
(昨日までのあらすじ)
シベリアのハバロフスクに抑留された日本人は、10年間、無抵抗でソ連兵たちの横暴に耐え続けてきた。馬鹿にされても、殴られても、いっさいの敵対行動を取らず、日本に帰る日を夢見ながら、黙々と使役作業を続けた。
しかし、ソ連兵の横暴は募り、ついに病弱者まで使役に駆り出す。
このままでは、仲間たちが死んでしまう。
ついに日本人捕虜769名の戦いがはじまります。
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「このままでは皆死んでしまうぞ」
「そうだ。収容所側はこれからも、
このような仕事の命令を繰り返すに違いない。
そうすれば病弱の者はこの冬に殺される。
そして現在健康な者もやられてしまう」
「では、どうするんだ?!」
収容所側にいくら懇願しても誠意のある対応は期待できません。
このまま自滅を待つのか・・・。
ひとりの班長が言いました。
「自滅するよりは闘おう。
座して死を待つのは日本人としての恥じだ」
「そうだ。同感だ」
「しかしどのように戦うのだ」
「戦うなら、勝つ戦いをしなければならない。
さもなければ、生きて祖国に帰ることだけを
目的にしてこれまで耐えてきたことが水の泡になる」
「先ず作業拒否だ」等々、いろいろな意見が交わされました。
何よりも最大の目的は「全員が生きて日本に帰ること」です。
こういう戦いのときというのは、よく、いつのまにか戦いそのものが目的となってしまって、味方に何人の犠牲者が出ようが関係ないような思考に陥る人がいます。
ChinaやKoreaでは、むしろそれがあたりまえで、そもそも一部の人たちが「自分のために人を使って戦いをさせる」のです。
ですから目的は、自分だけが助かることにあるのであって、そのために味方が何人犠牲になろうが、一切おかまいなしになります。
助かりたい人が、自分のために周囲の人達を脅したり騙したりして戦わせるのです。
そうなると、サブリーダーたちは、戦いそのものが目的になります。
部下たちは、そのための駒でしかない。
そのような具合ですから、少しでも不利になれば、全体が総崩れになります。
彼らの弱さが、そこにあります。
日本人の場合、どこまでも目的が「全員が生きて日本に帰ること」であれば、これが全員にとっての課題となります。
そのためには、全員の合意の形成が何より大事になります。
ですから一部の人が、強制的に人を使役して戦わせるのではないのですから、当然、合意の形成には時間がかかります。
しかしひとたび合意が形成されれば、その目的達成のために、全員が全力をつくすことになります。
だから日本人は強いのです。
あからハバロフスクでも、その合意の形成のために、各班で話しあって、結果を踏まえて結論を出そうということになりました。
そして12月19日から、各班の結論は、作業拒否で戦うということに決まりました。
こうして全体の方針が決まりました。
しかし作業拒否だけでは、ラチがあきません。
代表を決め、固い決意のもとに全体が組織だって死を覚悟の交渉をするのです。
班長会議が一致して代表として推薦した人物は、元陸軍少佐の石田三郎さんでした。
要請を受けた石田三郎は、作業拒否を実行する班はどの班か聞きました。
班長会議の面々は
「浅原グループを除く全部だ」と答えました。
浅原というのは、シベリアの天皇といわれた民主運動のリーダー浅原正基(あさはらせいき)のことです。
この浅原正基という人物は、元日本陸軍上等兵、ハルビン特務機関員でありながら、シベリア抑留の際、イワン・コワレンコというソ連KGBの中佐と結託して、元上官などを次々に告発し、貶め、辱め、殺害に導いた男です。
すすんでソ連兵に媚(こび)を売り、日本人の同胞を辱め、売り飛ばし、自らソビエト社会主義の先鋒を勤めることで、自分だけがいい思いをしようとした裏切り者です。
だから浅原は、袴田陸奥男とともに抑留者から恐れられ、「シベリア天皇」(最高権力者という意味)と呼ばれていました。
浅原は、仲間を売ることでソ連KGBから自分だけ援助を受け、特権階級者になろうとしたのです。
けれどそれを10年続けてソ連が浅原に与えた身分は、単なる「抑留者」です。
軽薄な裏切り者、仲間を売るような卑怯者を飼っても、しょせんは信用などできないことくらい、ソ連兵だってわかるのです。
結局浅原は、ソ連兵にもKGBにも信用されず、仲間たちからも見放されてしまう。
売国者の末路というものは、こういうものです。
石田三郎さんは、作業拒否闘争の代表を引き受けました。
しかしそれは死を覚悟しなければならない大変なことです。
石田さんはみんなの前で言いました。
「この闘いでは、
犠牲者が出ることを
覚悟しなければなりません。
少なくとも代表たるものには
責任を問われる覚悟がいります。
私には親もない、妻もない。
ただ祖国に対する
熱い思いと
丈夫な身体があります。
私に代表をやれというなら、
命をかけてやる決意です。
皆さん、始める以上は、
力を合わせて、
最後まで闘い抜きましょう」
それまでにも政治犯のソ連人や、ドイツ人その他による捕虜たちのストライキや暴動がありました。
これに対するソ連の弾圧は、すさまじいものでした。
同朋人であるソ連人が収容されている収容所でのストライキや暴動でさえも、戦車が出動し、多くの死者を出し、首謀者は必ず処刑されているのです。
日本人の捕虜たちは、全員、ソ連のこの方針を知っています。
それでも、仲間の死を座して見過ごすことができない。
仲間を死なせるわけにいかない。
こうしてハバロフスクの日本人捕虜769名の戦いが始まりました。
この収容所の人々は、ほとんどが旧制中学卒業以上の知識人です。
知的レベルが非常に高い。
女性もいました。
このような人々が心の底から結束して立ち上がった点に、ハバロフスク事件の特徴があります。
日本人捕虜たちの要求事項は次の通りです。
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1 皆、健康を害しているので、帰国まで、本収容所を保養収容所として、全員を休養させること
2 病人や高齢者を作業に出さないこと
3 高齢者や婦女子を即時帰国させること
4 留守家族との通信回数を増やすこと
5 今回の事件で処罰者を出さぬこと
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そして、戦術としては、
(1) 暴力は絶対に使わない
(2) 収容所側を刺激させないため「闘争」という言葉は避け、組織の名称は「交渉代表部」とし、運動自体も「請願運動」と呼ぶことにする。
石田さんは全員を前にして言いました。
「私たちの最大の目的は、
全員が健康で祖国の土を踏むことです。
これからのあらゆる行動は、
このことを決して忘れることなく、
心を一つにして
目的達成まで頑張りぬきましょう」
長い間、奴隷のように扱われ、屈辱に耐えてきました。
日本人としての誇りどころか、人間としての尊厳や自覚さえも失いかねない服従の日々でした。
その日本人捕虜が、収容されて初めて、日本人としての誇りを感じ、人間として目覚めたのです。
石田さんの声は、とても静かなものでした。
けれどみんなの心に熱いものがこみあげました。
石田さんは有効な作戦を立てるため、また重要な問題にぶつかったとき、アドバイスを受けるための顧問団を編成しました。
顧問団には、元満州国の外交官や元関東軍の重要人物などもいました。
石田さんは、顧問団の名前はいっさい公表しませんでした。
あくまで個人的に密かに接触しました。
これらの人々に危険が及ばぬようにするためです。
顧問団の中には、元関東軍参謀瀬島龍三さんもいました。
瀬島さんは回顧録の中で次のように語っています。
「平素から私と親しかった代表の石田君は
決起後、夜半を見計らって
頻繁に私の寝台を訪ねてきた。
二人はよそから見えないように
四つん這いになって意見を交換した。」
瀬島さんは、石田さんに請願書の提出を助言しました。
中央のソ連内務大臣、プラウダの編集長、ソ連赤十字の代表などに、請願文書を送るのです。
そしてその文書は、すべて外交文書としての要件・形式を整え、ソ連の中央権力を批判することを避け、中央政府の人道主義を理解しない地方官憲が誤ったことをやっているので、それを改善してくれと請願する。
例えば、昭和31(1956)年2月10日の、ソ連邦内務大臣ドウドロワ宛の請願書では、
「世界で最も正しい人道主義を終始主唱するソ連邦に於いて」
と中央の政策を最大限誉め上げ、それにもかかわらず、当収容所は、
「労働力強化の一方策として、
計画的に病人狩り出しという挙に出た。
収容所側の非人道的扱いに耐えられず
生命の擁護のため止むを得ず、
最後の手段として作業拒否に出た」
だから
「私達の請願を聞いて欲しい」
と結んでいます。
また同年1月24日のソ連赤十字社長ミチェーレフ宛請願書でも、
「モスコー政府の人道主義は、
いま地方官憲の手によって
我々に対して行なわれているようなものではないことを確信し」
と表現しています。
これらは、皆、瀬島龍三さんのアドバイスによるものでした。
作戦として
「中央を持ち上げて地方をたたく。
あくまでも外交上の筋道をキチンと通す。」
おそらく収容所側は、作業拒否に対して
「これは暴動であり、ソ連邦に対する反逆である。
直ちに作業に出ろ」と執拗に迫ることでしょうし、中央にもそのように報告することでしょう。
そして減食罰などを適用しながら、一方で、
「直ちに作業に出れば、許してやる」
とゆさぶりをかけてくるに違いありません。
これに対抗するためには、とにもかくにもルールをきちんと守り、筋を通しきっていかなければならない。
またソ連軍が、事件の首謀者を拉致して抵抗運動の組織を壊滅させることも考えられます。
だから石田さんには、各班から護衛をつけて、夜毎に違った寝台を転々とすることなども取り決められました。
いよいよ12月19日、作業拒否による抵抗運動が開始されました。
石田さんは、正々堂々、分所長スリフキン中尉に面会を求めました。
そしてスリフキンの前で敬礼をし、直立不動の姿勢をとり、姓名を名乗り、営外作業日本人の代表たる旨を報告したうえで、
「我々は12月19日、
本日作場出場拒否の方法をもって
請願運動に入ります。
この解決について、
当ハバロフスク最高責任者と
会見交渉したい」
と申し入れました。
分所長スリフキン中尉は
「今からでも遅くないから作業に出よ。
問題はその後に相談しよう」
と作業を督促しました。
要するに「お前たちの言うことなど聞く耳持たない」というわけです。
しかし石田さんは断固として
「最高責任者にこの旨至急報告されたい」
と言い残しました。
その日の午前10時、石田さんは、政治部将校マーカロフ少佐の呼び出されました。
石田さんが団本部に入ってみると、マーカロフ少佐に、吉田団長、鶴賀文化部長がいました。
事態がここまできた以上、別に、団長、文化部長に室外へ出て貰う必要はありません。
かえって二人がいてくれた方が話しやすいとばかり、石田さんは、鶴賀に通訳を頼みました。
マーカロフ少佐は、元来日本人を人間扱いしない総元締です。
傲岸不遜、人を見下すことを得意とする男です。
この時も居丈高に、
「囚人の作業拒否は違法だ。
如何なる理由があろうとも、
囚人が作業に出ないとはけしからん。
不服従として
厳罰に処する」
と喰ってかかってきました。
石田さんは静かに答えました。
「日ソ間の国交回復が議せられている現在、
またヴォロシーロフ議長が、
日本議員団訪ソの際に言明したように、
日本人は当然、遠からず
帰国を約束せられている集団
であると信じています。
この最も光明ある時期に、
何故かかることを断行しなければならなかったかは、
貴官も先刻御承知のはずです。
特に貴官の病人狩り出しは
甚だしい非人道行為です。
このような事態が続くとすれば、
私たちの健康状態は・・・」
マーカロフ少佐は、日本人をバカにしていて話を受けつけません。
石田さんの話の腰を折って、
「よろしい。
即刻作業に出ないとあれば
昼食を支給することはできない」
と会見を打ち切りました。
石田さんは団本部から戻りました。
すると数十名の若者が、営庭の片隅で盛んに大工仕事をしていました。
何事かと近よってみると、
「ソ連兵が弾圧のため
営内に進入してくるに違いないから、
バリケードを作っているんだ」という。
石田さんは驚きました。
「そうか。私はウカツだつた。
みんな同胞の生命を守るため
本当に死を覚悟しているんだ。
だからいま決死の抵抗を準備している。
そうだ。
この決意こそが必要なのだ。
しかし、こういう手段は
とってはいけない。
私たちは正義と人道の上に立っている。
これで充分なのだ。
暴力を用いてはいけない。
暴力を用いれば、
敵に攻撃の口実を与えてしまう。
ソ連各地のロシヤ人囚人の暴動と
同一であってはならない。
あくまで沈着冷静な、
無抵抗の抵抗でなければならない。」
石田さんは、若者たちにこのことを説きました。
若者達は、納得してバリケードを撤去してくれました。
その日の正午前、石田さんが班長たちにマーカロフ少佐との会見の模様を報告していると、炊事係がやってきました。
「いま政治部将校から許可あるまで、
全員に昼食を支給することまかりならぬ、
と命令がありました」
ソ連側の圧力のはじまりです。
そしのこの圧力は、最終的に3月11日、ソ連邦内務次官中将が、自ら指揮する兵力2500名と消防自動車8両とを用いて行った大武力弾圧にまで発展しました。
作業拒否闘争が始まって間もなくのことです。
35歳以下の若者130名が、自発的に青年防衛隊なるものを結成しました。
そして石田さんのもとに、結成式をやるから出てくれと言ってきました。
石田さんが表に出ると、凍土の上に、シベリアの雪が静かに降る中で、若者たちが整列していました。
そして青年たちの代表が凛(りん)とした声で、宣誓文を読みあげました。
整列した若者たちの瞳は澄み、顔にかかる雪にも気付かないかのようです。
敗戦によって心の支えを失い、ただ屈辱に耐えてきたこれまでの姿が一変し、何者も恐れぬ気迫があたりを制していました。
彼らの胸にあるのは、自らの意思で、人としての尊厳を取り戻すために、友のために、同胞のために、正義の戦いに参加しているのだという誇りです。
「私たち青年130名は、
日本民族の誇りに基づいて
代表を中心に一致団結し、
闘争の最前線で
活躍することを誓う!」
代表が読み上げた檄文は、
我々は石田代表と生死を共にする、
我々は老人を敬い病人を扶ける、
我々はすべての困難の陣頭に立つ、
我々は日本民族の青年たるに恥じない修養に努力する、
と続きました。
石田さん答辞として次のように答えました。
「運動の目的は、
あくまでひとり残らず
日本に帰国することです。
そのために暴力は
絶対にいけません。
諸君の任務は、
暴力に訴えることが生じないように
監督してくれることです。
そして私を拉致するために
血を見るような事態に至ったときは、
私ひとりで出て行きます。」
すると一人の青年が、石田さんの言葉をさえぎりました。
「代表が奪われるよりは、
私達青年は
銃弾の前に屍をさらす覚悟です」
このとき、集った130名の青年たちの目には、必死の覚悟が浮かんでいます。
石田さんの耳には、彼らのすすり泣く声さえも聞こえました。
石田さんも泣けてきました。
これまで、如何なる拷問にも耐え、如何なる困難を前にしても泣いたことのない石田さんは、このとき青年たちの手を握って泣きました。
みんながこのように、純粋な気持で涙を流すことは祖国を離れて以来初めてのことです。
外の力で動くのではなく、内なる力に衝き動かされ、その結果、人間として一番大切な生命をかける。
こうして決死の覚悟を抱いた青年たちがどれだけ強いか。
そのことはソ連兵がいちばんよく知っています。
予想に反して長引いたハバロフスクの闘争事件で、ソ連側が軽々しく武力弾圧に踏み切ることを控えさせるために、その後、決死の青年隊の存在は大きな意味を持つことになったのです。
石田さんたちは、ソ連に連行されてから11回目の正月を、闘争の中で迎えました。
まだ打開策は見つかっていません。
闘争の行方には不安だらけです。
しかし彼らの心には、それまでの正月にはない活気があふれていました。
体はやせ細っていたけれど、収容所の日本人たちの表情は明るかった。
日本の正月の姿を少しでも実現しようとして、人々は、前日から建物の周りの雪をどけ、施設の中を、特別に清掃しました。
器用な人が門松やお飾りやしめ縄まで、代用の材料を見つけてきて工夫してつくってくれました。
各部屋には、紙に描かれた日の丸も貼られました。
懐かしい日の丸は、人々の心をうきうきさせた。
そんなお正月の準備作業に取り組む日本人の後ろ姿は、どこか、日本の家庭で家族のためにサービスするお父さんを思わせるものがあったそうです。
そしてこれこそが、自らの心に従って行動する人間の自然の姿です。
石田さんは『無抵抗の抵抗』の中で次のように語っています。
「ソ連に連行されてから、
この正月ほど心から喜び、
日本人としての正月を祝ったことはなかった。
それは本来の日本人になり得たという、
また民族の魂を回復し得たという
喜びであった。」
元旦の早朝、日本人は建物の外に出て整列しました。
白樺の林は雪で被われ、林のかなたから昇り始めた太陽が、樹間を通して幾筋もの陽光を投げていました。
そして全員で、日本のある東南に向かって暫く頭を下げると、やがて誰ともなく歌を歌った。
君が代は
千代に八千代に
さざれ石の
巌となりて
苔のむすまで
長い収容所の生活の中で、国歌を歌うことは初めてのことでした。
歌いながら、日本国民としての誇らしい気持ちと、家族、故郷への思いがよぎりました。
歌いながら、涙が止まらなくなりました。
「民主運動」と呼ばれる共産主義の圧政のもとでは、君が代も日の丸も反動のシンボルとして扱われました。
「民主運動」の中での祖国は、日本ではなくソ連なのです。
共産主義の元祖ソ同盟こそが理想の国であり、資本主義の支配する日本は変えねばならない。だからソ同盟こそ祖国なのだ、というのがソ連の考え方です。
その思考は、いまの中共にそっくりそのまま受け継がれていますし、日本の左翼運動もその中にあります。
収容所の日本人達は「民主教育」の理解が進んだことを認められて少しでも早く帰国したいばかりに、それに表面上同調を装ってきました。
そのような表面だけ赤化したことを、当時は、密かに赤大根と呼びました。
これを卑屈として後ろめたく思った人もいました。
自分は日本人ではなくなってしまったと自虐の念に苦しんだ人もいました。
けれど、今回の作業拒否闘争で、みんなの心に日本人としての自覚と誇りが蘇ったのです。
この湧き上がる新たな力によって、共産主義「民主運動」のリーダーで、シベリアの天皇として恐れられた浅原一派は、はじき出されました。
彼らは恐怖の存在でさえなくなりました。
そして影響力を失いました。
いじめや中傷をの被害を受けている方は、日々書き立てられることに大変なショックを受けることになります。
それで悩んでしまうことも多いものです。
しかし、上と同様、自分の中に彼らのいじめや中傷を乗り越える力が湧くと、彼らのいじめも中傷も、まったく気にならなくなります。
恐怖も辛さも、自分の心が作り出すものだからです。
自分の中の心が変わったところで、他人の心も行動も変わるはずなどないと思われるかもしれませんが、本当に自分の心が変わると、他人の心も変わってしまうのです。
世の中は本当に不思議なものです。
さて、浅原正基を中心とする「民主運動」のグループは、作業拒否闘争に加わらず、同じ収容所の中の一画で生活していました。
闘争が長びき、作業拒否組の意識が激化してゆくにつれ、闘争を行う青年たちと、浅原一派の関係は、次第に険悪なものになっていきました。
彼らを通じて収容所側に情報が漏れてゆくことが、みんなを苛立たせ、怒りをつのらせていきます。
いまもあるどこかの国のネット工作員みたいなものです。
浅原一味に対する緊迫感は、いつ爆発するかも知れない状態となりました。
ソ連兵に拉致されるや否や、祖国への誇りを失い、そくさくと「理想的」社会主義者に転向しただけでなく、かつて世話になった上官や、互いに助け合い、支えあった仲間を平気で売り、売られた多くの上官たちや仲間は、ソ連兵によって無残な殺され方をしている。
その姿を全員がみて、知っているのです。
それだけでなく、こうしてみんなでまとまって抵抗運動をしている最中に、コソコソと仲間の様子をソ連兵に告げ口をする。
血気の青年防衛隊は、このままでは闘争も失敗する、浅原グループを叩き出すべきだと代表に迫りました。
石田さんは、断固として拒否しました。
「いかなることがあっても、
浅原グループに手を加えてはならない。
それはソ連側に実力行使の口実を与え、
我々の首をしめる結果になる」
そしてついに収容所側が、浅原グループを分離する方針をとるに至りました。
(明日の記事に続く・・・)
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