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明治初期の博多駅
明治初期の博多駅

まずお読みください。
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明治の中ごろのお話です。
強盗で逮捕された犯人が、裁判のために、列車で護送されていました。
事件は四年前のことです。
熊本のある家に、深夜、強盗が押し入り、家人らを脅して縛り上げ、金品を盗みました。
警察が追跡して、強盗犯は二四時間の内に逮捕されたので、犯人たちは盗品を処分できませんでした。
ところが、警察に連行される途中で、犯人警官を殺害して逃亡したのです。
犯人の行方はまったくつかめなかったのだけれど、たまたま福岡の刑務所を訪れた熊本の刑事が、四年もの間、写真のように脳裏に焼き付けていた顔を、囚人たちの中に見つけたのです。
「あの男は?」刑事は、看守に尋ねました。
「窃盗犯でありますが、ここでは草部と記録されております。」
刑事は囚人のところに歩み寄ると、言いました。
「お前の名前は草部ではないな。熊本の殺人容疑でお尋ね者の、野村禎一だ」
犯人の野村は、すっかり白状し、その場で再逮捕となりました。
さて、その犯人が駅に到着するのを見届けようと、私も出かけたところ、かなりの人が詰めかけていました。
人々が怒るの見聞きするだろうと思っていたし、一悶着(ひともんちゃく)ありはしないかと恐れてもいました。
報道によれば、殺害された巡査は周囲からとても好かれていたし、巡査の身内の者も、おそらくこの見物人たちの中にいるはずです。
熊本の群集もとてもおとなしいとはいえないし、きっと警備のために多数の警官が配置されているものとばかり思っていたのです。
ところが、私の予想は外れてしまいます。
駅のホームは、乗客たちでいつものようにあわただしい。
そこに、列車がやってきます。
私は、改札口の外で、五分近くも待っていました。
警部が改札口から出てきました。
犯人が現れます。
大柄な粗野な感じの男で、顔はうつむき加減。後ろ手に縛られています。
犯人と護送の警部の二人が、改札口の前で、立ち止まりました。
そして、つめかけている人たちが犯人の顔をひと目みようと前の方に押し寄せました。
そのとき、警部が叫んだ。
「杉原さん!杉原おきびさん、いませんか」
「はい!」と声がすると、私の近くにいた子どもを背負った細身の小柄な婦人が人混みをかき分けて進み出てました。
この人は殺された巡査の妻です。
背負っているのが息子です。
警部が手を前後に振るしぐさをすると、群衆は後ろに下がりました。
犯人と護衛の警官のためのスペースが出来ました。
この空間で、子どもを背負った未亡人と殺人者とが向き合って立つことになりました。
あたりは静まり返っています。
警部がこの未亡人にではなく、子どもに話しかけました。
低い声で、はっきりと。
一言ひとことが明瞭に聞き取れました。
「坊や、この男が四年前にあんたのおとうちゃんを殺したんだよ。
あんたはまだ生まれてなくて、お母ちゃんのお腹の中にいたんだなぁ。
あんたを可愛がってくれるはずのおとうちゃんがいないのは、この男の仕業だよ。
見てご覧らん」
警部は犯人の顎に手をやり、しっかりと彼の目を向けるようにしました。
「坊や、よく見てごらん、こいつを! 怖がらなくていいから。
辛いだろうが、そうしなくちゃいけない。この男を見るんだ。」
母親の肩越しに、坊やは怖がってでもいるかのように、眼を見開いています。
しゃくり泣き始め、涙があふれてくる。
でも坊やは、しっかりと、言われたように男をじっと見つめています。
まっすぐにその卑屈な顔をずっと覗き込んでいる。
周りの人たちも息を呑んだようになっています。
そのとき、犯人の表情がゆがむのが見えました。
後ろ手に縛られているにもかかわらず、彼は膝の上に崩れ落ち、顔を地面に打ちつけて、人の心を震わせるような、しゃがれた声でしばらく泣いていました。
「済まない! 許してくれ!
坊や、堪忍しておくれ!
憎んでいたからじゃねぇんだ。
怖かったばかりに、ただ逃げようと思ってやっちまったんだ。
俺がなにもかも悪いんだ。
あんたに、まったく取り返しの付かない、悪いことをしちまった!
罪を償わなくちゃならねぇ。
死にてぇだ。そう喜んで死にます!
だから、坊や、お情けと思って、俺を許してください!」
男の子は、静かにまだしゃくり泣いています。
警部は肩を震わせている犯人の男を引き起こしました。
黙りこくったままだった人々は、左右に分かれて道をあけました。
するとそのとき、群衆が、すすり泣きを始めたのです。
そして私は、銅像のような表情をした護送の警官がそばを通りすぎるとき、私は以前にも見たことのない・・・ほとんどの人もかつて見たことがない・・・そして再び見ることのないであろう・・・日本の警官の涙を目撃したのです。
人だかりが、潮が引くように少なくなりました。
私はそこに取り残され、この場の不思議な教訓について考えてみました。
犯人は、ここで、犯罪のために遺児となり、未亡人となったという明白な結末を目の当たりにしました。
そして心情的に犯罪の意味について悟りました。
ここで犯人は、死を前にして自責の念にかられ、ひたすらゆるしをこいました。
そこには、一途な後悔の念がありました。
そしてここには、怒りだせばこの国の中では最も危険な庶民がいました。
ところがこの人たちは、激しい怒りではなく、罪についての大きな悲しみだけで胸を塞がれました。
まわりにいた群衆は、後悔の念と恥を知る人生の困難さや人間の弱さを純朴に、また身にしみて経験したことで満足しました。
その場であった出来事に感動し、何もかも分かって赦しました。
このエピソードのもっとも重要な事実は、それがきわめて日本的であることにつきます。
そして、犯人が悔い改めたのは、彼自身も持っている、子に対する父親の心情に訴えたからです。
子どもたちへの深い愛情こそが、あらゆる日本人の心の大きな部分を占めているのです。
日本で最もよく知られた盗賊の石川五右衛門に、つぎの話があります。
ある夜、殺して、盗みを働こうと人家に忍び込んだときに、自分に両手を差し伸べている赤ん坊の微笑みに、五右衛門はすっかり気を奪われてしまいました。
そして、この無邪気な幼子と遊んでいるうちに、自分の所期の目的を達成する機会を失ったというのです。
これは、日本では「信じられない話」ではありません。
警察の記録には、毎年、プロの犯罪人たちが子どもたちに示した同情の報告があります。
地方新聞に載った、数ヶ月前の凄惨な大量殺人事件は、強盗が睡眠中の一家七人を文字通りに切り刻んだものでしたが、警察は、一面の血の海の中でひとり泣いている小さな男の子を発見しました。男の子は、まったくの無傷だったといいます。
警察によれば、犯人らが子どもを傷つけまいとしてかなり用心した確かな証拠があるという。
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このお話は、ラフカディオ・ハーン(Lafcadio Hearn)の、「AT A RAILWAY STATION」というお話です。日本では「停車場」という題名で紹介されているので、お読みになったことがあるかもしれません。
訳は、ねずきちがへたくそな語学力でやったことなので、ご勘弁を^^;
要は、重大犯を犯した犯人が、群衆の前で被害者の母子と会い、その子の涙をみたときに、自分も父親であるという心を思い出し、心から悔いた。
凶悪犯ですら人の心を持っていた。
そして周りをとりかこんでいた群衆も、子を持つ親だった。
現代日本に目を移します。
同じ福岡です。
そこで、先年、Chineseによる福岡一家4人殺害事件が起きました。
Chinese留学生3人が侵入し、工事現場から盗んできた鉄パイプで家にいた奥さんの後頭部をいきなり殴りつけたあと、顔を前に向けて横から額を殴り、さらに左目周辺や頬を殴ったり、全身をめった蹴りし、2階で失神していた子供(女の子)を担ぎ下ろして、父親の目の前でいたぶったり殴打しながら、リンチを加え続け、「用がなくなった」として絞殺。
夫は、土下座して、「娘だけは助けてくれ」と言ったが、彼らはこれを嘲笑し、殺害。
さらに夫の首を白いビニール紐で絞め、気を失った彼を浴槽に浸けて溺死させたという凄惨な事件です。
ところがこの事件に関しての逮捕されたChineseの犯人らは、日本でのChineseの犯罪率は日本人や中国よりずっと低い(嘘です)だの、なんでChineseがたった一回殺人しただけでChineseに偏見持つのか(事件の凄惨さは尋常ではない)だの、日本にいるChineseだって日本人に殺されてる(そのような事実はありません)だの、日本人はこんなちっぽけなことを拡大してChinese全体を差別してる(ちっぽけではありません)だの、量刑が不当(正当です)だのと称して、いまだ上告審で、この事件を係争しています。
ボク自身も、Chineseの友人はたくさんいます。
とてもしっかりとした、いわゆる「いい奴」ばかりです。
ただ、個人として「いい奴もいる」ということだけで物事を判断するのは「木を見て森を見ず」だと思っています。
たとえば、イスラムの人々と、キリスト教圏の人々では、基本的なものの考え方がまるで違います。
個人として、イスラムの人とキリスト教の人が友達になることは、いくらでもあるでしょう。
ただし、互いのもつアイデンティティは、まるで異なるであろうことは、誰にでも簡単に想像がつくことだろうと思います。
日本はChinaと異なる、日本独自の文明の国です。
上でご紹介した物語のように、重大犯であっても、子を持つ親としての心は失わない。
(ちなみに明治時代に、上の物語にあるような斬殺強盗事件は発生していません)
これにたいしChinaには、「反省」や「謝罪」の概念はありません。
反省や謝罪は「負け」であり、「負け」た者には、ありとあらゆる暴行が加えられるのはあたりまえとする文化がある。
彼らの意識にあるのは、相手の立場に立った「反省」ではなく、自分の立場でみた「損得」しかない。
基本的なアイデンティティが異なるのです。
目が二つあり、鼻の穴が2個あって、人の顔に似ているといっても、猿は猿であって人間ではない。
それと同じだけの「違い」が、彼らと日本人の間にはある。
そういうことをちゃんと理解したうえで、日本人としてのきちんとしたアイデンティティを持って付き合わないと、たいへんなことになる。
彼らは、犯罪を犯すとき、必ず複数で行動します。
それは盗っ人としての信義があるからではありません。
裏切りに対する報復があるからです。それがなければ安心して徒党を組めない。
そして裏切った仲間がどこかに消えれば、彼らはその家族に報復します。
日本ではヤクザでさえ、対立する組織構成員の家族にまで危害を加えることはないのに、です。
彼らはビジネスパートナーとなった場合でも、
「報復が怖いから仕事をする」
「より大きな利益が得られると思うから言うことを聞く」
のであって、
日本人のように、
「信義があるから、相手に恥じないように仕事をする」
「弱きを助け、強きをくじく」
「率先して良い行いをし、悪はこらしめるべきだと思う」
などという概念はまるでない。
先般、落としの八兵衛さんが自供させた犯人が、冤罪判決を勝ち取った事件がありました。
八兵衛さんの前では、八兵衛さんの持つ正しい心に打たれて涙を流した犯人も、八兵衛さん死後は、「やっぱりやってなかった」などと供述を翻す。
服役期間が長い重大犯が冤罪となれば、国から法外なカネをふんだくれるからで、単なる損得の論理でしかないです。
日本人とChineseでは、いざというときの行動のパラダイムがまるで異なるのです。
日本には、日本人としてのアイデンティティがある。
そして日本は、一国一文化の世界の中でも特異な国です。
日本が、日本としてのアイデンティティを大切にするなら、国を外国に委ねるようなことはしてはいけない。
私たちの子や孫が大人になったとき、安全で安心な日本でいるためには、やはり私たちは、私たちの住む日本という国にある文化を、もっと大切にしていかなければならないと、ボクは思います。
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