
夏目漱石の「坊っちゃん」といえば、部隊となったのが、愛媛県の松山中学(現:愛媛県立松山東高等学校)です。
この高校は、甲子園でも有名ですが、愛媛県屈指の難関校でもあります。
敷村良子の小説「がんばっていきまっしょい」も、この高校が舞台とか。
この松山中学の卒業生に、玉井浅一さんと言う方がおいでになります。
明治35(1902)年、愛媛県松山市のお生まれの方です。
最初の特攻隊、敷島隊に出撃を命じたマニラ基地の副長さんです。
昭和19(1044)年10月17日、マニラの海軍飛行隊基地に大西瀧治郎中将が着任します。
このときの基地の司令は、山本栄司令です。
たまたま副長の玉井浅一大佐と、他の基地に出張していた司令と玉井大佐の二人は、大西長官の着任に、急きょ、マニラ基地に飛行機で帰還します。
ところが、この飛行機が着陸に失敗。
司令の山本栄氏が、足を骨折して緊急入院してしまった。
そこで副長の玉井浅一大佐が、基地の一切を任せられることになったのです。
大西中将は、玉井副長以下の幹部を集めた会議の席で、戦況を打開するためには、栗田艦隊のレイテ突入を成功させねばならない。
そのためには、零戦に250キロ爆弾を抱かせて体当たりをさせるほかに確実な攻撃法はないと思う」と語ります。
戦艦や空母を撃沈させてしまえるほどの大量の爆薬を積んで、体当たりする。
それをやった者は、絶対に帰還することはできません。
会議室には重苦しい沈黙が流れます。
玉井副長は、大西に猶予を願い、先任飛行隊長を伴って室外へ出ます。
「司令からすべてを任された自分としては、長官に同意したいと考える」玉井の言葉に、選任飛行隊長の指宿も、
「副長のご意見どおりです」と従います。
こうして、体当たり特攻の実施が決まる。
次に、では誰にその指揮官を命ずるか。
玉井は、最も優秀なパイロットである関行男大尉を指名した。
そして25日、関行男大尉率いる敷島隊の5人は、特攻に成功する。
米軍空母セント・ローに突入。艦を撃沈させた。隊の全員が還らぬ人となった。
そして次々と特攻隊を送りだした玉井中佐は、昭和20(1945)年2月、台湾の二〇五空司令に転じます。
ある日、特攻出撃した部下の杉田貞雄二等飛行兵曹が、敵に会えずに帰頭した。
ところが抱えている爆弾の投棄の装置が空中で故障して、爆弾の投棄ができない。
爆弾は安全弁を外してあります。
着陸のショックで自爆する危険がある。
玉井は、運を天に任せて着陸させます。そうする他なかった。
玉井中佐はすぐ飛び出すと、「爆装のまま指揮所の真上を飛ぶとは、この馬鹿もん」と、杉田を一喝します。
しかし玉井は、すぐ両手を広げて杉田を抱えると、「よかった、よかった。無事でよかった」と、目をうるませて泣いた。
杉田もわれにかえった。そして「ありがとうございます」と、生存の喜びをかみしめた。
またある日、今中博一飛曹らが呼ばれ、玉井と一緒に近くの岡に登った。
玉井は周辺の小枝を集めるように命じた。
それに火をつけると、玉井はポケットから白い紙包みを取り出して広げた。
包みには、一片の頭蓋骨がはいっていた。
一緒にいたみんなは、それが離陸に失敗して亡くなった部下のものとわかった。
玉井はその骨を焼くと、「家族が待っておられるから、送ってあげたいと思ってね」と、誰にともなく言った。
一緒にいた者は、「厳格な司令の、別の優しい姿を見た」と思ったそうです。
8月。終戦。
昭和22年夏、玉井は愛媛県出身の関行男大尉の母サカエ宅を訪ねました。
関大尉の母に詫び、次のように言った。
「自己弁護になりますが、簡単に死ねない定めになっている人間もいるのです。
私は若いころ、空母の艦首に激突した経験があります。
散華された部下たちの、張りつめた恐ろしさは、少しはわかるような気がするのです。
せめてお経をあげて部下たちの冥福を祈るしかありません。
祈っても罪が軽くなるわけじゃありませんが」
玉井は、戦後、日蓮宗の僧侶になります。
そして、存命中、海岸で拾った平たい小石に、亡き特攻隊員ひとりひとりの名前を書いて、仏壇に供えて供養し続けたそうです。
また、地域住民に無料で戒名を書き与え、感謝されもした。
真冬でも氷の張る水垢離(みずごり)を取る。
長女の敏恵さんご夫妻は、そんな玉井氏の姿を見て、あえて命を縮めているようにしか見えなかったといいます。
昭和39(1964)年5月、広島の海軍兵学校で、戦没者の慰霊祭が行われました。
このとき日蓮宗の導師として、枢遵院日覚氏が、役僧二人をともなって着座しました。
戦友たちは、その導師が玉井浅一であることに気づいて、驚いた。
玉井の前には、軍艦旗をバックに物故者一同の白木の位牌が並んでいます。
その墨痕鮮やかなひとつひとつの戒名は、玉井が、沐浴(もくよく)をして、丹精込めて書き込んだものだったそうです。
読経がはじまります。
豊かな声量と心底から湧きあがる玉井の経を読む声は、参会者の胸を打った。
来場していた遺族や戦友たちは、いつのまにか頭を垂れ、涙を流した。
会場には、鳴咽がもれたといいます。
導師をの読経の声と、遺族の心が、ひとつに溶け合った。
その年の暮れ、玉井は、発作を起こし、62年の生涯を閉じます。
終戦後、なにも言わずに責任を取って自害した人も数多くいます。
しかし、自分が亡くなるまで、ずっと重い十字架を背負って生きた人もいます。
生きるも地獄、死ぬも地獄であったのだろうと思います。
そして戦没者たちの多くの遺骨は、いまもまだ戦地に眠っている。
戦後64年。戦争を経験してきた人たちは、すでにご他界されたり、ご存命でも、80代後半から90歳代になられています。
戦争中を戦い、生き残られた方々の多くは、亡くなられた戦友や部下たちのために、遺骨収集を続けられたり、慰霊碑を建てられたり、靖国への寄進をされたりしてこられました。
戦前戦後を、そうやって重い十字架を背負って生きてこられた方々の思い、戦争で散華されたかたの思いを、わたしたちは、単に否定するだけ、過去を振り返らず忘却するだけということで、はたして、それで良いのでしょうか。
彼らの背負った十字架の、一端でも背負い、感謝し、ご遺骨の収集などを続けていく活動は、わたしたちの世代で、引き継いでいかなければならないことなのではないかと、ねずきちは思います。
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