
シンクロナイズドスイミングといえば、オリンピックの水中の女神たちとして、最近は大人気です。
水深3M以上のプールで、音楽に合わせて体を動かし、技の完成度、同調性、構成、芸術的な表現力などの得点で競います。
チームやコンボ競技では、8~10人の団体競技となり、選手たちの息のぴったり合った演技は、とても美しく、見る者を魅了します。
現在は、女子のみがオリンピック種目となっていますが、日本選手団は大健闘し、1984年大会から現在に至るまで、全ての大会でメダルを獲得しているのはご存じのとおりです。
実は、このシンクロナイズドスイミングを日本に導入したのは、「日本泳法」の団体です。
「日本泳法」というのは、日本古来の水泳術で、重たい鎧(よろい)を着たまま泳ぐ方法や、水中での格闘、立ち泳ぎしながら火縄銃を射撃するなどの古武道泳法です。
武士のたしなみとして江戸時代に大発展しています。
昭和6(1932)年以降は日本水泳連盟が、日本泳法12の流派を公認しています。
明治時代に「日本泳法」の指導者として有名だった人に、西郷四郎という人物がいます。
西郷四郎と聞くと、ピンとくる方も多いかもしれません。
そうです。あの「姿三四郎」のモデルになった人です。

そういえば「ヤワラちゃん」で有名な女子柔道家の谷亮子選手(いまは先生)は、女三四郎と呼ばれていたことがありましたけれど、小柄で強い柔道家を「○○三四郎」と呼ぶのは、西郷四郎がモデルとなった「姿三四郎」の影響です。
姿三四郎といえば、有名な村田英雄の歌もあります。
Youtubeにありましたので、下に貼っておきます。
西郷四郎は、大正11(1922)年、病気療養先だった広島県尾道で逝去されました。
講道館柔道の創始者の嘉納治五郎は、西郷四郎の死を悼み、没後、六段を追贈するとともに、碑に、次の文章を刻んでいます。
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講道館柔道開創の際 予を助けて研究し、
投技の薀奥(うんおう:奥義の意)を窮む。
その得意の技に於ては、
幾万の門下、いまだその右に出たる者なし。
不幸、病にかかり他界せりと聞く。
えん惜に堪えず。
よって六段を贈り
もってその効績を表わす
(注:原文はカナ文字)
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西郷四郎は、講道館柔道の師範代、講道館柔道四天王のひとりとして、幾多の名勝負に勝利した人として有名です。
彼は、明治15(1882)年に上京し、成城学校(当時は陸軍士官学校の予備校:いまの成城中学・成城高校)新宿区原町)に入学し、天神真楊流柔術の井上敬太郎道場で学んでいるところを、嘉納治五郎に見出され、16歳で講道館に入門しました。
ちなみに四郎が学んだ井上敬太郎の弟子に、前田光世がいます。
その前田光世の弟子に、エリオという少年がいました。
その少年が、最近話題のグレイシー柔術の開祖エリオ・グレイシーです。
そしてエリオの長男が、いまや世界最強、無敗の王者と呼ばれているヒクソン・グレイシーです。
ちなみに、ヒクソン・グレイシーは日本をとても愛していて、京都大原三千院なども訪問し、正面の売店に色紙なども書いています。
姿三四郎に話を戻します。
西郷四郎は、講道館に入門した翌年には初段を取得します。
実は、講道館柔道が人気となったのは、この昇段制度で、黒帯がもらえるという点にあったともいわれています。練習する生徒たちの励みになったんですね。
それから3年後の明治19(1886)年、警視庁武術大会で、他の柔術諸派の選手にことごとく勝利します。講道館強し。そこから講道館柔道が警察の正課科目になっています。
師匠の嘉納治五郎が外国通だったこともあり、西郷四郎は、23歳のとき講道館を飛び出します。そして東京で義勇軍を募り、Chinaの解放運動に身を投じます。
当時のChinaは、権力をとったら民衆に何をしても許される、そのくせ権力をとっても民衆に対してなんの仁徳も示さない。そのため国は植民地化され、民は地獄の苦しみを味わっている。いまもですが、こうした悪風を打ち破り、普通の人がふつうに暮らせる新しい国家の建設をしよう、というわけです。
要するにいまで言ったら、真正保守の活動のようなものです。
Chineseの中にも国情を憂いて、古代にあった義と徳を柱とする新たな国家を建設しようとする者たちがいたのです。
とくに日本で学んだ孫文などの優秀な学生たちは、Chinaに日本風の相互信頼主義に基づく道義国家を建設しようとしていました。
それの動きが、Chinaの辛亥革命の動きになっていきます。
西郷四郎は、友人で二天一流の使い手の宮崎滔天と語らい、義勇軍の友らとChinaにわたり、孫文らとともに、Chinaの秘密結社哥老会・三合会・興中会3派の大同団結を実現し、辛亥革命の基礎作りをします。
13年後、辛亥革命に敗れた四郎らは、日本に帰国し、長崎で新聞の編集長をしながら「日本泳法」の指導家になります。
さて、その西郷四郎ですが、実は会津藩士です。
四郎の実の父親は会津藩士志田貞二郎で、四郎は三男。会津若松の生まれです。
実父の志田貞二郎は、戊辰戦争で元新撰組副長の土方歳三の配下として、越後方面を転戦します。
戦争が起こったとき、当時3歳だった四郎は、母に連れられて、新潟県の津川(いまの阿賀町)に疎開します。
そして7歳で大東流武術を習い始めました。
大東流は、柔術だけでなく、水練も含め、様々な武術を伝習するものです。
四郎はめきめき上達し、もはや津川では四郎に敵う相手が誰もいなくなります。
そんな四郎を、見出し、東京で本格的に柔術の勉強をさせようと、四郎を養子に迎えたのが、元会津藩家老西郷頼母(さいごうたのも)です。

西郷頼母といえば、戊辰戦争のときの会津藩の家老だった人として有名です。
西郷家は、代々会津藩の家老職を勤め千七百石を拝領する名門だったのですが、頼母は、現職の家老時代、会津藩の京都守護職就任に反対し、幕末動乱で熱くなっている家中から、「腰ぬけ家老」とののしられ、家老職を解任され、蟄居(ちっきょ)処分となります。
ところが腰ぬけどころか、西郷頼母は、会津藩秘伝の日新館正果武術の達人です。
漢の劉邦の時代に、背水の陣の逸話で有名な「韓信の股くぐり」同様、武芸百般に通じた猛者だったからこそ、虚心坦懐に藩の行く末を案じて不戦を唱えたのです。
会津若松城の戦いでは、頼母の母や妻子など一族21人の女たちが、頼母の登城後自刃するという悲劇が語り継がれています。
国難に際し、戦いの足手まといになるのを不本意とした彼女らは、全員白装束に身支度し、辞世を詠んで、水盃を交わしたあと、妻の千恵子が、まず9歳の田鶴子を刺し、4歳の常盤、2歳の季を刺したあと、その返す懐剣で自らの咽喉を突いて自刃した。このとき千鶴子34歳です。そして次々と女たちが自刃して果て、逆さ屏風を立てた広間は21人の遺体で埋まった。
このときの有名な物語で、まだ13歳だった次女の瀑布が、
けなげにも
手をとりて共に行きなば迷はじな
と上の句を詠むと、姉の細布16歳が、
いざたどらまし 死出の山道
と下の句をついぎ、二人で互いの咽喉を突いて果てています。
父の頼母は、彼女たちの思いを受け、戊辰戦争を最後まで戦い抜きます。
会津若松城の落城の際は、切腹しようとする主君の松平容保に対し「殿が死なれれば、家中の者がみな後を追いましょう」と、家中の藩士たちの命を慮って自害を思いとどまらせ、容保に降伏を勧めます。
そして頼母は、榎本武揚や土方歳三と合流して、函館五稜郭に立て篭って、篭城戦を戦い抜いた。
五稜郭の敗戦後、西郷頼母は捕縛され、禁固刑を受けますが、その後、福島県霊山(りょうぜん)神社の宮司となり、そこで、大東流合気武術を編纂し、74歳の生涯を閉じます。
大東流合気武術というのは、八百年前、源義家の弟、新羅三郎義光が創始したといわれるもので、甲斐源氏武田家が代々秘伝の武芸として門外不出のまま伝え、会津藩では、これを会津藩「合気之術」として、上級武士の間だけで伝承してきたものです。
そして大東流合気武術が、西郷頼母によって、武田惣角に伝承され、戦後植芝盛平に「よって「合気道」となって現在に伝わっています。
そして一方では、シンクロナイズドスイミングとなっている。
日本の歴史というの実におもしろいと思います。
いろいろな物事や人が、いろいろなところでつながっている。
ちなみに植芝盛平の弟子で、神と呼ばれた人が塩田剛三です。
塩田剛三の動画がありましたので、これも下に貼っておきます。
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