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見沼通船堀
見沼通船堀

昔の地名というのは、非常におもしろいもので、たとえばねずきちが住んでいる埼玉県の家は、東京湾から50kmも離れている内陸部なのですが、近くに「戸埼(へさき)」という地名があります。
すこし高台になっているその場所は、大昔は海に面した御崎(みさき)だったのだそうで、それがなまって「へさき」と呼ばれるようになったのだそうです。
同じ埼玉に「見沼」という地名のところもあります。
これも読んで字のごとくで、大昔は、大きな沼だった。見渡す限りの沼が“つまって”みぬま、になったのだとか(笑)
この沼には東西から大地が張り出しています。
江戸のはじめごろ、この貼りだした東西の台地を利用して堤防を築き、沼の水をせき止めて、田で使う水を貯めておくための大きなため池が作られました。
これが「見沼溜井」で、池の面積はなんと1200ヘクタールもあったそうです。
享保12(1727)年、八代将軍徳川吉宗は、故郷の紀州藩から土木・治水の名手、井沢弥惣兵衛(いざわやそうべえ)を呼び寄せ、この見沼溜井を、新しく田に造りかえるよう指示します。
食料の大増産です。
さっそく惣兵衛は、ため池の堤防の一部をくずして水を抜き、ため池を水田に変えようとしますが、ひとつ大きな問題が生じた。
なにせ1200ヘクタールです。広い。広すぎて、こんどは水田を維持するのに必要な水が足らないのです。
そこで惣兵衛は、利根川から水を引くために、全長60kmにおよぶ用水路をつくります。
惣兵衛は、村の人たちを指揮して、これだけの用水路をわずか半年で作ってしまったというから、たいしたものです。
この用水路は、「見沼溜井」作り代えて用水にしたという意味で「見沼代用水」と名付けられました。まぁ、わかりやす名前です。
この用水ができたことによって、見沼溜井跡は、広大な水田に生まれ変わった。
しかし田ができ、莫大な生産高の収穫があっても、採れた米を合理的に江戸に運搬できるようにしなければ、意味がありません。
そこで惣兵衛は、見沼代用水と、近くを流れる芝川を、運河でつないで、米などを船で運べるようにしようと考えます。
ところがここにも、難問が起こります。
見沼代用水と芝川は、距離はたったの1kmなのですが、水面の高低差が3Mもある。
これは大問題です。
そこで彼は、通船堀を「閘門式(こうもんしき)運河」にしようと計画します。
閘門式(こうもんしき)というのは、運河の途中に水門を作り、流れる水をせき止めることで水位を調節し、水門を開けることで水位を下げ、高低差のあるところに船を通そうとするものです。
この方式は、いまではパナマ運河が採用していますが、井沢弥惣兵衛は、パナマより2世紀も昔に、粘土と木板で、閘門式運河を計画し、完成させたのです。
船が最初の関に入ると、水門に角落板がはめ込まれて水路が閉じられます。
そして流入してくる水で水路に水を貯める。
水位があがり、船が次の水路に進めれるところまでくると、反対側の水門を開けて、船を通す。
見沼通船堀2

閘門が設置された場所は、水底を粘土で突き固めました。
そこに杭を打ち込み、底板を全面に貼り付けた。
側面も板と杭で全面を囲んだ。
要するに、木製のプールのような形状にしたのです。
閘門の中心は、ケヤキの角材で門柱を作り、そこに角落板とよばれる平板を積み上げて水を貯めたり、板を抜いて排水したりして水位調節を行いました。
角落板は、幅6寸(18cm)、長さ1間5尺(3.3M)のものを使用したそうです。
あまり大きいと、人力で操作できなかった。
角落板は、関に10~12枚使用したそうです。
幅18cmの板を横にして置くことで、水位を1.8~2.1Mまで調整できた。
この角落板には、両側にカギがついていて、職人さんが長い棒で1枚ずつ、引きあげたり降ろしたりしたのだそうです。
こうしてできあがった「見沼通船堀」は、享保16(1731)年に完成します。
これが、わが国最初の閘門式運河です。
ついでにいうと、この運河には、閘門の関が2か所あり、途中には“舟溜り”と呼ばれる船と船が行き違うための場所も作られていたそうです。
芸が細かいですね。
完成した見沼通船堀は、見沼代用水に沿った村々の年貢米をはじめとして、野菜や薪などの産物が江戸へと運ばれ、江戸からは、主に乾鰯や大豆粕といった肥料や塩などが運ばれました。埼玉の物流の柱になったのです。
通行は、見沼通船と呼ばれ、幕府直営で運営されました。
明治になると、見沼通船会社によって運営されるようになります。
しかし昭和なって、鉄道やトラックなどの陸上交通が発達しはじめると、江戸まで3日の行程がかかる見沼通船は、次第に押され、ついに昭和6(1931)年に廃業してしまいす。
見沼通船堀跡は、閘門ともども、朽ち果てるままになりました。
いつしか掘は土に埋もれ、木でできた閘門の板も腐り、形もなくなっていった。
しかし、先祖伝来の誇りある閘門をこのままにしておくわけにはいかないと、昭和30(1955)年、埼玉県が県の史跡に指定します。地元には保存会もでき、近隣の人々の協力で、保存が図られてきた。
昭和57(1982)年になると、閘門式運河が国の史跡に指定されます。
そして平成6(1994)年から平成9(1997)年にかけて、ようやく閘門式水門が復元され、往年の姿を顕すようになりました。
経済優先で、朽ち果てるままになっていた江戸の心が、ようやく、平成にはいってから復活した。
捨てられてから66年目のことでした。
見沼通船堀は、江戸時代の日本の土木技術の高さを示すものです。
ここに再び船が通ることはありません。
しかし全長わずか1kmとはいえ、この堀は、国内初の閘門式運河として、先人の智恵の結晶です。
日本は、戦後、経済の復興を最優先とし、日本人として心や誇りをどこかに置き忘れてきました。
戦後64年、ようやく多くの日本人が、日本の心と誇りを取り戻すために立ち上がり始めています。
こんどは見沼通船堀ではなく、日本の誇りを取り戻すときがやってきたと思うのですが、みなさんは、いかがでしょうか。
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