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テルモピュライの戦い(ダヴィッド画)
テルモピュライの戦い

ペルシア戦争というのは、紀元前492年から紀元前449年の三度にわたるペルシアのギリシア遠征をいいます。
なかでも有名なのが、ヘロドトスの「歴史」第7に書かれた「テルモピュライの戦い」です。
この戦いで、スパルタ王レオニダスは5,200名の兵力でしたが、戦いの中心になったのは、わずか350名のレオニダス王直属の「スパルタ重装歩兵」たちです。
レオニダス王は、このわずかな兵力で、ペルシャの210万の大軍団に挑みます。
戦い3日目、激戦の中でレオニダス王が敵の矢に倒れます。
スパルタ軍とペルシア軍は彼の死体を巡って激しい戦いを繰り広げた。
そしてようやくスパルタ軍は、王の遺体を回収します。
しかし衆寡敵せず。
スパルタの兵士たちは、四方から攻めてくるペルシャの大軍に囲まれてしまいます。
スパルタの兵士たちは、槍が折れると剣で闘った。
剣が折れると素手で戦った。
両手が折られると歯で戦った。
そしてスパルタ軍350名は、全員が玉砕します。
この戦いによるペルシア軍側の戦死者は2万名。
ヘロドトスの「歴史」に書かれたこの戦いは、いまでも世界戦史の語り草になっています。
世界は、いまから2500年も前のレオニダス王たちの奮戦をいまだに忘れず、覚えているのです。
人は、木の股から産まれてくるものではありません。
親がいて、祖父母がいて、曾祖父母がいて、そのまた親がいて曾祖父母がいる。
その国の歴史と文化と伝統の中に生まれ、育つものです。
つまり、自分は、生きているその瞬間という静的な点の存在ではなく、歴史という時間軸の中に存在する動的な点なのだろうと思います。
だから、代々語り継がれた歴史、伝統、文化を、私たちは後世に伝えていく義務を持っている。
日本は、この世界的に有名なテルモピュライの戦い以上の数々の玉砕戦を、戦い抜いてきています。そうした歴史を、日本人は絶対に忘れてはならない。
歴史は、私たちが生きている証でもあり、未来に伝えなければならない義務を持っていることだからです。
古くは、楠木正成の戦い義和団事件の柴五郎中佐の奮闘通州事件における日本駐屯隊尼港事件通化事件斉南事件等々、そして、大東亜戦争でのアッツ島、ギルバート島、マーシャル諸島、ブアク島、サイパン島、テニアン島、グァム島、拉孟守備隊、玉砕 騰越守備隊、アンガウル島守備隊、ペリリュー島守備隊硫黄島守備隊沖縄守備隊などなど・・・
レオニダスは、多国籍軍5,200の兵力で、スパルタの主力350を玉砕させたけれど、日本は、それぞれの戦いの中で、数100名から数万名の将兵全員が、数十倍の敵と火力を前に戦い、玉砕戦を闘ってきた。
パラオ・ペリュリュー島の戦いでは、南北9キロ、東西3キロ、高さ80m、全体でわずか20平方キロという小さな島で、中川大佐率いる1万1千の日本の将兵が、73日間にわたる死闘を繰り広げた。
ペリュリュー島は、フィリピンを防衛の拠点として東洋最大の軍飛行場があった場所です。
米軍がフィリピンを攻略するためには、ペリリュー島を奪取しなければならなかった。
米太平洋艦隊ニミッツ提督は、マッカーサーのフェイリピン上陸作戦を助けるために、第一海兵師団、並びにハルゼー大将が指揮する第三艦隊約800隻と4万8千の将兵をペリュリュー島に向かわせた。
戦いが始まって72日目、中川隊長は、パラオ地区集団参謀長多田督知大佐宛、訣別の電報を打った。
我々は戦闘を打切り、残る健在者約50名をもって遊撃戦闘に移行します。
あくまで持久に徹し米奴撃滅に邁進します。
重軽傷者中、戦闘行動不能なる者は、自決しました。
将兵一同聖寿の万歳を三唱し、皇運の弥栄を祈念し奉つります。
そして73日目、最後のときを迎えます。
守備隊の責任者である中川大佐、村井権治郎少将、飯田義栄中佐の3人は、それぞれ古式に則って割腹自決します。
3人のあっぱれな最期を見届けたあと、残った兵士たちは最後の決死隊を組織します。
午後4時、決死隊は、軍旗も機密書類も焼却したことを意味する最後の電文「サクラ・サクラ」を、パラオ本部に打電した。
そして根本甲子郎大尉以下、傷だらけの55名は、夜鬼のごとくになって突撃して行きました。
このときの模様を、米海兵隊公刊戦史は次のように書いています。
「日本の斬込隊の一団は、米軍の包囲圏を突破できず、24日の夜から27日7時頃までの間に米軍と激しく交戦、全員玉砕した」
米軍はペリュリュー島を占領後、激戦の行われた西海岸をオレンジ・ビーチと名づけました。それは、ビーチが、米兵の血でオレンジ色に染まったからなのだそうです。
ニミッツ提督は「太平洋海戦史」で次のように書いています。
「ペリリューの複雑極まる防備に打ち克つには、米国の歴史における他のどんな上陸作戦にも見られなかった最高の戦闘損害比率(約40%〉を甘受しなければならなかった。
既に制海権制空権を持っていた米軍が、死傷者あわせて1万人を超える犠牲者を出して、この島を占領したことは、今もって疑問である」
戦後、ペリリュー島帰島した現地住民たちは、日本人の遺体を見て泣いたそうです。
尊長は、こう書き残しています。
「米軍は、日本人の遺体には見向きもせず、自国兵の遺体だけを整理した。ここに、征服民族の本性を見た」
そして尊長以下島の人々は、こぞって日本軍の遺体を葬ってくれた。
日本の人達がいつ来てもよいようにと、その後も墓地の清掃をしてくれた。
彼らは、日本人が遺骨収拾に行くと、
「戦死者は母なる大地ペリリューに抱かれているのだ。収拾などしないで、静かに眠らせてほしい」とまで言うそうです。
現在、島の中央部に「ペリリュー神社」があります。
その神社前の左の掲示板には、ペリリュー島のイサオ・シゲオ尊長による次の一文が掲げられています。
この島を訪れる、もろもろの国の旅人たちよ。
あなたが日本の国を通過することあらば伝えてほしい。
此の島を死んで守った日本軍守備隊の
勇気と祖国を憶う、その心根を
パラオ・ペリュリュー島といえば、終戦後2年半にわたり、ずっと闘い続けた男たちもいました。中川隊長らとは島の反対側にいた、山口永少尉以下西海岸守備隊の生き残り34名です。
彼らは中川隊長の最期や命令を知るすべもなく、また日本の終戦すらも知らず、終戦後も2年半にわたり、戦闘を継続したのです。
西海岸守備隊というのは、最初に米軍が西海岸に上陸した時に最前線で最も果敢に戦った勇者たちでもあった。
先日、ある代議士の方が、次のようなお話をされていました。
「議員になって感じたことがあります。
それは国会議員には2通りの政治家がいるということです。
ひとつは、日本の歴史を踏まえ、過去の歴史と未来の日本を見据えて行動する政治家です。
もうひとつは、過去を顧みずいまの利得しか考えない政治家です。
そして与野党を問わず、いましか考えようとしない政治家が圧倒的に多い」
世界中、どこの国においても、自国の歴史・伝統・文化は、尊重するものです。
中には捏造までして自国の歴史や先人達の功労を誇ろうとする国さえもある。
日本は、他国に誇り得る歴史を持った国です。
そしてね、ペリュリューの島民は、いまも当時の日本兵をなつかしみ、次のように語ってくれるそうです。
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日本という国は何千年来の伝統を持ち、
独自の文化を創りあげてきた。
その結晶が天皇と教育勅語だ。
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関連記事:パラオ・ペリリュー島の戦い
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-525.html
※ 本文中にある、下記の文章を、
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島の中央部に「ペリリュー神社」があります。
その神社前の左の掲示板には、ペリリュー島のイサオ・シゲオ尊長による次の一文が掲げられています。
この島を訪れる、もろもろの国の旅人たちよ。
あなたが日本の国を通過することあらば伝えてほしい。
此の島を死んで守った日本軍守備隊の
勇気と祖国を憶う、その心根を
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次のようにお詫びして訂正します。
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島の中央部に「ペリリュー神社」があります。
その神社前の左の掲示板には、ニミッツ提督による次の一文が掲げられています。
諸国から訪れる旅人達よ
この島を守るために日本軍人が
いかに勇敢な愛国心をもって戦い
そして玉砕したかを伝えられよ
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2009/10/20 14:10 ねずきち
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日本とパラオ ~歴史を越えた友情~

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