこのような建設をしています。
素晴らしいの一語につきます。
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日本が開発した夢の超特急「あじあ号」は、当時の蒸気機関車の水準をはるかに上回る最高時速120km/hで走行します。しかも、当時の機関車でありながら、冷暖房完備です。
鉄道敷は、年間600kmも延長され、新京、奉天、ハルビン、吉林、チチハル等の都市が建設されます。
首都・新京では、百万人都市となるべく計画が進められ、電気、上下水道が完備し、東洋初の水洗便所が整備された。
新京放送局は、百キロワットという東洋一の出力規模の放送局としてスタートした。
おかげで、当初ラジオに馴染みのなかった満洲人が、昭和15年頃には日本人以上にラジオを聴く人が増えました。
満洲電信電話株式会社は、電話を敷設し、電話加入者は昭和15年には107,707人になっています。
昭和9年には国立新京法制大学、昭和12年には建国大学が建立されました。
その他、銀行が生まれ、小中高の学校が設立され、重工業地帯が整備され、農地は整備されかつ拡大し、病院ができ、道路ができ、空港や港ができています。
さらに満洲国では、治外法権もなくした。
満洲人であれ、Chineseであれ、日本人であれ、満洲国法の下で等しく裁かれるようになった。
この間、わずか13年。
満州国の繁華街
満州国の繁華街

大東亜戦争の最中でも、止むことのなかった満洲国の国家的インフラ整備事業は、昭和20年8月9日、米国が広島に原爆を落とした3日後のソ連による宣戦布告で破られます。
南方戦線に戦闘用物資を送り、ほとんど丸裸状態だった満洲の関東軍17万人に、ソ連陸軍175万人が襲いかかります。
日本軍の将兵には、弾も残されていない。
あるのは、終戦直前まで工事進行のために用意されていたダイナマイトだけです。
彼らは、そのダイナマイトを抱え、肉弾突撃で、ソ連軍の戦車の来襲を食い止めようとした。
なぜか。日本の婦女子や老人たちを、内地に逃すためです。
しかし、男たちがソ連軍に肉弾突撃をして戦い死んで行ったことをよいことにして、難民となった日本人の婦女子や老人に、Chineseや朝鮮人が襲いかかります。
ようやく北朝鮮との国境の町、通化にたどりついたとき、女たちは、衣類さえも奪われ、身にまとっているものといえば、大陸の寒空の中で、むしろ1枚にされていた。
そしてソ連は、戦後、日本の軍人、民間人、60万人~70万人と、様々な機械設備等をシベリアに連行し、ソ連の理想とする、有産階級(労働者)が働かなくても、国家によって給料が支給され、みなが平等に暮らせるという「理想」の実現のために、奴隷的労働を課せられた。
わずか13年で満洲国一国を建設した、その技術とノウハウと、設備一式のすべてを、ソ連に連行し、無給で彼らを働かせ、ソ連国内のインフラ整備をさせたのです。
アメリカのボーレー調査団の報告によれば、ソ連が満洲から連行した資産は、約9億ドルに相当する資産だったといわれています。
当時大蔵省から抜擢されて満洲国総務長官を務めた星野直樹氏の言葉があります。
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生命わずか13年。
満洲国の建設は遂に見果てぬ夢に終わった。
しかしこの間、日本の若き人々の費やした努力と苦心とは永久に日本民族の誇りとするに足るものであると確信する。
満洲国建設の仕事に参画することができたことを、いまに幸福と考えているのは、決して私一人ではないと思う。
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満洲はその後、China共産党が、摂取し、自国の領土とします。
毛沢東はこれを狂喜し、「東北省(満洲)を手に入れたことは、Chinaすべての富を入手したことに等しい」と述べています。
しかし、China共産党は、日本と満洲国が作った鉄道路線を、戦後60年間、ただの1Mも伸ばすことなく、日本と満洲国が築いた高速道路も、ようやく近年、日本の経済と技術援助で完成させた。
五族協和と王道楽土を夢見た満洲国は、いまはもうありません。
そして、China共産党の民族同化政策により、かつて一国を築いた女真族も、すでにありません。
満洲国の物語は、わたしたちにいろいろなことを教えてくれます。
たいせつなことは、国家というものは、消えてなくなることもある、ということです。
そのことを、わたしたち日本人は、もういちどよくかみしめてみるべき時がきているのではないでしょうか。
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