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鈴木貫太郎

鈴木貫太郎といえば、第42代内閣総理大臣です。
終戦処理内閣といわれた鈴木貫太郎ですが、この人物の半生は、江戸から明治・大正・昭和の歴史そのものといっていい。また人物が、実にすごい。奥様までものすごい。
海軍出身なのですが、戦に立てば獅子奮迅。平時にあっても鬼貫と呼ばれ、老いては陛下からたいへんな信頼を受け、若手青年将校からは君側の奸といわれ、ご遺体からは2・26事件の弾丸が出てきた。とにかくたいへんな人生です。
鈴木貫太郎内閣が成立したのは、昭和20(1945)年4月7日です。まさに大東亜戦争の末期です。
内閣が総辞職したのが、同年8月17日、終戦の翌々日です。
鈴木貫太郎内閣は、大東亜戦争の終結を一手に引き受け、そして解散した内閣でした。
戦はシンガリというのが、いちばん難しい。勝ち戦のときは、みんなが盛り上がるけれど、負け戦をどう戦いぬくかは、はるかに困難をともないます。その大任を拝したのが、海軍鈴木貫太郎です。
昭和20(1945)年4月、戦況悪化の責任をとって総辞職した小磯國昭総理の後継として、重臣会議で、鈴木貫太郎は次の内閣総理大臣に指名されます。
重臣会議の結果を聞いて陛下は、鈴木貫太郎を呼んだ。
そして総理として組閣するように命じます。
このときのやりとりを、侍立した侍従長藤田尚徳が聞いています。
あくまで辞退の言葉を繰り返す鈴木に対して、陛下はこう云われた。
「鈴木の心境はよくわかる。
 しかし、この重大なときにあたって、
 もうほかに人はいない。
 頼むから、どうか曲げて承知してもらいたい」
おそらく日本の憲政史上、陛下から“頼む”と言われた人物は、鈴木貫太郎だけです。
貫太郎は武人です。日頃の口癖も、「軍人は政治に関わるべきではない」だった。
「自分には政治的手腕はない」とも言っていた。
しかし陛下から直接“頼む”と言われてはそれ以上、辞退はでません。
そして陛下の母、皇太后節子(貞明皇后)様も、その場で陛下より30歳以上年上の鈴木に対して
「どうか陛下の親代わりになって」と語ったともいいます。
ちなみに国会議員以外から内閣総理大臣に就任したのは、鈴木貫太郎が最後です。
こうして内閣総理大臣を拝命した鈴木貫太郎は、4月7日組閣を行います。
4月12日、米国ルーズベルト前大統領死去。
貫太郎は、この報道に接すると、短波放送で次のメッセージを送った。
「私は深い哀悼の意をアメリカ国民に送るものであります」
同じ頃、ナチス・ドイツのヒトラーも敗北寸前だったのだけれど、彼は対照的にルーズベルトを罵った。
アメリカに亡命していたドイツ人作家トーマス・マンは、英国BBCで
「ドイツ国民よ、東洋の騎士道を見よ」と題して声明を発表し、鈴木の武士道精神を称賛しています。
話がすこし前にさかのぼりますが、貫太郎が枢密院議長をしていた1943年のことです。
会議の席で嶋田繁太郎海軍大臣が山本五十六の戦死を貫太郎に報告しました。
驚いた貫太郎が「それは一体いつのことだ」と問うと、
嶋田は「海軍の機密事項ですのでお答えできません」と官僚的な答え方をした。
このとき貫太郎は、齢75歳。老境に達し、日頃静かで温厚とみえた貫太郎が、怒髪天を抜く勢いで腹の底から嶋田を怒鳴りつけた。
「俺は帝国の海軍大将だ!
その答弁は何であるか!」
周囲にいた者はいまだ「鬼貫」が健在であることを思い知らされたといいます。
貫太郎は骨の髄まで武人であったのです。
そして罵ったヒットラーは、この月の月末に自殺する。
貫太郎は、尚も和平の道を探し抜きます。
しかし閣内には断固戦闘を継続すべしの声も多い。
6月8日の重臣会議で、貫太郎は若槻禮次郎の質問に答えて、こう述べています。
「理外の理ということもある。
 徹底抗戦で利かなければ死あるのみだ」
 そう言って、彼は机を叩いた。
同席した東條英機は満足してうなずいたといいます。
ところが近衛文麿が微笑していた。
貫太郎の腹の中は決まっていたのです。
・・・内大臣に会いに行くと、皇族をはじめ、自分たちの間では和平より道はもうないといふ事に決まって居るから、此事、お含み置きくださいといふ話。
若槻さんは首相はどうなのですかと訊くと、勿論、和平説ですといふ内大臣の返事で、初めて近衛さんの微笑の謎が解けたといふ・・・(志賀直哉「鈴木貫太郎」)
6月23日、米軍沖縄を占領。
天皇の終戦への明らかな意志は、貫太郎の勇気をふるい立たせます。
貫太郎は、近衛文麿をソ連に特使を送るこを決めます。
しかし7月17日、、トルーマン、チャーチル、スターリンの連合国三巨頭がべルリン郊外のポツダムに参集した。
この席のもとに、原爆実験成功の知らせがポツダムにいたトルーマンのもとに届きます。
トルーマンは、日本を早期に降伏させるためにソ連の参戦を促す必要がなくなった。
7月26日、こうしてソ連抜きで、「ポツダム宣言」が発せられます。
貫太郎は、いまだ対日宣戦に参加していないソ連を仲裁者に立てて、和平の道を探ろうとします。
ポツタム宣言は、まちがいなく終戦の糸口になる。
あとは、その宣言の内容を少しでも緩和させるために、なんとかしてソ連に仲裁を依頼しようというわけです。
貫太郎は、近衛特使の訪ソを待って日本の態度を決定しょうとした。
そうであれば、「宣言」に対するステートメントは、この時点ですぐには発表できない。
7月27日、鈴木は、日米が戦うことの無意味さを説いた新聞談話を発表します。
米国が無条件降伏を主張する限り、日本は戦いを継続するしかない。
わが国民の信念は七生尽忠です。
わが国体を離れてわが国民は存在しないのです。
敵の揚言する無条件降伏なるものは、わが一億国民の死ということです。
われわれは一に戦うのみである」
鈴木のメッセージを読んだ、米国心理作戦課のザカリアス大佐は部下にこう言っといいます。
「鈴木は戦争のことを語っているが、かれが実は平和のことを考えているということをこの演説は明瞭に示している。
鈴木は、もうわれわれの無条件降伏要求に条件をつける材料のないことを覚悟している。
それでいて、なお降伏を受け入れることを鈴木がためらっているのは、将来の天皇の位置が不明だからだ」
貫太郎の「(ポツタム宣言を)ただ黙殺するだけである」という説明について、日本の新聞は、ポツタム宣言の全文を掲載したうえで、
「首相、ポツタム宣言黙殺」
「笑止、対日降伏條件」
「笑止!米英蒋共同宣言、自惚れを撃破せん、聖戰飽くまで完遂」
「白昼夢 錯覚を露呈」
などと報道します。
その新聞記事を、日本の国家代表通信社である同盟通信社が
「ignore it entirely(全面的に無視)」と翻訳し、
ロイターとAP通信では
「reject(拒否)」と誤訳して報道した。
日頃貫太郎ら各寮と接する機会の多い新聞記者たちは、貫太郎が和平の道を探っていることを承知していた。承知していて、彼らは軽はずみな報道をします。
結果、米国は「日本断固戦闘継続」との見方をすることになる。
終戦を急ぐアメリカは、ついに8月6日、広島に原爆を投下し、8月9日には長崎に原爆を投下した。直後にソ連軍が参戦。
原爆投下は、ある意味、日本のメディアの軽はずみな報道が原因となったといえるかもしれません。
この時点のソ連の参戦は、日ソ中立条約を一方的に破って侵攻したものです。
なんと120万の大軍を満州、樺太、千島に侵攻させた。
彼らは国境を越えたばかりではなく、略奪、暴行その他したい放題の事をしたのです。
千島は先日の占守島の守備部隊の健闘で、なんとか難をのがれたけれど、満州、樺太では、8月15日をすぎても略奪・暴行が継続しています。
長崎原爆投下、ソ連参戦が行われた日の夜、貫太郎は緊急閣議を召集します。
その席で、貫太郎はポツダム宣言受諾を取り決めます。
そして日本は8月14日の御前会議で、正式に宣言受諾を決定した。
8月15日早朝、貫太郎は、東京・小石川の私邸を襲撃されます。
貫太郎夫妻は警護官の手によって、私邸を脱出し難を逃れたけれど、直後、私邸は焼き払われてしまう。
貫太郎は、8月17日、内閣を総辞職します。
彼は主戦論渦巻く当時の内閣、国会、世論にひとり相対し、終戦へと日本を導いた。
生粋の軍人でありながら時代の要求により首相となって、わずか4か月の在任の期間で、必死に日本を支え、戦争終結という大業をなし遂げた。
精根を使い果たした貫太郎は、こののちほんの少ししか生きなかった。
見事な引き際であった。
昭和23年4月17日、貫太郎は「永遠の平和」の一語を残し、享年82歳で逝去されました。
遺灰の中からは、彼が2・26事件のときに受けた弾丸が出てきたそうです。
その2・26事件のときのエピソードをお話します。
貫太郎は、日清・日露に従軍し、数々の大功を立てたのち、大正12(1923)年には大将に進級し、連合艦隊長官、軍令部長などの重責を歴任します。
大功あった貫太郎ですが、彼は昭和4(1929)年1月から侍従長に任命されてしまいます。
侍従長というのは、それまで貫太郎が在職していた海軍の軍令部長より宮中席次で30位くらいランクが下の役職なのだそうです。
貫太郎にしてみれば、薩摩藩出身が優遇される当時の海軍内で、旧幕臣であるがゆえの降格です。
そういう意味でははなはだおもしろくない人事なのです。
しかし彼は、「格下になるのが嫌で天皇に仕える名誉ある職を断った、と人々に思われたくない」と、侍従長の職を素直に引き受け、昭和天皇から篤い信頼を得るようになります。
陛下のお傍にいる。このことが原因で、貫太郎は若手青年将校らから、「君側の奸」といわれるようになります。彼は命を狙われるようになった。
昭和11(1936)年2月26日、2・26事件が起こります。
近衛、第一両師団に属する若手青年将校たちが暴発して、首相官邸はじめ重臣たちの官邸や私邸を襲撃した。
この日、貫太郎は、たか夫人と一緒に駐日アメリカ大使ジョセフ・グルーの招待で夕食会に出席した後、11時過ぎに麹町三番町の官邸に帰宅し、就寝していた。
午前5時。
鈴木の官邸に、安藤輝三大尉が指揮する麻布歩兵第三連隊の兵204名が来襲する。
第三連隊兵士らは、私邸に侵入し、貫太郎夫妻を寝室で発見します。
布団から起き上がった貫太郎夫妻に、下士官が兵士に発砲を命令する。
貫太郎は、左脚付根に3発、左胸、左頭部に各1発の銃弾を撃ち込まれ、その場で昏倒した。
夫人のたかは、眉ひとつ動かさず、その場に正坐していた。
血の海になった八畳間に安藤大尉が到着。
下士官のひとりが、
「中隊長殿、とどめを」と安藤に促した。
安藤が軍刀を抜くと、貫太郎の横で正坐していたたか夫人が、
「それだけはやめてください!」と凛と言い放った。
軍刀をかざした安藤大尉の腕が止まります。
するとたか夫人は静かにこう言った。
「老人です。とどめは止めてください。
 どうしても必要というなら、
 わたくしが致します」
安藤はうなずくと、軍刀を納め、
「鈴木貫太郎閣下に敬礼する。
 全員、気をつけ!
 捧げ銃(つつ)!」
そして安藤はたかの前に進むと、夫人に、
「まことにお気の毒なことをいたしました。
 われわれは閣下に対しては何の恨みもありません。
 国家改造のためにやむを得ずこうした行動を
 とったのであります」と静かに語り、
「自分は後に自決をする覚悟であります」
と述べて、兵士を引き連れて官邸を引き上げます。
反乱軍が去った後、鈴木は気がつき、自分で布団から起き上がると、
なにやら間のびした声で、
「もう賊は逃げたかい」と尋ねたそうです。
しかしその口からは、言葉を発するたびに血が噴き出す。
たかは傷口に応急の止血処置をすると、すぐに宮内大臣湯浅倉平に電話をかけた。
湯浅は医師の手配をして駆けつけてきます。
鈴木の意識はまだはっきりしており、湯浅に
「私は大丈夫です。ご安心下さるよう、お上(昭和天皇のこと)に申し上げてください」と言った。けれど、声を出すたびに傷口から血が溢れ出る。
ようやく医師が現場に到着。
ところが鈴木のあまりの大量の出血に、急いでいた医師は、血ですべって転んでしまった。
医師やたか夫人らとともに、貫太郎は日本医科大学に運ばれます。
しかし、手当の甲斐なく、やがて貫太郎は意識を喪失、心臓も停止した。
直ちに医師たちによる甦生術が施されたけれど、貫太郎は息を吹き返さない。
医師があきらめかけます。
そのとき枕元にいたたか夫人が、
「あなた! 起きなさいっ!」と叫んだ。
人間、死に際したとき、最後に失われるのが聴覚だそうです。
この声が、貫太郎に聞こえたのでしょう。
貫太郎は奇跡的に息を吹き返します。
いつの時代も、旦那にとっては、かあちゃんのひとことがこわい(笑)。
貫太郎が一命をとりとめたのは、胸部の弾丸が心臓をわずかに外れたことと、頭部に入った弾丸が貫通して耳の後ろから出ていたことなどが幸いしたというのだけれど、やはり夫人が勇気ある機転で“とどめを制した”ことが、最大の要因といわれています。
このたか夫人という方は、明治38年から大正4年まで皇孫御用掛として、幼少時の迪宮(昭和天皇)、秩父宮、高松宮の養育に当たっていた方です。
昭和天皇は、侍従長・総理時代の鈴木に、
「たかは、どうしておる」
「たかのことは、母のように思っている」と、語ったと言います。
すごい女性だったのですね。
それにしても、たか夫人は、まさに武人の妻というにふさわしい女性であったと思います。
貫太郎を襲った安藤大尉は、その後逮捕され、処刑されますが、彼は自ら手に掛けようとした鈴木貫太郎について、「あの人は西郷隆盛のような人で懐が大きい」と述べたと言います。彼は貫太郎の人物の大きさを認めていた。
そして貫太郎も、安藤大尉の処刑を聞くと、
「安藤輝三大尉は、首魁の立場にいたから止むを得ずああいうことになってしまったのだろう。惜しい若者を死なせてしまったと思う」と記者に答えています。
貫太郎も、若くて純粋な安藤大尉を武人として好感を持っていた。
鈴木貫太郎は、慶応3(1868)年1月18日の生まれです。つまり江戸時代に生まれた方です。
そして江戸から、明治・大正・昭和と激動の時代を生きた。
若き日の貫太郎の生きざまは、まさに痛快であり、爽快であり、男の人生そのものでした。
彼は、大阪府堺市中区伏尾のご出身ですが、本籍地は千葉県野田市の関宿藩です。
貫太郎の父親は関宿藩の家老職であった鈴木由哲で、鈴木家というのは、三河の渥美郡の出、代々徳川直参旗本の家柄です。
貫太郎は、どうも子供のころからやんちゃだったようで、3歳のとき、おもてで遊んでいるときに、暴走してきた馬に蹴られた。家族全員が貫太郎の死を覚悟したそうです。
しかしなぜか彼は助かった。
ものごころつくころには、父親の仕事の都合で前橋市に転居するのだけれど、そこでは冬に魚釣りをしていて、何を血迷ったか、氷った川面に乗っかって、川に落ちて、あやうく死にかけた。普通、湖でも川でも、氷った川に落ちたら、死にます。それでも貫太郎は、なぜか助かった。
明治20(1887)年に、海軍兵学校卒すると、翌、明治21年にはいきなり日清戦争が勃発。
貫太郎は、任官したての海軍大尉として、50トンのトイレもない小さな水雷艇の艇長に任官されます。
彼は、その小舟を操って、威海衛という敵の艦隊が駐留する港に、僚艦とともに夜遅くに潜入。
なんと、敵主力戦艦に50M~100Mの距離まで近づいて、決死の電撃戦を敢行し、敵戦艦を沈めてしまいます。
これが清国の海軍力を奪い、日清戦争を早期に終結させるきっかとなった。
貫太郎は大戦果をあげています。
彼は意気揚々と帰還するだけれど、乗っている船は、小さな和舟に毛の生えた程度の水雷艇です。
彼は、帰還の途中に、夜の海に落ちてしまう。
まだ行燈くらいしか、灯りのない時代です。
いまみたいに、サーチライトなんて気の利いたものはありません。
この時代、夜の海に落ちたら、まず助かる見込みはない。
ところが、なぜか貫太郎は奇跡的に助かってしまいます。奇跡としかいいようがない。
貫太郎には天命があったのかもしれません。
続く日露戦争では、貫太郎は中佐として軍艦春日の副長、そこから駆逐隊司令に転じます。
彼は、日清戦争での自身の体験から、駆逐艦による高速近距離射法(肉薄強襲)を実現しようと、部下を猛訓練します。
あまりの猛特訓に、このときついたあだ名が「鬼貫」。よほど厳しい訓練を施したのでしょう。
ちなみにこの時代の魚雷というのは、100Mの距離で発射して、敵艦にあたれば幸運、というシロモノです。
100Mといえば、敵艦の主砲どころか機関砲や、ライフルの弾すら飛んでくる距離です。
その敵の猛攻をかいくぐって、敵艦に、眼と鼻の先まで近づき、魚雷を発射する。
近づくルート、そのルートに乗るための波の避け方、艦の速力の調整、発射のタイミングの取り方、魚雷の整備、敵の砲弾で損傷した自船の応急措置、戦闘途中で怪我をした水兵の手当。なにせ小型艦です。ひとりひとりの兵士に与えられる任務は細かく、しかも敵弾とどく危険の中で、いっさいを効率的に処理しなくてはならない。
「鬼貫」の訓練は、熾烈を極めた。
訓練の効果は、日露戦争の日本海海戦で、如何なく発揮されます。
「鬼貫」の駆逐艦は、なんと海戦で、ロシア戦艦3隻、巡洋艦2隻を撃沈させてしまった。
おかげで貫太郎は、戦いのあとに連合艦隊の秋山真之参謀から、
「オイ、鬼貫、1隻くらいは他の艦隊の手柄にしてやってくれよ」と言われたそうです。
それくらい彼の船の活躍はすさまじかった。
鈴木貫太郎の人生を概観したとき、思うことが2つあります。
彼の前半生は、海軍軍人としての武人ですが、軍人としてではなく、それ以前にも彼は何度も死にかけている。そして、226事件では、実際に心停止までしている。
それでも彼は生き、80歳になって、大東亜戦争に幕を引くという最大限の胆力と集中力を必要とする仕事を、見事にやってのけた。
彼はもしかすると、そもそも日本の終戦処理という使命を帯びて、この世に生を受けたのではないか。
もうひとつは、彼は80歳という高齢で、陛下から全幅の信頼を帯びて日本の終戦処理をした。
いま、保守に目覚めている多くの方は、40代、50代、60代、70代だったりするけれど、貫太郎からしてみれば、みんな“子供”です。彼よりずっと年下だ。
人間、丹力があれば、年齢など関係ないのではないか?
いま、真正保守に覚醒する人が、陸続と現われています。
ひとりひとりは年齢も世代も様々です。
しかし、日本を護りたい、日本の心を伝えたいという、明確な意思があれば、実年齢に関係なく、ひとりひとりが青雲の志を抱く若き青年といえるのではないか。
ついに反日者たちが日本の政権を盗ったというこの未曾有の国難に際し、覚醒し、行動しようとする人は、全員が、青春であり、青年たちである。ねずきちはそんなふうに思うのです。
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昭和宰相列伝3 東條英機、鈴木貫太郎他(1941-1945)

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