人気ブログランキング ←はじめにクリックをお願いします。

ハバロフスク

ハバロフスク事件というのは、敵性捕虜としてスターリン時代の極寒の捕虜収容所で地獄の生活を送りながら、理想と信念を捨てず、祖国日本を信じて戦った人たちの物語です。
山崎豊子さんの小説『不毛地帯』に、シベリアで抑留生活を送っていたある青年が強制労働中に腰の手拭いを取って、自らの斧で手首を切ると、その血で手ぬぐいに日の丸を染めて、これを起重機に縛りつけ、
「皆さん、どうか私がこの世で歌う
 最後の歌を聞いて下さい」
と言って不動の姿勢をとり、「海行かば」を歌う。
死に臨んで歌う声が朗々と空を震わせる。
歌い終わった彼は、身を翻(ひるがえ)すと20メートルの地上に飛び降りて死ぬ、というシーンがが出てきます。
この本が出版された頃、通勤電車の中でこのシーンのところを読んで、涙が止まらなくなり、ずいぶん恥ずかしい思いをした記憶があります。
小説の中に出てくるこのシーンは、実話をもとに構成されています。
実話は次のようなものです。
大東亜戦争終結後、ソ連は、旧関東軍の将兵をシベリアに抑留しました。
ソ連兵の態度は、まったく威圧的で情け容赦なく、
「我々は、百万の関東軍を
 一瞬にして壊滅させた。
 貴様等は、敗者で、囚人だ」
と、何かにつけ怒鳴ったのだそうです。
もう本当に「嘘を言うな!」とこちらが怒鳴りたくなりますが、ソ連兵は銃を持ち、こちらは丸腰だから、悔しいけれど抵抗できない。
現実には、そもそも終戦時、関東軍の主力は、ほとんど南方戦線にまわされていて、満州には戦えるだけの戦力がありませんでした。
そういうところにいきなり日ソ不可侵条約を一方的に破棄して参戦してきて、強奪と暴行の限りを尽くした卑(いや)しい見下げ果てた連中が、「自分たちは勝者である」と威圧的態度をとる。
腹がたって仕方がないが、生きてさえいれば、いつの日か、必ず祖国に帰ることができる。
生きて家族に会うことができる。
その一点のためだけに、彼らは、腹の立つのをぐっとこらえて、耐え続けていたのです。
しかし従順に職務をこなす日本人捕虜たちに対して、ソ連兵が行ったのは、徹底的な酷使です。
日本人は黙って言うことを聞くから、もっともっと酷使しちまえ!というわけです。
人を人として考えない。
モノや使い捨ての道具のようにしか思わない。
まるで鬼畜外道の振舞ですが、実はそれが世界の標準です。
日本だけが違う。
ご皇室をいただく日本では、ご皇室という国家最高権威によって、民衆が「おほみたから」と規定されます。
権力は、ご皇室のもとで、その「おほみたから」が豊かに安全に安心して暮らせるように責任を持つことが役目です。
そういう国家のカタチは、世界の中で日本だけが持っていた、これこそが誇るべき日本のカタチだし、戦前戦中の日本人が必死で戦って護ろうとしたものです。
シベリア抑留者たちは、10年間、耐え続けました。
昭和30年6月のことです。
ハバロフスクの捕虜収容所に、ミーシン少佐という監督官兼保安将校がいました。
ミーシンは、日本人みんなから猛烈に嫌われていました。
ある日ミーシン少佐は、零下30度の身を切るような寒さの中で日本人がやっと作業現場にたどり着いて雨にぬれた衣服を乾燥するために焚き火をしていたら、これを踏み消して作業を強制しました。
濡れた衣服のままでは、体温を奪われ、死んでしまいます。
あまりのことだと班長が抗議しました。
するとミーシンは、その班長を怒鳴りつけ、銃を突きつけて営倉処分にしました。
ひとりの青年が堪忍袋の緒を切りました。
彼は手にした斧で、ミーシンを殴りつけました。
ミーシンが倒れました。
10年間おとなしいだけだった日本人が怒鳴り、怒り、手を出したのです。
その場に居た銃を手にしたソ連兵は、銃を持たない素手の、しかもガリガリに痩せ細った日本人に恐怖を感じてみな逃げ出してしまいました。
世の中というのは、そんなものです。
一方、日本人の側は、
「たいへんなことをしてしまった。みんなに迷惑がかかる」
と、激情に駆られた青年は、すぐに気が付き、とっさに近くにあった起重機に登りました。
そして起重機の先端に立った青年は、腰に巻いた白い布を手に取ると、指を噛みちぎって血で日の丸を描きました。
彼は起重機の上で、その日の丸を風になびかせました。
そして大きな声で空に向かって「海ゆかば」を歌いました。
 海行かば 水漬く屍(かばね)
 山行かば 草生(くさむ)す屍
 大君の 辺にこそ死なめ
 かえりみはせじ
歌い終わると、彼は起重機の上からみんなを見渡し、そこから飛び降りようとしました。
それまで、ただ黙って固まっていた仲間たちは、そのとき、はっと気がつきました。
「やつを、死なちゃいけない!」
10年間、悔しい思いをしながら、日本にみんなで揃って帰国することだけを夢見て一緒に耐えてきたのです。
全員が同胞であり仲間たちです。
彼らは起重機に駆けあがり、青年の投身を必死で止めました。
こんこんと説得しました。
そして青年に自殺を思いとどまらせたのです。
青年はミーシン少佐を、斧の刃でなく峰の部分で打っていました。
峰の部分で撃ったということは、あきらかに殺意がないということです。
しかし彼は、公務執行中のソ連官憲に対する殺人未遂犯にされてしまう。
そして既に科されていた戦犯としての25年の刑に加えて、10年の禁固刑を科されました。
そして別な監獄に送られました。
その後、その青年がどうなったのかは、不明です。
以上が実際にあった出来事です。
山崎豊子さんの小説以上の鬼気迫る現実がそこにあります。
大東亜戦争終戦の7日前、突然欲をかいて参戦したソ連は、いきなり満洲・樺太・アリューシャン列島にいた日本人に襲いかかりました。
日本軍は、手元に残る少量の武器で抵抗しながら、敵の武器を奪って戦いました。
それでも各地の日本兵は善戦し、120万のソ連の大軍を随所で蹴散らしています。
本当に日本軍は強かった。
しかし8月15日には終戦となります。
軍は、本国の命令で動くものです。
本国から戦闘修了の命令があれば、どんなに勝っている戦いでも、戦闘を止め、敵の武装解除に応じなければならない。
それが軍隊です。
だから武装解除しました。
当時の満洲は、都市整備のためのインフラが各地で建設中でした。
道路や線路、橋梁、建物を作る民間、あるいは軍隊の技術者や職人さんたちも大勢いました。
発電所施設の建設を行う者、施設の管理や整備を行う者たちも、まるごと満洲に残っていた。
そしてその家族もいました。
ソ連は、そうした民間の技術者集団達を含めて、彼らをまるごとシベリアに連れ去って、ソ連邦各地の都市インフラの整備を、無報酬で彼らにやらせました。
「君たちは戦争犯罪者であるにも関わらず、
 食わせてやっているのだから報酬なんてない。
 栄養が足りようが足りまいが、
 生かしてもらっているだけでもありがたく思え」
というわけです。
「ソビエト共産主義革命によって、
 人々は労働から解放された。
 ソビエトは5カ年計画によって
 国家の都市インフラを整備させ
 ソ連の民衆に幸せをもたらした」
とさかんに宣伝されました。
しかしこれは矛盾のある言葉です。
民衆が労働から開放されたということは、民衆が働かないということです。
働かないのに、どうしてソ連各地の都市インフラが、次々と誕生するのでしょうか。
実際には、満洲各地に建設されていた建物や設備を、そっくりそのままモスクワ他、ソ連各地に移築することで、都市インフラが整備されたのです。
そしてその労働力になったのが、シベリアの抑留者となった日本人たちでした。
シベリア抑留というと、満洲北部あたりだけに抑留されたようなイメージがあるかと思いますが、当時、抑留された日本人達は、満洲にあった資材とともにソビエト各地へと送られ、そこで強制労働によって都市インフラの整備や建築に従事させられていたのです。
働かなくてもみんなが平等に国から報酬を受け取ることができる社会主義理想国家などというものはありません。
どこかで誰かが労働しなければ、みんなの生活は支えることができないのです。
その労働する人を、国家最高のたからとしたのが日本なら、その労働する人を、奴隷として酷使してきたのが、世界の歴史です。
もうひとついうと、共産主義国であるソ連は、すべてに「政治」が優先した国でした。
いまでも、共産主義を掲げる国はそうです。
これは実に徹底していて、なんと医療も政治が優先します。
どういうことかというと、「政策」で入院患者は疾病患者全体の2%以内と決められれば、それを越える入院患者は、症状の如何に関わらず、いっさい入院は許されないし、仕事を休むことも認められないのです。
そんなバカな、と思うかもしれないけれど、それが「政治優先」ということです。
日本でも某政党が政権を取ったとたん、政治優先と称して事業仕訳などを行い、現実を無視した「政治」を行いました。
その結果、以後に起こった天然災害では、すさまじい被害が続出することになりました。
では、当時の政策について、彼ら自身から反省の言葉のひとつでもあるかといえば、何もありません。
彼らの頭脳では、政治がすべてなのであって、現実は関係ないことだからです。
ソ連のシベリアの捕虜収容所では、どのような労働を課せられるかは、軍医の体位検査によって決定していました。
体位検査は1級から4級までで、4級以外は原則として収容所外の工場、学校等の建築作業に出ることとされていました。
しかし戦後10年を経過して、かつては屈強だった若者も、ガリガリに痩せた病弱となり、作業できる人員が漸減してしまっていました。
ところが4級認定者は何%以内と決まっているわけです。
だから実質4級(インワリード=不具者という呼名)であっても3級に認定され、屋外の建築作業にかり出されていました。
そもそも日本人の体位は、ソ連人とくらべて著しく劣っています。
これでは作業割当に支障をきたすというので、日本人はソ連人より1階級ずつ格上げした体位検査が用いられていました。
つまりソ連人の2級、3級該当者を、日本人なら1級、2級にしたわけです。
そしてソ連人の労働者に適用する作業ノルマを、そのまま日本人に遂行させた。むちゃくちゃです。
さらに旧日本軍では、重労働に要するカロリーを3800と規定していたのだけれど、ソ連収容所では、接取カロリーを2800と規程していました。
カロリーを奪えば、体力が落ちて抵抗力を奪えるから、扱いやすくなるし、与える食事の総量も減らせるというわけです。
それでどうなったかというと、実際には、日本人軍医4名の共同調査・算定の結果では、やっと2580しか与えてもらえなかったのです。
だから日本人のシベリア抑留者たちは、裸になって並んだとき、前に立っている男の肛門が見えたそうです。
尻の肉まで削げ落ち、みんなガリガリにやせ細っていたのです。
ラーゲリのカロリ-

それだけ酷い待遇、環境に置かれながら、日本人の働き振りは昭和30年の第一・四半期にロシヤ共和国第一位、第11四半期には全ソ連第一の成績です。
まるで幽鬼のさながらに痩せさらばえていながら、それでも全ソ連第一の建築成果を挙げている。
まさに日本人、恐るべしです。
石田三郎著「無抵抗の抵抗」に以下のような描写があります。
****
現場監督側および収容所当局の日本人に対する態度はどうであつたろうか。
彼らの基本的な態度といえば、それは従順な日本人を徹底的に搾つて自分らの功績をあげること、日本人は最も憎むべき重大戦犯であるから死ぬまで酷使するということにあった。
このため現場側と収容所側は申し合せて、将校一、下士官一の監視係を任命し、毎日終日私たちの作業を監視させた。
勿論彼らは建築についてはズブの素人であり、仕事の段取その他について知るはずもなかつた。
その彼らが事毎に私たちの作業に干渉して作業能率を低下させる許りでなく、現場側と結託して私たちの給金査定にまで容喙するし、時には作業未遂行、あるいは国家財産の故意の損耗を理由に懲罰作業をさえ強制する。
また零下20度、30度のトラック上の寒風に吹きさらされて現場にたどり着く私たちに、仕事前の暖を取ることさえ禁じたり、雨にぬれた衣服を乾燥するため焚火している火を踏み消して作業に狩り出す。
当然負傷などの災害が予想される危険な作業にまで追い出し、これを拒絶すれば直ちに営倉に入れる。
そしてあらゆる言葉の二言目には、
「貴様らは囚人だ。
 いうことを聞かなければ、
 また監獄に送るぞ。」
と脅迫するなど目に余るものがあつた。
ところがその反面、彼らは日本人の大工に私物の家財道具を造らせたり、自宅の薪用に板切れや棒切れを現場側に無断で搬出させたりさえもしたのである。
また現場側で、ソ連側最高貴任者が監督を集めて訓示を与えるとき、
「ここの日本人は戦犯だから死ぬまで酷使してもよい。」
と放言したり、私たちにたいしても、彼らが民間人でありながら営倉に入れるぞと、おどしたりするのは何時ものことであった。
何しろ収容所当局、現場当局に対する不満は数限りなくあった。
要するにソ連側は、私たち日本人を奴隷としてしか取り扱つてはくれなかった。
****
昭和30年11月26日、ソ連兵は、政治部将校の立会いの下で、営内の軽作業に従事していた病弱者26名を、営外作業に適するとして無理に作業に出しました。
シベリアの11月の末といえば、零下20~30度の酷寒です。
病弱者たちの病状は悪化し、収容所にたどり着くや倒れる者が何人も出ました。
ところが12月15日になると、ソ連の将校たちは、さらに他の病弱者65名に営外作業を命じました。
ハバロフスク捕虜収容所では、みんなで必死に嘆願しました。
「その分自分たちが働くから、
 病弱者に無理はさせないでもらいたい。」
しかしソ連兵は耳を貸しません。
病状は悪化し、血圧が170、180以上になる者が多くなり、中には、200を越す者も出る始末でした。
寒風のなか、病弱者は、あるものは友の肩にすがりながらやっと身体を動かし、ある者は虚空をつかむ幽鬼のように手を伸ばし、よろけながら歯を食いしばって頑張りました。
囚人扱いですから、作業休を認められない限りいかなる状態でも休むことは許されません。
休めばサボタージュとみなされます。
「病弱者、営外作業に追い出し」といわれました。
これは病弱者殺害が目的としか思えないものです。
戦争は、昭和20年に終わっています。
それからまる10年経っているのです。
日本に帰えることだけど夢見て、みんなで頑張ってきた。
ちからをあわせ、励まし合って、どんな無理難題にも耐えてきた。
それなのに、ここまで支え合ってきた仲間の命さえも、ここで失わなければならないのか。
誰も死んでほしくない。仲間を死なせるわけにいかない。
みんな一緒に、日本に帰るんだ。
「これ以上、もう我慢できない。」
それまで、まる10年従順でおとなしかった日本人が、ついにソ連兵の横暴に立ち上がりました。
(明日の記事に続く・・・・)
 ↓クリックを↓
人気ブログランキング
引き揚げ(600万人在外邦人・シベリア抑留者引き揚げ)1/4