
メンタムといえば、ロート製薬の塗り薬として有名です。
最近ではリップ・クリームとしても多くの人に愛用されています。
実は、このメンタム、昔はメンソレータムといいました。
メンソレータムは、もともとは米国のメンソレータム社 (The Mentholatum Company, Inc.) が19世紀に開発した製品で、これを大正9(1920)年に、近江兄弟社という会社がライセンス契約を取得して、国内で製造・販売をはじめました。
設立したのは、外人さんです。
ウィリアム・メレル・ヴォーリス(William Merrell Vories)という米国人です。
この人は、たいへんに日本を愛し、終戦時にはマッカーサーと日本の仲介を成功させてくれた人でもあります。
近江兄弟社という社名は、設立した場所が滋賀県近江八幡市で、これに人類は皆兄弟の「兄弟」を合わせることで、つけた名だそうです。
ヴォーリスは、戦前の日本の八紘一宇の精神に強い共感をしていたのです。
ヴォーリスは明治13(1880)年に、米国のカンザス州レブンワースで生まれた人です。
敬虔なクリスチャンで、YMCAの活動を通じて、キリスト教の伝道師になりました。
ちなみに、伝道師と宣教師は違います。
宣教師はプロの牧師で、伝道師は他に仕事を持ちながら布教活動をする人です。
24歳になったヴォーリスは、その伝道師として、明治38(1905)年に、滋賀県立八幡商業学校(現滋賀県立八幡商業高等学校)の英語科教師として来日しました。
近江八幡に落ち着いて6日目には、早々と伝道活動の一環としての下宿でのバイブルクラス(聖書を教える講座)を開いています。
外国人というものへのものめずらしさもあったのでしょう。このときはびっくりするほどたくさんの人が集まったそうです。
会話とコミュニケーションを大切にし、明るく楽しく、繰り返し熱心に指導するヴォーリスは、学校でもたちまち生徒から尊敬され慕われました。
ヴォーリスの教師の場は、八幡商高以外にも、膳所高校、彦根東高校等へと広がりました。
ところが人気者は妬まれます。
仏教徒の多い近江八幡で、彼の活動が宗教的な対立を生んだのです。
ヴォーリスはわずか2年で教師の職を解かれてしまいました。
しかし彼の人格や活動に共感する全国各地の人々から励ましの手紙や金銭的支援が寄せられ、さらに解職に異を唱える記事が、新聞でも大きく取り上げられました。
来日してたった2年で、彼はそこまでの影響力を持ったわけです。
もともと彼は、米国で建築家を志していました。
しかし宗教活動に従事することを選択した彼は、建築家の夢を捨て、キリスト教の伝道しとなる道を選んでいました。
仕事がなければ、生活できません。
それに、なんとかして大好きな日本に残りたい。
ヴォーリスは、解職された翌年(1908)、京都で建築設計監督事務所(後のヴォーリズ建築事務所)を開業したのです。
彼は、日本各地で西洋建築の設計を数多く手懸けました。
山の上ホテルや関西学院大学、同志社大学、神戸女学院、神戸ユニオン教会、大丸心斎橋店等々、なんと彼は1600もの建築物を残しています。
そして彼の手がけた建築物のいくつかは、いまでは国の文化財となっています。
(同志社大の啓明館、関西学院大学時計台など)。
建築家としての彼の言葉です。
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■ご覧なさい。
鳥が二羽夫婦になる、
家を建てる、巣ができあがる。
この鳥の巣こそ住宅の基本です。
彼らの家を建てる根本目的は、
いうまでもなく子どものためです。
■建物の風格は人間の人格と同じです。
外見よりむしろ内容にある。
■私の主張は、建築様式の新しい発案ではない。
その建物の目的がどのようなものであっても、
簡単な住宅から最も複雑な建物に至るまで
最少限度の経費で、
最高の満足を請け合うための努力です。
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ヴォーリスが建築分野で一定の成功をおさめた大正7(1918)年、国内に結核が大流行しました。
死亡率は史上最高のものです。
彼は、結核患者のために、近江療養院(現在のヴォーリズ記念病院)を設立しました。
患者は全国各地から集まりました。
翌年(1919)、彼は子爵令嬢の一柳満喜子と結婚しました。
結婚式は自らが設計した明治学院の礼拝堂で挙げています。
そして健康面に関心を持ったヴォーリズは、米国メンソレータムの開発者ハイド氏から、日本でのメンソレータム販売権を取得(1920)し、国内でメンソレータムの販売を開始しました。
メンタムは、あっというまに大ヒット商品に成長します。
ヴォーリスは、こうして事業で得た利益を、キリスト教の伝道や医療、教育、福祉のためにあてました。
私的財産を持つことをしなかったそうです。
そんなヴォーリズの姿勢に、内村鑑三は、次のように記しています。
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ヴォーリズ君は、世にまれに見る建築術の天才であり、また深く正しく日本を解し、これを愛する米国人の一人であります。
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昭和16(1941)年、大東亜戦争開戦の年、彼は正式に日本国籍を取得しました。
そして妻の姓をとって、一柳米来留(ひとつやなぎめれる)という名で、日本に帰化しました。
米国人が、鬼畜米英などと言われた時代に、日本に帰化したのです。
彼は、日本を愛する気持ちを、帰化という事実をもって具体的に示しました。
やがて、終戦。
近衛文麿は、ヴォーリズと接触し、連合国軍総司令官ダグラス・マッカーサーに、天皇には戦争責任がないこと、天皇は自分が神と考えていないことなどを伝える役を託しました。
ヴォーリズは、その大役を「死んでもよい御用」として、病に冒された体で見事に果たしました。
ヴォーリズ64歳の初秋のことでした。
昭和39(1964)年、83歳で、ヴォーリズは永眠しました。
彼は、人生のほとんどすべてを日本のためにささげました。
そして、生涯愛し続けた近江八幡市で、永眠しました。
没後、正五位に叙され、勲三等瑞宝章を受章しています。
ヨーロッパの古い格言に、
「市民権というものは、市民を守る意志のあるものにのみ与えられる」というものがあります。
これはたいへん重要な言葉です。
同じ街に住んでいるから市民ではないのです。
その市を守る意志のない者は、市民ではない。
ヴォーリスは、米国生まれの米国人でした。
しかし彼は、設立した会社の名前が、八紘一宇の精神を型どった名前であることにあきらかなように、自分の持っているすべてで日本を愛しました。
まちがいなく、ヴォーリスは帰化人であっても、日本人だと思います。
日本人というのは、日本で生まれたからとか、日本で育ったからとか、日本に住んでいるとか、日本語を話すから日本人なのではありません。
日本を愛し、古来からある日本の歴史伝統文化を尊重する気持ちと意思を持ち、日本を守る気概を持つから日本人です。
もっと簡単にいえば、反日主義者は、たとえ先祖代々日本人であったとしても、それはもはや日本人ではありません。
日本の歴史始まって以来の、もっとも豊かな日本に生まれ、育ち、何不自由なく安全で安心な日本に育まれながら、意図的に反日を謳い、嫌日し、多くの日本人の生活の安全や安心を損ねる者は、たとえ、どんなに社会的地位があろうが、金を持っていようと、政財界の実力者であろうと、そういう人間は日本人ではありません。外人です。
まして反日思想の外国からやってきて、日本国内で反日活動をする者など、まったく日本人ではありません。
そこには、私たちは私たちの社会として、明確な一線を引くべきです。
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