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ギルバート諸島
ギルバート諸島

キリバス共和国、通称キリバスという国は、赤道付近に3800km²にもわたって散らばっている33ものの環礁によって構成されている国です。
人が住んでいるのは、そのなかの21の島で、総人口は約10万人です。
ほとんどがミクロネシア人で構成され、そのミクロネシア人は、2000年前にカヌーに乗ってやってきたとされています。
キリバスは、ギルバート諸島、フェニックス諸島、そしてライン諸島によって構成されています。
明治25(1892)年、ギルバート諸島は、隣のエリス諸島と共にイギリスの保護領となります。
ギルバート諸島は、大正5(1916)年、当時の大英帝国の植民地となった。
昭和16(1941)年、大東亜戦争開戦とともに、日本がこれを占領し、統治します。
理由は、米国との対戦にあたり、戦線はできる限り本土から遠い方が良いこと。
ギルバートの島々の英米からの独立を果たさせることの2つです。
キリバスには、「吉里巴斯(キリパス)」の漢字が充てられた。
当初、日本がキリバスにおいた兵力は、タラワ、マキンの2か所に、それぞれ70名程度と小規模なものです。
そして、基本的にそこは戦場となる危険もあることから、陣地を築くのは、島民がいない島としてタラワ、マキン(ブタリキリ)の2つの環礁に駐屯した。
昭和17(1942)年8月、マキンにいた日本の第62警備隊70名に、米国第2海兵襲撃大隊約220名の海兵隊員が奇襲を行います。
日ごろからよく訓練されたマキン警備隊は、突然の奇襲攻撃によって、いきなり半数を殺されるという大損害を受けるけれど、そこからよく反撃し、翌日には、米海兵隊を撃退した。
この戦闘のあと日本は、米軍の本格的な太平洋反撃作戦を予想し、太平洋上の防衛圏確保を目的として、ギルバート諸島守備隊を増強します。
といっても、相変わらず島民の住んでいない、タラワ環礁のペティオ島、マキン環礁のブタリキリ島だけです。
ちなみに、マキンのブタリキリ島というのは、ギルバート諸島の北端の島で、「V」の字を大きく左右に広げたような形の長細い島です。
マキン・ブタリキリ島
マキン・ブタリキリ島

タラワのペティオ島の方は、ブタリキリよりかなり大きいけれど、島は「L」の字を左右反転させたような形をしていて、島のいちばん幅の太い場所でも、わずか500Mの幅しかない、そんな小さな島です。
タラワ環礁
タラワ環礁

そこに日本は、兵を進めた。
国土防衛のためです。
しかし島民には迷惑はできるだけかけたくないから、ギルバート諸島の南端(タワラ)と、北端(マキン)の2か所の無人島に基地を築いた。
マキン環礁のには、軍人353名、軍属340名(うち朝鮮出身200名)の合計693名を派遣した。
タラワ環礁のペティオ島には、柴崎恵次少将率いる4800名が派遣された。
この2つの島は、どちらも玉砕戦となります。
激戦の末、マキンでは、693名中589名が死亡。朝鮮人軍属104名のみ生還。
タラワでは、4713名が死亡。朝鮮人軍属129名のみ生還している。
太平洋の彼方まで、どうして兵を進める必要があったのか疑問に思う人がいるかもしれません。
簡単にいえば、防衛ラインは、本土から遠いほどよい、ということです。
本土に近いところに敵の軍事基地ができれば、敵はそこを拠点に攻撃してくる。
補給もそこでできる。
怪我人の介護も、そこでできる。
航空機による爆撃戦が可能になった近代戦では、そこから爆撃機を飛ばして本土爆撃をすることができるようになる。
だから、防衛ラインというものは、遠いほどよい。
こための前線基地が、敵国の国土により近いところに構築されると、これは「防衛ライン」ではなく、攻撃のための前線基地という意味になります。
日本は、大東亜戦争開戦当初、12月8日に真珠湾を攻撃し、12月10日にはタラワ、マキンといったギルバート諸島を、それこそあっという間に占領しています。
もし、日本が対米侵略戦争をしかける意図があったのなら、そのままハワイの真珠湾を占領し、米国太平洋岸まで攻め入って、米国太平洋艦隊基地を、まるごと占領するという選択肢もあった。
攻撃は最大の防御なのです。
護る戦いよりも、攻める戦いの方が、数段やりやすい。勝ちやすい。
しかし、日本はそれをやっていません。
なぜなら、あくまで大東亜戦争は、防衛のための戦争だからです。
断じて侵略戦争ではない。
これは太平洋戦線の布陣を見るだけでもあきらかです。地図を見たら素人でもわかる。
日本が敷いた絶対的防衛ラインというものは、あくまで、敵爆撃機による本土ならびに朝鮮半島、台湾、満洲、樺太といった当時の日本を守るための布陣となっている。
なかにはChinaには侵略したではないかという人もいるかもしれない。
しかしそれも違います。
Chinaは、大東亜戦争よりも早くから、すでにChina事変が起こっている。
これは、日本が大陸に得た正当な権益に対し、当時米英から補助物資を得たChinaの軍閥が不当な戦いを挑んできたものにたいし、これも防衛のためにやむなく戦ったものにすぎない。
タラワ島(ギルバート諸島)に今も残る日本軍の砲台
タラワ島(ギルバート諸島)に今も残る日本軍の砲台

話が脱線しました。
タラワ、マキンに話を戻します。
日本は、昭和18(1943)年2月15日、帝国海軍は、横須賀第6特別陸戦隊などをタラワ・マキンに送り、横須賀第6特別陸戦隊改編を新編成し、地上防護施設や航空施設の増強を始めます。
特にタラワ環礁のベティオ島では、地下陣地による全島の要塞化を目指した。
ベティオ島は、東西3,500M、南北の最大幅500Mの小島です。
タラワ守備隊約四六〇〇名は、そこに飛行場を建設し、堅固な要塞を築いた。
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陸上には鉄レールを骨組みにしたコンクリート製の地下戦闘司令所をはじめ、椰子丸太で構築した半地下式トーチカを無数に造った。
これらのトーチカは、直径20cm以上の椰子丸太を2Mの幅で2段に重ね、その中間に岩や砂をつめこんだものである。
天蓋(屋根)にも2M以上の覆土を盛り上げた。
しかも各トーチカは地下壕で連絡されていた。
直撃弾ならともかく、至近弾ぐらいでは、いかなる巨弾が落下してもビクともしない堅牢さである。
海岸線にはやはり椰子丸太で組んだ防壁をほどこし、海中にも丸太と角材を二重にしばりつけた防壁をめぐらした。
(佐藤和正『玉砕の島』)
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主戦力の佐世保第7特別陸戦隊には、軽戦車なども与えた。
同じ年の5月には、北太平洋のアリューシャン列島のアッツ島で、山崎保代大佐以下2000名が玉砕する戦いが行われています。
そして、同年7月にギルバートの防衛指揮官として柴崎恵次少将が着任する。
米軍は、この島の攻略のため、入念な調査を行います。
そして航空偵察の結果、タラワ日本軍の兵力を4500人と正確に割り出した。
決め手は、航空写真に写っている便所の数だったそうです。
日本軍は、一個の便所を何人で使わせるかを決めていた。
だから便所の数で、兵力が特定できた。
この特定があまりにも正確だったので、「(情報部の)主任参謀シャウプ中佐は“第二次世界大戦中に撮影された最上の写真”だといった」そうです。(ヘンリー・ショート著『タラワ』宇都宮直賢訳)
こういう話は、日本軍の戦いによく聞きます。
日本人は、米の飯を食べるから、食事時になると炊事の煙がたつ。
それで兵隊の隠れている場所が特定できた、などという話もあります。
これに対し、欧米はパン食です。フランスパンなどは、非常に硬いパンだけれど、これはナポレオンが遠征の際の兵の食事用に考案したとされる。硬く乾燥させることで荷物を軽くし、長期間の食用に耐えられるようにする。そして食事時に煙がたたない。
要するに、日本という国は、元来、戦い人の国ではない。そもそも平和を愛する民の国なのです。
わずか4600名、しかもそのうちの約2000名は、建設労働者の朝鮮人です。
実際の兵力は、
第3特別根拠地隊本隊 902名
佐世保第7特別陸戦隊 1669名
合計2571名しかいない。
そこに、米軍は18,300人の人の上陸部隊と、最新鋭の空母6隻、戦闘機や爆撃機を400機以上、重巡洋艦(1万トンクラスの軍艦)4隻、軽巡洋艦(3000トンクラスの軍艦)、駆逐艦16隻、潜水艦10隻など、計200隻にのぼる艦隊を差し向けた。
投下兵力の合計は、35000名です。
昭和18(1943)年11月10日、レイモンド・スプルーアンス中将率いるマキン・タラワ侵攻部隊が、ハワイの真珠湾を出発します。
11月19日、タラワとマキンへ、同時に事前攻撃が始まる。
3日間、休むことなく猛烈な絨毯空爆と、艦砲射撃の雨を降らせた。
トーチカの位置は、あらかじめ航空写真で、建築中の様子からずっと観察してある。
米軍の艦砲射撃は、正確に日本軍のトーチカを攻撃してきます。
この間、いつ上陸用舟艇が来るか、まったく予断ができない。
日本兵は、一刻の休みなく、猛爆に耐えに耐え、トーチカの内部にいて崩れた場所の修繕などを行い続けた。
11月21日午前3時、タラワ環礁の外側にいた米軍の輸送船から上陸第1波である125両の上陸用舟艇が、タラワ環礁の西側の水路から侵入を開始します。
それまで、ずっとまったく反撃のそぶりを見せずに地下に潜っていた日本軍の西海岸の砲台が、ここではじめて火ぶたをきった。
日本軍の大砲の性能は、米軍のそれと比べてはるかに劣るものです。
しかし、日本側の砲撃は、正確に上陸用舟艇を一艘ずつ打ち砕く。
米軍上陸部隊は大損害を被り、敗退します。
トーチカからの発砲を見た米軍は、旗艦である戦艦「メリーランド」から主砲射撃で、日本軍のトーチカをねらい打った。
固く閉ざしたトーチカは、砲撃に耐えます。
しかし、反撃のために口を開いたトーチカは、内部を表に露出している。
そこをめがけて、メリーランドの巨大な対戦艦向けの主砲が撃ち込まれた。
この時一発の砲弾が日本軍の弾薬庫に命中し、島を揺り動かすほどの爆発が起こっています。
上陸をいったんあきらめた米軍は、島の砲陣地や機銃陣地に対して、再び全艦あげての艦砲射撃を行い、さらに艦載機による空爆を加えた。
日本軍守備隊は、この爆撃によって電話線が修理不可能となり、命令伝達系統が完全に麻痺する。もはや本部命令は前線に届きません。
これによって、守備隊は、各攻撃部隊やトーチカごとに、今後、独立した自由意思で戦うことになる。
米軍は、礁湖内に駆逐艦2隻を進出させます。
そして日本軍トーチカを砲撃する。
これに対し、日本軍の海岸砲が正確に発砲し、1隻に命中弾をあたえます。
しかし、この命中弾は不発弾となって、敵駆逐艦上に転がった。
米軍は、その駆逐艦の掩護を受けながら、再び上陸用舟艇を海岸に差し向けます。
3個大隊の兵力を6波に分け、3分間隔で海兵隊を発進させ、その後に戦車や野砲等の重装備を積んだ舟艇群が続いた。各大隊への攻撃割り当て幅は、わずか海岸線上約360Mだあった。
島の波打ち際から450M先に、サンゴ礁のリーフがある。
海底はそこから垂直にきりたっています。
リーフから海岸線までは、浅瀬になる。
リーフに、米軍の上陸用舟艇の第一波が近づいたところで、日本守備隊は砲撃を開始します。
砲弾は正確きわまりない。
さらに近づこうとする敵兵には、機銃掃射が行われる。
米軍の上陸用舟艇は、海岸にたどり着く前に命中弾を受け、なんとか海岸に辿り着いた船も、損傷が激しく、それ以上は動けなくなった。
第4波以降の重装備部隊も続々とリーフに辿り着いたが、リーフ上の水深は60~90cmしかない。重い荷物は大型の船で運べない。
そこで米軍重装備隊は装備を頭上にかかげ、海岸への徒渉上陸を試みる。しかし、サンゴの環礁というものは、浅瀬の向こう、岸までの間に、再び水深の深い海が広がります。
米兵は、重い装備のため海に沈み、溺れ死ぬ者が続出した。
そこへ日本軍守備隊が海岸から機銃で攻撃を加える。
米軍は、その無茶な戦法のため、海岸にたどりつくことすらできなかった。
わずかに海岸にたどり着いた者は、奥行き60m程度しかない砂浜の陸地側にある、高さ1.2mの防壁の側に身を潜めたけれど、米軍は、この時点で上陸用兵約5000人の半数を失っていた。
午前6時35分、柴崎司令は「全軍決死敢闘士気旺盛ナリ」との戦況を打電。
上陸部隊の苦境を見た攻撃隊指揮官のデビット・シャウプ大佐は連隊予備の前線参加を命じ、さらなる艦砲射撃と航空支援を要請します。
要請に基づき、米軍は再び艦砲射撃と空爆を開始。
この時の砲爆撃に際しては、米軍の上陸部隊が日本軍陣地を無線電話で誘導することで、命中精度が向上した。
同じ頃、ジュリアン・スミス師団長は師団の予備兵力である海兵1個連隊の投入を決定した。
この二度目の艦砲射撃で、日本側の死傷者は急増します。
本来、大将のいる戦闘指揮所は、軍の頭脳にあたる場所です。ここは、もっとも頑健で安全度を高くして構築する。
柴崎恵次少将(隊長)は、多発する怪我人を見て、すかさず戦闘司令所までも負傷者の治療所に提供します。激しい戦いのさなかにあっても、ひとりでも多くの兵士たちの命を救いたい。
午後12時、柴崎少将は、参謀や司令部要員を連れて外海側の防空壕に移ります。
移動直後、その防空壕に直撃弾が命中する。
柴崎少将以下、先任将校、軍参謀に至る前線の指揮官全員が爆死してしまいます。
すでに電話線は切断されている。前線基地同士の互いの連携は、地下通路を走る伝令だけです。それでも隊長以下、部隊指揮官全員死亡のニュースは、すぐに全隊員に知れ渡ります。
本来なら、軍の頭脳を失った兵隊は、ここで各トーチカごとに白旗を掲げれて降参すれば良い。そうすれば、米軍の捕虜になり、命だけは助かります。
しかし、日本軍の兵士たちは、誰一人そうはしなかった。
タラワの前線基地を失うことは、そのまま米軍がインドネシアの本体への攻略を許すことになる。だから彼らは戦うことを選択した。誰一人、白旗は掲げなかった。
日本兵は、予め定められた部署によって各隊は迎撃を続行し終日敵を圧迫した。
そのうちに日が暮れます。
上陸を果たした海兵は砂浜に眠りこけ、無茶苦茶に陸揚げされた物資が山をなしていた。
この有様を見た海兵隊の指揮官達は日本軍による夜襲を恐れたけれど、何故か日本軍は何もしなかった。上陸作戦に先立つ砲爆撃によって日本軍の電話通信網が切断されたためと判断されたといいます。
翌11月22日午前6時、さらに新手の米海兵隊が上陸を開始します。
前日上陸していた海兵たちは護岸堤防の影に隠れ、味方の上陸部隊がいまだ衰えない日本軍の砲撃に晒されるのを振り返って見ていた。
まだ健在だった日本軍の海岸砲や迫撃砲が砲撃を開始します。
なかでも、米軍にとてつもない被害を与えたのが、島から少し離れたところに座礁していた輸送船「斉田丸」もぐりこんだ日本軍兵士です。
夜の間に、座礁した「斉田丸」に乗り込み、船の機関銃を上陸兵たちに乱射した。
「斉田丸」からの機銃掃射は、絶大な効果をあげます。
上陸しようとする米海兵は、大損害を被り、大混乱に陥ちいる。
これを脅威と考えた米軍は、「斉田丸」を沈黙させようとして、F6F戦闘機4機で「斉田丸」に機銃掃射をします。しかし「斉田丸」は沈黙しない。
続いて小型爆弾を抱えたF6F戦闘機を3機差し向けた。
「斉田丸」に対し1番機、2番機は至近弾を与え、3番機は直撃弾を与えたけれど、「斉田丸」の機銃は沈黙しない。空爆をまるでなかったかのごとく、機銃を打ち続ける。
米軍は、今度は12機のF6F戦闘機で「斉田丸」に次々と爆弾を投下した。
ところが「斉田丸」に直撃弾が当たらない。
ようやく1発だけ命中したけれど、「斉田丸」の機銃は無傷。
やむなく米軍は、工兵部隊によって決死隊を編成して「斉田丸」に近づき、高性能爆薬を仕掛けた。高性能爆薬により「斉田丸」は大爆発を起こし、「斉田丸」の日本軍の機銃は沈黙した。
すでに命令系統がなくなった状態で、単身で斉田丸を確保し、死ぬとわかって機銃掃射を続けた日本人兵士。いまでは、その方のお名前すらわからないけれど、その勇敢な行動に、頭が下がります。
「斉田丸」が制圧されたのが午後3時です。「斉田丸」を確保した日本兵は、まる半日以上、その箇所での米軍の上陸を阻んだ。
22日夕方には、戦車を先頭に押し立てた米上陸部隊の攻勢が始まります。
米海兵は、海岸に強力な拠点を築き、大砲や戦車が続々と陸揚げした。
その日の夜、その米軍拠点に、約300名の日本兵が突撃したが、米軍の重火器の前に、全員玉砕する。
この時点で、日本軍の残存兵力は、約500名。
彼らは、島の東端に追いつめられた。
米兵たちは、猛烈な援護射撃を受けながら、火炎放射器と爆薬を用いた「溶接バーナーとコルクせんぬき」戦法で、日本軍陣地をひとつひとつ潰します。
火炎放射機というのは、まず壕内の酸素を奪う。そして窒息して苦しむ兵士に生きながら火をつけ、焼き殺す。
翌11月23日、日本軍東地区守備隊の生き残り約350名が、飛行場の東端陣地に集結し、米軍に対し、最後の抵抗を行います。
すでに武器弾薬の乏しくなっていた日本兵は、米兵をギリギリまで引きつけて、拳銃、手榴弾、銃剣で、これを斃した。
接近戦による白兵戦なら絶対に負けない。これは日本兵の自信でもあった。
ちなみに、大柄な白人に対し、小柄な日本人が白兵戦で戦って絶対の自信を持っていたことには理由があります。
戦前の日本人将兵は、みんな柔道と剣道をやっていた。
剣道の「体さばき」は、猛烈なスピードで変幻自在に繰り出される刀の切っ先を毛筋一本で、見切り、かわします。
よく時代劇などで、刀と刀を、チャリーンと合わせるシーンが出るけれど、あれはウソです。最近のテレビや日本映画では、剣道を知らない外国人が監督をやるから、ああいうウソがまかり通ってしまう。
日本刀での戦いでは、刀と刀は、絶対に合わせません。あんなことをやったら、刀は刃こぼれして折れてしまう。
昔、港などで日本人と外国人が喧嘩になると、日本人はやたらと強かった。相手はボクシングのパンチを繰り出すのだけれど、これが日本人相手にはまるで当たらない。次々とかわされてしまうのです。それもそのはずです。どんなにボクシングのパンチが早くても、刀の切っ先のスピードには敵わない。
その刀でさえもかわす「体さばき」でパンチをかわし、近接したら柔道の技で投げ飛ばす。
小柄な日本人のあまりの強さに、世界中の港の荒くれ男たちは、日本人を恐れた。
最近は、キックボクシングや空手が流行っているけれど、剣道の達人に敵う武道家はいなかったという話もあります。
11月23日の夜、日本軍の残存守備隊約350名が最後の突撃を敢行します。
突撃は、3班に分かれて行われた。
このときの模様を、日本兵の生き残りの一人、音里一等水兵は次のように書き残しています。
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この日、夜になって最後の突撃を敢行することになりました。
もう手元には手榴弾も残っていません。
重傷者に渡す自決用もないんです。
動けない者は、銃口を口にくわえ、足の親指で引き鉄を引いて死んでゆきました。
それすらできない者がいます。
足を砕かれている者ですよ。
彼らは互いににじり寄ると、手に帯剣を握りしめ、気合もろとも心臓を刺し合うのです。
心臓を突き刺したら、人間はすぐに死ぬと思っていたのですが、なかなか死なないのには驚きました。
見るに見かねて、戦友が介錯しましたけど、自決するときは心臓を選んではダメですね。
(『佐藤和正『玉砕の島』)
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音里氏は突撃部隊に向けて発射された迫撃砲弾に吹き飛ばされ、気を失ったまま捕虜となった。
11月25日、戦闘開始から5日目、西地区守備隊第一波突撃隊50名も同様に玉砕しています。
このとき、第二派突撃隊は、第一波突入隊の攻撃が終わるまで、防空壕に待機していた。
米軍は、その壕内に火焔放射器による攻撃をおこなった。
火焔放射をやられると、トーチカ内は酸素がなくなり、窒息し、最後にあぶられて黒こげになる。
その防空壕でただひとり生き残り、戦後生還した人がいます。
大貫唯男氏(当時上等兵曹)です。彼は次のように書いている。
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私のからだには、黒焦げの死体が重くのしかかり、あたり一面にちぎれた手足が飛び散って、これまでの戦闘で見馴れたはずの私でさえも、思わず眼を掩いたくなるような惨状が現出していた。
さっきまで生死を共にしようと誓い合っていた15名の戦友はすでになく、幸運にも私だけが戦友の死体の陰にはかない命を拾ったのだ。
いくらか顔に火傷はしていたが、わたしには五体完全な自分の姿がどうしても信じられず、しばらく呆然としていた。
(「タラワ島玉砕す」『実録太平洋戦争 第三巻 アッツ玉砕からインパール作戦まで』)
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大貫氏は、彼と同様に生き残った7名とともにしばらく隠れるようにして3週間ほど島をさまよいます。
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捕まれば殺されるものと思っていた私たちは、どうせ捕まって殺されるなら、いさぎよく自分の手で命を絶とうと、7人で一緒に首を吊ってみた。
しかし、貧弱な綱はプツリと切れて、私たちは見事に死にそこなってしまった。
いまは死のうにもピストル一つ、刃物一つないのだった。
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7名は、その後意識不明のまま米軍に捕まり、捕虜となった。
結局、タラワで捕虜になった日本兵は17名です。
これとは別に、基地建設要員として赴任していた朝鮮人軍属129人も捕らえられた。
戦死4,713名。日本人捕虜17名。朝鮮人の捕虜129名。
タラワの玉砕は、アッツ島の玉砕とちがって守備隊からの連絡はありませんでした。
米軍上陸の報告を告げたあと、守備隊の無電は途切れてしまったからです。
タラワ守備隊が戦っているとき、連合艦隊はこの救出のために、必死の努力をします。
タラワの戦いの間、アメリカ軍の来襲を知った日本軍は、救援のために以下のような作戦をおこなっていたが、十分な成果を上げることは出来なかった。
まず聯合艦隊は、上陸のあった21日には、ポンペイ島にいた陸軍甲支隊の派遣を決め、軽巡3隻、駆逐艦2隻、輸送船2隻からなる輸送部隊と、重巡4隻、駆逐艦6隻からなる邀撃部隊を編成し出発させた。
しかし、26日、マーシャル諸島のクェゼリンまで進出したところで、タラワからの通信が22日の午前中から途絶し続けたため、25日には、玉砕と判断。支隊の派遣を中止しています。
さらに聯合艦隊は潜水艦9隻をギルバート海域に進出させ、米海軍機動部隊の攻撃及び索敵を行ない、24日には、伊175潜がマキン沖で護衛空母リスカム・ベイの撃沈に成功しています。しかし、海を覆うばかりの圧倒的敵艦船の前に、日本軍は潜水艦6隻を失っている。
マーシャル諸島のルオットからは、海軍航空隊による決死の反撃も行った。
この部隊は、ギルバート沖で米航空部隊と遭遇。
ギルバート諸島沖航空戦が展開し、21日には、軽空母インディペンデンスを大破させた。
22日にはタラワ応援のために陸攻9機、戦闘機39機を発進させているけれど、これは天候不良で途中で引き返さざるを得なかった。
さらに、陸攻の魚雷を爆弾に積み替え、米軍タラワ上陸部隊への昼間攻撃をすべく発進したけれど、これも天候不良のため途中で引き返さざるを得なかった。
22日の夜にルオットを発進した陸攻4機は深夜、タラワ上空に到着し、米軍の上陸地点を二航過して爆弾8発を投下、米軍に戦死者1名戦傷者8名を出したけれど、誤って日本軍陣地にも着弾させている。日本軍にも被害が出たと思われるが詳細は不明。
おなじく、11月21日から23日にかけて、マキン守備隊693名も、戦死589名を出して、玉砕した。残りの104名は捕虜となったが、このうち日本人は意識不明で拿捕された3名のみ、のこりの101人は、土木作業要員であった朝鮮人軍属です。
彼らは、もともと約200名いたのだけれど、日本の将兵は、彼らを開戦と同時に、安全な弾薬庫に隔離し、戦いに参加させなかった。
しかし米軍はその弾薬庫に手榴弾を投げみ、自動小銃を乱射した。そのため約半数が死亡。
生き残った101名は、戦闘早々に米軍の捕虜となっています。
マキンに投下した米兵は、6470名。これに艦載機、艦砲射撃が加わった。
絶対的兵力差は、100倍以上でした。
このタラワ・マキンの戦いについて、日本語で書かれたいろいろ本やサイトを読むと、日本軍=悪、米軍=善意の兵隊のような表現をしているものが多いことに驚かされます。
しかし、そういう人たちにいいたい。
尚、この両島での壮絶な戦いを通じ、島民の被害者は誰も出ていません。
そして、タラワ・マキンの戦いのあと、米国は、キリバス諸島を領有し、戦後も領有をし続けた。
そしてこの地で、英米両国は、昭和31(1956)年~昭和47(1962)年までの間、米英は、ここで核実験を繰り返し行っています。
怒った住民の決起で、昭和53(1978)年にエリス諸島がツバルとして、昭和54(1979)年にキリバスとして独立を許された。
ただし、以後、核実験による被害弁償を請求しないことが条件です。
やさしさが命取りになったタラワの柴崎少将は、兵庫県加西市ご出身の方です。享年49歳。
「斉田丸」で、猛烈な反抗をした勇敢な兵士もいた。米軍のフイルムを見ると、彼らが斉田丸ひとつに、どれだけ苦しめられたかがわかります。
そして平べったい、小さな島に、猛烈な空爆やら艦砲射撃やらを行った。
タラワで亡くなられた守備隊兵士4,713柱、マキン589柱。
私たちは、同じ日本人として、彼らに心から感謝の意を表するとともに、ご冥福をお祈り申し上げたいと思います。
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