
一九世紀末から今世紀初頭にかけて「ナイルの詩人」とうたわれた人がいます。
名前を、ハーフェズ・イブラヒームといいます。
アラブの国民的大詩人です。
以下にご紹介する詩は、アラブ諸国の多くの知識人の間で暗唱されるくらい記憶されていた詩です。
いまでもエジプトやレバノン等の教科書に使われ、ラジオなどで朗読されることもあるそうです。
題名は「日本の乙女」といいます。
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砲火飛び散る戦いの最中にて
傷つきし兵士たちを看護せんと
うら若き日本の乙女 立ち働けり
牝鹿にも似て美しき汝なれ
危うきかな!
戦の庭に死の影満てるを
われは日本の乙女
銃もて戦う能わずも
身を挺して傷病兵に尽くすはわが務め
ミカドは祖国の勝利のため
死をさえ教え賜りき
ミカドによりて祖国は大国となり
西の国々も目をみはりたり
わが民こぞりて力を合わせ
世界の雄国たらんと力尽くすなり
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明治のはじめ、日本の兵隊さんたちは、軍艦に乗ってインド洋からアラブ、アフリカをまわり、ヨーロッパにまで、出かけて行きました。
当時の船旅は、たびたび補給のために途中の港に立ち寄ったのだけれど、港町というのは、世界中の船乗りたちが集まるところです。
板子一枚下は地獄の底。荒くれ男も多かった。
あまり語られないことだけれど、そんな港町に日本人が上陸して夜の街に繰り出すと、たいていの酒場で、大男の白人さんが、大酒を飲んでいる。
絶対的な人種差別がまかり通った時代です。
酒場の女性たちに対するひどい嫌がらせなんて日常茶飯事だった。
白人のひげもじゃの大男が、大酒を飲んで、店の女の子に絡んでいる。
そんなところに、明治初期の名もない日本の軍人さんが数名で、お酒を一杯飲みにやってきます。
あまりの理不尽な姿に、日本人の水兵さんが、白人の大男軍団に、「やめろ!」と制止にはいります。
方や、毛むくじゃらで平均身長1m90cmくらい、丸太のような腕をした筋骨隆々の大男たちです。
日本人の水兵さんたちはというと、当時の日本人の平均身長が五尺といいますから、1m50cmくらい。
体格差は、大人と小学生の子供くらいの違いがあります。
制止にはいった日本人の水兵を見て、白人の水兵たちは、鼻でせせらわらいます。
でも、日本人の水兵さんたちは、制止をやめない。
「ヘイ、ジャップ、ウルサイ!」とばかり、白人の水兵たちが、日本の水兵さんに殴りかかります。
ところが、その大男のパンチがまるで当たらない。
紙一重で、ひょいひょいと避けられてしまう。
それもそのはずです。
当時の日本の水兵の多くは、元、士族です。
剣術の修行を積んでいる。
剣道で、防具や竹刀を使うようになったのは、近代にはいってからのことです。
江戸時代の剣術の町道場では、まず、防具や竹刀なんてものは使わなかった。
練習で使うのは、木刀です。
これを互いに力いっぱい、打ち合う。
木刀を振り下ろすだけじゃなく、突きもします。
防具を付けていないのど元に、木刀を思いっきり突きだす。
一発でも当たったらさいご、骨折します。大怪我します。
相手の木刀を、木刀で払うというのは、認められません。
なぜかというと、真剣で相手の刀を払ったら、自分の刀が折れてしまう。
だから受け太刀も禁止です。
では、相手の打ち込みを、どうするかというと、これを最小限の「体さばき」で紙一重でかわします。
思いっきり木刀を打ち込む。それを紙一重でかわす。かわしながら相手を打つ。
剣術道場の稽古は、毎日その繰り返しです。
パンチよりも何倍も速いスピードの木剣の切っ先を交わす修練を、小さな子供時代から継続して積んでいたです。
そうした士族たちが、明治後、水兵となって世界の海に出てゆきます。
港でのケンカで、日本の水兵さんたちは、大男のパンチをことごとくかわしてしまいます。
なにせ人間のパンチの何倍ものスピードの木刀の切っ先ですら、ひょいと交わす訓練を積んでいるのです。
人間のパンチでは、まず当たらない。
いまでも剣道の有段者が相手だと、パンチが当たりません。
腹が立つくらいかわされる(笑)
そして、小柄な日本人の姿がふと見えなくなったと思ったら、大男の体が宙を舞って、床にドスンと叩きつけられます。
柔術の投げ技です。
柔術は、小柄な者が、相手の力を利用して大男でも倒してしまう技です。
最近は、もっぱら空手ブームだけれど、パンチやキックというものは、体重の差と体格の差が、本人の技量や訓練以上にモノをいうというところがあります。
体重の重い人は、パンチもキックも、重い。
20~30kg以上の体重差があると、小柄な方は、一撃を受けただけで飛ばされてしまいます。
だからボクシングなどは、体重別に試合をする。
体重差があったら、試合にならないのです。
ところが、剣道や古来の柔道には、体重別の概念はありません。
小兵でも、大男を倒せる。
それが柔道や剣道の特徴でもあった。
そんなこんなで、世界の港町で、日本人といえば、正義感が強くて、ケンカに強い!とおそれられたし、地元の人たちから、ものすごく尊敬された。
日本人は、親切でおとなしく、統制がとれ、いつも笑顔で威張らず、女性に乱暴したりしない。
世界の港町で、日本人のこうした伝説は、昭和40年代くらいまでは、たしかに残っていて、日本の貨物船が南米やアラブ、アフリカなどの港に着くと、とにかく日本人だというだけで、女性にモテモテだったとか。
「アナタ、ニホンジンカ? ソレナラコンヤハ 無料(タダ)でモOK。ワタシ、ニホンジントテモスキ」
まー、無料というのは、滅多になかったけれど、それでもTシャツ1枚で、一晩中お世話になった話とか、そういう日本人の信用(?)が、明治の昔の日本の水兵さんたちによって築かれていたという話を、昔、船長として世界の海をまわっていた先輩から、よく聞かされたものです。
その先輩は・・・いまはもう他界されましたが・・・「昔の日本人は偉かった。おかげで俺たちの時代まで日本人というだけで尊敬され、信用されていたよ」とおっしゃっいたのを思い出します。
孫文といえば、Chinaの清朝末から中華民国初期の政治家・革命家で、辛亥革命を指揮し、初代中華民国臨時大総統に就任して「中国革命の父」と呼ばれる人です。
孫文の号は孫中山で、いまでもChinaでは、孫文は、孫中山の名前で知られています。
現在、Chinaや台湾にある「中山大学」、「国立中山大学」、「中山公園」、「中山路」など「中山」がつく路名や地名は孫文の号に由来して付けられた名前です。
なぜ、孫文が「中山」と号したかというと、実は孫文が軍閥の袁世凱に敗れて日本に亡命した際、近くに、「中山」という邸宅があり、その字を気に入って、孫中山と号すようになったのだそうです。
近くにあったという中山家は、明治天皇の母の生家にあたる華族です。
その孫文が、まだ若い頃のことです。
ロンドンでの留学を終えた若き孫文が、帰国の途中スエズ運河を通過するためポ-トサイドで下船した。
そのとき、駆け寄ってきた現地のエジプト人が、
「君は日本人か? たったいま、バルチック艦隊を全滅させた日本の勝利を知ったのだ。共に喜でほしい」と聞かされたといいます。(1924年の来日時の神戸講演)
日本は、日露戦争で、当時、世界の誰もが「絶対に勝てるはずがない」と思われていた白人の大国に対し、堂々と勝負を挑み、勝利しました。
このことは、当時、英国の植民地となっていたエジプトの人々の心に、大きな灯をともしたのです。
日露戦争は、明治38(1905)年に終結していますが、当時、エジプト人のムスタファー・カーミルは、「昇る太陽」という本を刊行し、次のように書いています。
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墓場から甦って大砲と爆弾の音を響かせ、陸に海に軍隊を動かし、政治上の要求を掲げ、自らも世界も不敗と信じていた国を打ち破り
人々の心を呆然自失させて、ほとんど信じ難いまでの勝利を収め
生きとしいけるものに衝撃を与えることとなったこの民族とは一体何者なのか。
かの偉大な人物(ミカド)とは何者なのか。
いかにして歳月は彼の呼び声に応え、全世界を照らし出す昇る太陽を、目のあたりにすることになったのか。
今やだれもが驚きと讃嘆の念をもって、この民族についての問いかけを口にしているので説明する。
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カーミルは「眠れる者を目覚めさせ、若い世代を導くために日本の発展を教えよう」として、この本を出版したといいます。
こうした感動は、エジプトだけにとどまらず、他のアラブ諸国にも波及します。
イランでは、ホセイン・アリー・タージェル・シーラーズイーは「ミカド・ナーメ(天皇の書)」に次のように書いています。
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東方から太陽が昇ってくる。
眠っていた人間は誰もがその場から跳ね起きる。
文明の夜明けが日本から拡がったとき、この昇る太陽で全世界が明るく照らし出される
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イラクでは、詩人のアルーフ・アツ=ルサーフイーが「対馬沖海戦」を翻訳します。
レバノンでは詩人アミール・ナースィル・アッ=ディーンが、「日本人とその恋人」を書いた。
そしてまたエジプトでは、アフマド・ファドリーが桜井忠温(さくらい ただよし)の「肉弾」を明治42(1909)年に翻訳出版します。
この本は、アラビア語に翻訳された最初の日本の本です。
桜井忠温は、明治12年生まれで、昭和40年に亡くなった方ですが、小隊長として日露戦争に従軍し、第1回旅順(現在の中国の遼寧省)総攻撃の際に、機関銃で全身蜂の巣にされ、死体と間違われて火葬される寸前に息を吹きかえしたという伝説を持つ人です。
著作の「肉弾」は、入院中の病院で執筆した著作で、乃木希典の題字で明治39(1906)に初版本が出されました。
この本は、悲惨きわまりない戦場の極限状態の中で、部下や親友の安否を気づかい、日本の家族を思いやる兵士達を描いた感動作です。
近代戦記文学の先駆けとされ、日本国内で大ベストセラーとなりました。
そしてなんと、イギリス・アメリカ・フランス・ドイツ・イタリア・ノルウェー・スウェーデン・スペイン・China・ロシア・ギリシャなど合計15カ国語に翻訳され出版され、それぞれの国でベストセラーになっています。世界的大ヒット作です。
ちなみに、チャップリンが昭和7年に来日した際、彼は神戸港に到着し、その足で京都や大阪によらずに、東京に直行し、二重橋で皇居に一礼しています。
この一礼のアドバイスをしたのも、桜井忠温です。
日露戦争の勝利は、さらに大正10(1921)年になると過熱し、この年の3月には、アラビア、インド、エジプト、トルコのイスラム教徒がメッカで開かれたイスラム教徒代表者会議で、日本を盟主と仰ぐことを決議しています。これ、実話です。
またトルコでは、日本の日露戦争による勝利が、トルコ近代化を推進を呼び掛ける青年運動となり、ケマル・アタチュルクのトルコ革命に連なっていきます。
ケマル・アタチュルクは、いまなおトルコ民族の英雄です。
彼の銅像が、トルコ駐日大使から日本のトルコ村に寄贈されたけれど、新潟県柏崎市の反日系市長の会田洋が野ざらしで放置。
日本の国辱的姿を晒していたけれど、昨年、ネットの皆さまの善意が通じて、ようやく和歌山県に移設されました。ありがとうございます。
米国では、デュボイスら黒人解放の運動家たちが、
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巨大な地球のホコリを、欲望の固まりのロシアを投げ飛ばせ。
行け、行け、黄色い小さな男たち。ロシアを征服せよ。
巨大な地球のホコリを、欲望の固まりのロシアを投げ飛ばせ!
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などと、日本を激励する詩を全米の教会を通じて拡散し、人権要求運動を大発展させています。
イスラムやアメリカだけではありません。
ロシアの圧制に苦しむフィンランドやポーランドは、東洋の小国、日本だってこれだけ頑張ったんだ。俺たちにできないはずはない、と、独立への夢を膨らませ、民族解放闘争を激化させました。
そのロシアでは、レーニンが「旅順の降伏はヅァーリズム(皇帝主義)の降伏の序幕である。
専制は弱められた。革命の始まりである」と宣言している。
そして旅順陥落の直後に、首都のサンクトペテルブルクで「血の日曜日」事件が起こり、これがロシア革命の引き金となって、ソビエト社会主義国が誕生しています。
日露戦争は世界に大きな影響を与えました。
なんでもそうなのだけれど、突然降ってわいたような事柄に、世界が急に飛びつくなんてことは、そうそうあるものではありません。
やはりなんでも、事前になんらかの下地となるものが必ずある。
つまり、日露の戦闘以前から、港町で小柄ながら大男の白人と喧嘩して勝ってしまう事件などを通じて、日本人は、強くて、まじめで、とても紳士だという伝説が蓄積され、そういうところに、国家として、大国ロシアをやっつけたというニュースが流れるから、世界が「ああ、あいつらなら、きっとやるだろうな」と納得する。
小さな事柄が次々と積もってゆき、あるときひとつの事件をきっかけとして、それが大きな転換へとつながる。なんだか歴史というのはそういうものなのではないかと思います。
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