人気ブログランキング ←はじめにクリックをお願いします。

高橋是清
高橋是清

大正7(1918)年に集結した第一次世界大戦は、わが国に大戦景気と呼ばれる大好況を招き、日本の経済は大発展を遂げます。
ところが戦後欧州の製品がアジア市場に戻ってくると、戦後恐慌が発生し、これに関東大震災(1923年)が追い打ちをかけ、震災恐慌と呼ばれる深刻な不況が到来します。
すでにこの時点で国内の銀行は不良債権問題で経営力を弱化させていたのですが、ただでさえ弱っていた日本経済の中で、時の大蔵大臣片岡直温が「渡辺銀行がとうとう破綻いたしました」とこれは“失言”してしまう。
この結果、預金者が終業間際の東京渡辺銀行に殺到し、取り付け騒ぎが起こり、銀行が次々休業に追い込まれた(昭和金融恐慌)。これが昭和2(1927)年の出来事です。
このような状況下で、昭和4(1929)年、立憲民政党の浜口雄幸内閣が成立します。
浜口雄幸は、徹底した緊縮財政政策を図ります。政府の支出を大幅に削減し、国内景気対策のために必要な財政出動も、次々執行を停止した。
経済というもは、人間の体でいったら血液と同じです。
血圧が下がり、瀕死の状態になった人体には、なによりも輸血が必要です。
不況下には、むしろ積極的な財政出動(輸血)が必要だったのです。
にもかかわらず、浜口内閣は、産業合理化政策、軍事予算の削減を進め、これによって中小企業の多くが倒れていきます。
そんな状況の中で起ったのが、同じ年、昭和4(1929)年11月に起ったのニューヨーク・ウォール街の株価の大暴落です。
この大暴落の影響は一瞬で世界に波及し、世界経済はいっきに沈滞化する(世界恐慌)。
こうしたときには自国の経済の保護を図ることが第一に優先されるべきなのですが、浜口内閣は、逆に金の輸出入を解禁し、解禁後僅か2ヶ月で約1億5000万円もの正貨が国外に流出ししてしまいます。
つまり、貧血で苦しんでいる日本から、さらに血液(カネ)が流出したのです。
昭和5(1930)年3月になると、日本国内の株式・商品市場は大暴落。
生糸、鉄鋼、農産物等の物価も急激に低下します。
さらに中小企業の倒産が激増し、失業者が街にあふれた。
4月は、新卒の就職時期にあたるけれど、いまより遥かに価値が高かったはずの大学・専門学校卒業生のうちの3分の1が職につけなかった。
農村部では、生糸の対米輸出が激減したことに加え、デフレに豊作が重なって米価が激しく下落。これにより農家の経済は壊滅的な打撃を受けてしまう。
当時、「米」と「繭」の二本柱で成り立っていた農村は、その両方が倒れることとなり、困窮のあまり青田売りが横行。
さらに欠食児童、女子の身売りなどが深刻な社会問題となります。
浜口雄幸総理は、
「我々は、国民諸君とともにこの一時の苦痛をしのんで」
と国民に呼びかけた。
いまの国内の不況は一日にして好転するようなものではなく、緊縮財政その他の政策は、日本経済正常化への端緒であり、その後長い苦節を耐えた後に、日本の経済構造が改革されると、国民に呼びかけた。
しかし結果は、大不況であり、その政策によって大不況がさらに深刻化したのであり、歴史に名を残す経済失政であったことは、疑いの余地はありません。
こうした中で、浜口雄幸総理は、昭和5(1930)年11月14日、東京駅第4ホーム(現在の東北新幹線改札付近、記念碑があります)で、愛国社社員の佐郷屋留雄(21歳)に銃撃されます。
弾丸は浜口雄幸の骨盤を砕き、東大病院にて腸の30%を摘出したけれど、彼は一命を取りとめた。
そして翌・昭和6(1931)年3月に、衆議院に登院するけれど、5ヵ月後に亡くなります。
浜口雄幸総理不在の間、幣原喜重郎が臨時首相代理を務めるけれど、日本経済にはなんの貢献もなく、不況はますます深刻化していきます。
ちなみに、銃撃した佐郷屋留雄は、熊本出身の愛国社党員でした。
彼は銃撃について、
「濱口は社会を不安におとしめた。だからやった。何が悪い」と言いきった。
娘を遊女に売らなければならないほどの深刻な経済不況を招いたのです。
怪我をされた浜口雄幸はお気の毒だけれど、彼の政策で日本全体が受けた苦難を考えれば、ねずきち的には、佐郷屋氏の言い分に、むしろ理解ができます。
尚、佐郷屋氏は、昭和29(1954)年には、血盟団事件の中心人物である井上日召と共に右翼団体護国団を結成、第二代団長となり、昭和34(1959)年には、児玉誉士夫らがいる全日本愛国者団体会議(全愛会議)の初代議長となります。
彼の弟子には、黒崎健時氏がいます。黒崎氏は、のちに空手「極真会館」のナンバー2となり、日本とオランダでキックボクシングを育てています。
ちなみに、故・大山倍達氏が「歴代の弟子の中で一番強い」と語った人物です。
弟子に、小比類巻貴之、魔裟斗などがいます。
話が脱線しましたが、ようやく昭和6(1931)年12月になって、政友会に政権が交代します。
そして発足したのが犬養毅内閣でした。
犬養は、以前首相も経験したことのある高橋是清を大蔵大臣就任させます。
高橋是清は、積極的な財政出動で知られる人物です。
彼は、矢継ぎ早に、景気対策を行った。
結果を見てみます。
【昭和恐慌時の実質経済成長率(%)】
      経済成長率
 昭和2年  3.4%
 昭和3年  6.5%
 昭和4年  0.5% 浜口雄幸内閣発足
 昭和5年  1.1%
 昭和6年  0.4% 高橋是清大蔵大臣就任
 昭和7年  4.4%
 昭和8年 11.4%
昭和6年に高橋是清が大蔵大臣に就任したときに、まさにボトムを打っていた日本経済は、氏の積極的財政出動によってみるみるうちに経済を回復させ、わずか2年後には、2桁成長をみるに至っています。
しかもこの間、物価の上昇率は、年3~4%にとどまっている。見事なものです。
工業生産高は2.3倍に拡大した。
銀行の不良債権処理もいっきに進みます。
そしてこの間、日銀券の発行量は40%増えています。どれだけ積極財政出動を行ったかがわかろうというものです。
高橋財政を「軍需インフレ政策」と指摘している学者もいるそうです。
しかし、大艦を製造し、戦闘機を増産し、軍事施設を築き、軍人を雇用することは、そのまま政府による産業の育成と雇用の創造につながります。
だれだって貧乏はいやです。娘を遊女になんて売りたくないです。
それだけにこうした政府による産業の育成と雇用の拡大は、どれだけ多くの日本人を救ったか計り知れないものがあります。
しかも当時は、国際的な軍事的緊張が高まっていたし、世界恐慌の脱出のために軍事費を増やしたことは列強各国に共通している政策だった。
一部の学者は、高橋是清が軍事予算を拡張したことで、インフレを招いたと指摘します。
しかし、本格的に軍需支出が増えだしたのは昭和12(1937)年以降のことです。
むしろ経済があまりにも順調に回復し、経済成長率が2ケタを回復したところで、高橋是清は財政の引締め政策に転換した。軍事予算を削ろうとした。
その結果、高橋是清は、軍部の反発をかい、昭和11(1936)年の2.26事件で殺されています。軍事費が本当に増えだしたのは、高橋是清の死後のことなのです。
また一部の学者は、高橋是清が地方の公共事業費を増やしたことについて「土木業者だけが潤った」と批判します。
しかしこれによって失業が減ったのは事実です。
一部の学者は、高橋積極財政出動によって、農村部の経済が上向かなかったことを指摘します。
しかし当時の農村は凶作続きで、これは財政問題とは異なります。
いまの日本では、リーマンショックに端を発する世界同時不況の中で、麻生内閣は積極的な財政出動を行い、日本経済の立て直しを図ろうと努力しました。
政権が交代し、新・鳩ポッポ内閣では、むしろ財政を緊縮しようとしています。
そして、麻生内閣が行った緊急予算編成も凍結しました。
これによって中小企業支援のための緊急融資保証枠も凍結です。
そこへかぶせるように、亀井金融担当大臣が、中小企業保護のために、支払を3年間凍結するという案を出しました。現総理も、これを追認しています。
その結果、いまや銀行はカネを貸しません。それどころか貸した金の返済を迫り、以降の融資を認めない。
どういうことかというと、今月の資金繰りに仮に500万円の借入をすると、来月には500万円を返さなければならない。
企業は500万円の支払いは厳しいから、返したあと、すぐまた500万円の融資を受けていた。
ところが3年間返済猶予となると、銀行にしてみれば、3年後も悠々と事業を営んでいる健全財務の企業にしかカネを貸せなくなります。
ところがいまのこの不況のご時世で3年後どうなっているのかなんて、誰にもわからない。
すでに不況のあおりで青息吐息になっている中小企業の財務は、どこも決して健全とはいえない状況になっている。
で、次の融資の決裁が降りない。カネを返すだけで、次の融資を受けれない。
一瞬にして中小零細は資金ショートです。
倒産、夜逃げ・・・・
なんとか生き延びたとしても、年末にはボーナスの支給があります。
本来は利益のなかからボーナスを支給しなければならないのだけれど、なかなかそうばかりは言っていられない。多くの中小零細は、ボーナス期には銀行から借り入れを行い、社員のボーナスを払っています。
このカネを貸してもらえない。
つまり多くのサラリーマンは、冬のボーナスがもらえなくなる。
政治なんざぁ所詮、政治家のお祭りだよ、と政治をバカにしていても、政治は常に庶民の生活に直結しているのです。
そういえば、地デジ対応がもうすぐです。
麻生内閣のときに、この対応のために総務省で地デジ説明員の大量雇用を計画しました。
全国のご家庭にあるテレビ。これが電波スタイルの変更によって、観れなくなる。
どうやていいのかわからずに混乱する人も多いことでしょう。
テレビは、麻生政権の批判ばかりしていたけれど、地デジへの移行がスムーズに行えなければ、多くの人々がテレビを見れなくなってしまう。そうなったらテレビ局はオシマイです。
だから麻生内閣では、地デジ説明員制度を開始し、全国で大量の説明員の雇用をしようとしました。
いま、それも凍結です。
すでに採用になった人たちも、財源がまだついていないので、給料を払ってもらえるかわからない。
清貧の思想というか「国民諸君とともにこの一時の苦痛をしのんで」などときれいごとをいう宰相のために、多くの若い女性が売春婦となった。
中小企業がバタバタと倒産し、国内には失業者がまん延した。
宰相が変わっただけで、わずか2年、たった2年で、日本の経済は大好況となった。
こうした歴史を、私たちはもういちど思い返してみる必要があるのではないでしょうか。
↓クリックを↓
人気ブログランキング
日本人が知らない朝鮮人レイプの実態

日本の心を伝える会では、いま会員の募集をしています。
登録無料!! ご入会は、
①ハンドルネーム
②お住まいの都道府県
③メールアドレス

の3つを書いて、assist@nippon-kokoro.com にメールするだけ。
ご入会受付後、メーリングリストへの招待メールをお送りいたします。
この機会に、あなたも是非、どうぞ^^♪