
関西では“どら焼き”のことを「三笠まんじゅう」とか「三笠焼き」と呼びます。
これはどら焼きの形が奈良にある「三笠山」に似ていることから付けられた名前なのだそうです。
三笠山は、奈良県奈良市にある奈良公園の東端にあります。
小さな山が3つ折り重なっている山です。
三笠山は、昭和10(1935)年に、この山名に因んで“三笠宮”が創設されたとき、同じ名前では恐れ多いとして山焼きに因んで若草山という名前に改称されました。
じつはねずきちは、大の夜景ファンですが、新日本三大夜景というのがあって、そのなかのひとつが、この若草山(三笠山)から観た奈良の夜景です。
車に乗って、好きな音楽でも聞きながら夜景を観てうっとり・・・なんてとてもロマンチックでいいですね♪
ちなみに、北海道にある「三笠市」の市名も、この奈良の三笠山に因んで名づけられた同名の山が由来なのだそうです。

そしてもうひとつ、三笠山に因んで命名されたものがあります。
世界に誇る戦艦三笠です。
三笠は、世界三大記念艦のひとつです。
ちなみに世界三大記念艦とは、
【ビクトリー号】大英帝国
・・・トラファルガー海戦勝利の記念艦。
ネルソン提督が艦上で戦死。
英国海岸のポーツマス軍港内に保存。
【コンスティテューション号】米国
・・・フランス革命、ナポレオン戦争、独立戦争で活躍。
ボストン造船所に保存
そして日本の戦艦三笠です。
この三大艦のなかでも、三笠の軍功は群を抜いています。
三笠は、戦艦としては、やや小ぶりな船です。
その三笠が、明治38(1908)年5月27日の日本海海戦で、当時世界最強とうたわれた38隻のロシア・バルチック艦隊のほとんどを撃破した。文字通り空前の大勝利を飾りました。
そしてこの一戦の勝利が、私有財産も持てず、欧米列強に欲しいままに略奪され続けた世界中の被植民地国家の人々に夢を与え、彼らの国を独立にまで導きました。
三笠の残した業績は、単に海戦に勝利したという事実にとどまらず、世界の心を揺り動かしたのです。
三笠が建造されたのは、実は日清戦争のあとでした。
当時日本は、ロシアの南下政策に対抗するため、海軍力の拡張を迫られていた。
このとき計画されたのが「六六艦隊計画」で、これは戦艦を6隻、装甲巡洋艦を6隻配備するという計画です。
三笠はこの計画に沿って建造することになったのですが、政府にカネがない。
当時の日本は、まだまだ東亜の貧乏国だったのです。
その貧乏国が六六艦を作る。明治政府にとっても一大投資です。
海軍も必死だった。
日本海軍は、艦の建造のために、大規模なリストラを行ったり、軽装備の購入をあきらめたり、必死で歳費の削減を図った。けれど、それだけのやりくりにも関わらず海軍予算は尽きてしまいます。
当時の大日本帝国憲法では、歳費をオーバーすると、それだけで歳費の不正流用として咎(とが)を受けることになっていました。
昨今では、年間予算80兆円を、15兆円もオーバーするような予算を、平然と通そうなどという不埒な総理もいるようですが、戦前の大日本帝国憲法は、こういうインチキを一切認めなかった。
困り切った海軍大将の山本権兵衛は、西郷従道に相談をもちかけます。
西郷はこう言います。
「山本さぁ、それは是非とも(軍艦を)買わねばなりもさん。
予算ば流用するしかなかです。勿論違憲です。
議会で違憲を追及されたら、二重橋で腹を切りましょう。
ふたりが死んでも軍艦が出来れば本望じゃないですか」
二人は命がけで次年度予算を獲得し、三笠を、イギリスのヴィッカース社への発注に漕ぎつけます。
明治32(1899)年 1月24日起工。
明治33(1900)年11月 8日進水。
ようやく三笠は、明治35(1902)年 1月15日に公試が行われ、3月1日サウサンプトンで日本海軍への引渡しが行われます。
3月13日、イギリス・プリマスを出港した三笠は、スエズ運河を経由して5月18日横須賀に到着。
整備点検を受けた三笠は、7月17日に本籍港である舞鶴に到着します。
総員の訓練を経て、翌明治36年12月28日、三笠は連合艦隊旗艦となった。

明治37(1904)年、日露戦争に加わった三笠は、8月10日にはロシア帝国太平洋艦隊と黄海で海戦を行い、翌明治38(1905)年5月27~28日には、ロシア・バルチック艦隊と交戦し、大勝利した。
どうもこういう戦記を書くと、いわゆる左巻きの方々には抵抗感があるようだけれど、この海戦は毛沢東も日本の誇るべき大海戦として絶賛しています。
その後、いろいろなことがあって三笠は現役を引退。
大正(1925)14年)1月に、記念艦として横須賀保存が閣議決定されます。
記念艦となった三笠は、横須賀で保存されますが、大東亜戦争終戦のあと、米、英、ソ、中国等で結成された極東委員会で、このことが問題になる。
戦争末期になって、いきなり日ソ不可侵条約を一方的に破って参戦したソ連代表のテレビヤンコ中将が
「ロシアを負かした三笠を保存するとは何事か。
スクラップにして直ちに海中に投棄せよ」と強硬に主張したのです。
それに対して米参謀部長ウイロビー少将は、ソ連の記念艦オーロラ号や、ヴィクトリー号、コンスティテューション号の例を出し、日本国民の記念物を破壊して反感を買うことは避けるべきだと、主張した。
当時は米軍でさえ、三笠を世界の誇りとして認めていたのです。
テレビヤンコはいきりたちます。
しかし、横須賀占領の実権は米海軍です。
おかげで三笠は廃棄を免れた。
ところが、現場レベルでは、こうした誇りは通用しない。
横須賀に駐屯した心ない米兵たちは、艦内の目ぼしい記念品を泥棒してしまった。
三笠は、荒れ放題の様相となります。
艦の処置に困った米軍は、昭和23年1月9日、三笠を条件付きで横須賀市に引き渡します。
艦橋やマスト、砲塔など主要装備を撤去したうえで、船以外に転用せよと命じたのです。
しかし主要装備を撤去するだけでも巨額の予算がかかる。
まだ焼け野原だった横須賀市には、それだけの歳費はありません。
困った横須賀市は、かねてから三笠の払下げを申請していた湘南振興に艦をまるごと売却します。
払下げを受けた湘南振興は、さっそく三笠の装備を撤去。
そして作業が終ると、なんと艦内に米兵のための娯楽施設を設置してしまいます。
東郷平八郎長官室は「キャバレー・トーゴー」
加藤友三郎や秋山真之参謀等のいた参謀長室は、カフェになった。
そして艦上では、毎夜、米兵とパンパン(売春婦)たちとのダンスパーティが行われた。
さらに湘南振興は、昭和25年に朝鮮戦争が始まると、上部構造物を全て撤去したうえ、取り外せる金属類のほとんどすべてをガス切断して売却してしまった。
チーク材の甲板までも薪や建材にするために剥がされたといいます。
この惨状を見て、日本軍元海軍大佐の中村虎猪氏が立ち上がります。
彼は昭和30(1955)年5月、三笠の復元を市民に訴えて市会議員に当選します。
市議となった中村は、湘南振興会社の駆逐を政府にも働きかけ、地元の日刊「南神新聞」にも記事を連載し、三笠を保存しようと、不眠不休の戦いを始めた。
しかし、彼には予算もなく、戦いに疲弊した日本も動きません。
そこに、イギリス人のジョン・S・ルービンが来日します。
彼は、三笠がイギリスのバーロー・イン・ファーネス造船所で建造されていた時、現地で宝石商、時計商を営んでいた人です。
三笠の乗組員が、よくルービンの店を訪れた。当時の日本兵士たち凛々しい姿に心を打たれた彼は、自分の住む町で三笠が造られたこと、そして三笠が日本海海戦に大勝利したことに、深い愛着と誇りを持っていた。
彼は来日すると、三笠との再会のよろこびに胸をおどらせながら、横須賀を訪れた。
そこで見た三笠の惨状に、ルービン氏は、衝撃を受けます。
誇り高きMIKASAが、ダンスホールになっている・・・
ルービン氏は怒ります。
そして帰国すると直ちにジャパン・タイムズ紙に寄稿した。
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日本人はなんと忘恩の国民なのだ。
戦い敗れたら、とたんに英雄東郷も三笠も忘れてしまうのか。
日本人とはその程度の民なのか。
日本人は、神聖な三笠が丸裸となり、ダンス・ホールやアメリカ兵相手の映画館になったのを黙ってみているのか。
なんと日本人は無自覚か!」
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この原稿は同年9月20日の紙上に載りました。
そして、たちまちのうちに英米豪から大反響を招きます。
そして彼らは異口同音に、
「ミカサの復活こそ、日本国民の精神復興の試金石だ」
「日本国民の道義心を復活させよ」と説きました。
昭和31年、元情ロ報局総裁であった下村海南氏(当時82歳)が、自分の眼でみた三笠の荒廃ぶりを、「軍艦三笠」という小冊子を書き上げ、各方面に配布します。
軍事評論家の伊藤正徳氏は、「戦艦三笠の栄光と悲惨」という論文を翌昭和32年の文藝春秋八月号に寄稿した。この論文はその年の読者賞を獲得します。
そして、翌昭和33年、「文藝春秋二月号」の随筆欄に、「三笠と私」と題する米・大平洋艦隊司令長官ニミッツ元帥の文章が載ります。
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管理人の話では、真鍮や銅の付属品は戦争中に軍需資材として、全部取り除かれたとのことだった。
そのほかに歴史的価値ある部分がどさくさに持ち去られた跡もみられた。
東郷元帥を尊敬するものの一人として、昔から有名なこの軍艦が、これ以上荒らさるべきでないと思い、私は米海兵隊に命じて歩哨を立て、三笠を破損したり、歴史的な物品を持ち去ることを防ぐことにした。
この有名な軍艦がダンスホールに使用されたとは嘆かわしい。
どういう処置をとれと差出がましいことはいえないが、日本国民と政府が全世界の海軍々人に賞賛されている東郷提督の思い出をながらえるため、適切な方法を講ずることを希望する。
この一文が原稿料に価するならば、その全額を東郷元帥記念保存基金に私の名で寄付させてほしい。
(文藝春秋 昭和33年2月号)
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ニミッツ提督は、終戦後の9月2日、米国全権の一人としてミズーリ艦上で、日本降伏受託書に署名した人物です。
その彼は、日露戦争直後東郷提督と会い、東郷を師と仰いでいた。
もっとも尊敬する海軍軍人は誰かと聞かれると、東郷元帥と即答していた。
そして彼は、東郷元帥に心酔し、その東郷戦法によって日本帝国海軍を全滅させている。
ニミッツは、米海軍を命じ、横須賀にあった廃艦一隻を日本に譲渡するとともに、廃艦をスクラップにして得た3000万円を三笠の復元費用に寄付します。
こうした事態を受けた日本は、ようやく昭和33年11月、三笠保存会設立準備委員会を設立。
かくして昭和36年5月、三笠はかつての雄姿を取り戻し、いまに残る横須賀の「記念艦三笠」になった。
昭和62年5月24日、横須賀市は市制80年を記念式典を、三笠艦内の講堂で行いました。
式典ではアルゼンチン大使、トルコ大使、イギリス大使、駐日米海軍司令官から祝辞が届いた。
そのすべてが、三笠の栄光を讃え、日露戦勝の歴史的意義を強調する内容だった。
この日、横山和夫横須賀市長は祝辞の中で、
「今こそ日本はZ旗を掲げるべき時」と述べました。
Z旗というのは、一般には大きな船の出向の合図の旗です。
しかし三笠のZ旗には、特別な意味があるのです。
日本海海戦のとき、東郷平八郎長官は、いよいよバルチック艦隊と決戦というとき、旗艦三笠にZ旗を掲揚した。
連合艦隊信号簿には、旗艦に掲げられたZ旗に、「皇国の興廃此の一戦に在り、各員一層奮励努力せよ」の文言が割り当てられていた。
三笠のZ旗は、全艦隊の士気の高揚します。
そしてそれ以降、日本海軍では重要な艦隊戦にZ旗を掲揚することが慣例化した。

この日、海軍長老の保科善四郎元参議院議員(当時96歳)は、
「三笠は見事に復活した。しかし魂を入れなければ、三笠も形骸に過ぎない」と、激情をこめて訴えられた。
世界三大記念艦として全世界から賞讃されるかつての日本海軍旗艦“三笠”は、いま記念艦三笠として、横須賀市の三笠公園に記念艦として保存されています。
その三笠は、かつて心ない人々の手によって、ボロボロにされた。ダンスホールやカフェにまで貶められ、辱められた。それはもしかしたら、「誇り」よりも「経済」と「快楽」を優先する人々によるものだったのかもしれない。
しかし、三笠は復活しました。
「誇り」を大切にする世界中の人々と、多くの日本人たちの努力によって、その雄姿を取り戻しました。
でもまだ日本の歴史教科書には、東郷平八郎も三笠も出ていません。
心ない人々によって、その歴史は抹殺されている。

三笠山から望む奈良の夜景は、とっても奇麗です。
宝石のような輝きをもっている。
その輝く光のひとつひとつの灯りの下には、かけがえのない命がある。
その命を守るために、かつて三笠という戦艦を、なけなしの予算の中で必死に造った男たちがいた。
その艦で、厳しい訓練に励んだ男たちがいた。
その艦で、命を護るために戦った男たちがいた。
三笠は、日本の旗艦でした。
そして日本海海戦でバルチック艦隊を破り、世界の8割の被植民地化されている国々の多くの人に、夢を与えました。
その三笠が、戦後、ダンスホール兼売春宿にされた。
それってたぶん、経済優先の発想です。
宿にした会社は大儲けしたそうです。
でも本当にそれでいいのか。
その会社の姿は、まるで戦後の日本です。
道徳観を失い、目先のカネ儲けと快楽に走った。
しかし世界の良心は、それを許しませんでした。
そして多くの人の志を受けて、三笠は見事にその雄姿を取り戻しました。
日本という国も同じだと思うのです。
かつての誇り高き日本は、終戦後、道義と志操を失った。
多くの国の人々が、日本が再び目を覚ます日を望んでいます。
陛下は、終戦の詔勅で、こう国民に語っています。
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天下の大道を踏みあやまり、世界の信義を失うがごとき事態は、朕のもっとも戒めるところである。
そのことを、国をあげて、各家庭でも子孫に語り伝え、神国日本の不滅を信じ、任務は重く道は遠いということを思い、持てる力のすべてを未来への建設に傾け、
道義を重んじて、志操を堅固に保ち、
誓って国体の精髄と美質を発揮し、世界の進む道におくれを取らぬよう心がけよ。
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道義と志操。
いま、多くの日本人が戦後の左巻き思想から陸続と覚醒しつつあります。
あとは、会のみんなで、ほんのちょっぴり、背中を押してあげる。
日本は変わる。日本は必ず甦ると思います。
ドラ焼き(三笠焼)を見たら、ねずきちは身近な人に語ってあげようと思います。
美しい夜景を見たら、ねずきちは日本三大夜景のひとつの三笠山を通じて、語ってあげようと思います。
三笠の歴史を、三笠の雄姿を。
俺も語ってみようと思う方
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