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沖縄・渡嘉敷島
赤松大尉01

大東亜戦争末期の昭和20(1945)年3月26日、沖縄諸島に米軍の総攻撃が始まりました。
その2日後の3月28日のことです。
沖縄・慶良間諸島の渡嘉敷島に上陸した米軍から逃げた多数の住民が、島北部の山中の谷間で手榴弾のほか、鎌(かま)や、鍬(くわ)などを使い自決するという事件が起こりました。
武器や刃物を持っていない者は、縄で首を絞めた。
肉親を殺害した後に自分も命を絶つ者もいた。
集団自決の死者、315人。事件は凄惨を極めました。
この事件は、戦後反日組織等によって恰好の餌となりました。
沖縄タイムス社は、集団自決が軍の命令で行われたと書き、作家の大江健三郎は、日本軍が集団自決を命令したのははっきりしている、などと書いています。
そして事件は神話となり、日本軍の命令によって集団自決させられた住民と、極悪非道な日本軍という構図で語られるようになっています。
この事件について、作家の曽野綾子さんが、「ある神話の背景・・・沖縄・渡嘉敷島の集団自決」という本を書いています。
以下はその本の抜粋です。
ある神話の背景
沖縄・渡嘉敷島の集団自決
曽野綾子著 文藝春秋
赤松大尉02

その夜は、まさに満月だった。 今のように電灯もない中、村人は、狂気に導かれていった。 以下は、当時、自決が行われた西山に向かって歩いた4名の女性の証言である。
A「あの時のみじめさったら、なかったです」
B「人より先に、楽に死んだほうがいいんじゃないねえ、と言ったですよ」
D「そのときに、多くの人が気狂いになったですね。おばあさんたちなんかは、うちのお母さんなんかも、気狂いのようにしてた」
A「みんなばかになって、全然、親も子もわからないぐらいになってたんです」
B「夢か何かわからんですね」
戦争、そして迫撃砲が落ちる中、人々は気が狂うようになっていった。
このような中で拳銃あるいは手榴弾を持っていたならば、それを使ってしまったとしても責められるものではないだろう。
B「夜が明くとき、ずっと山の上から、声が聞こえたけど、兵隊さんが言っているのか、自分が本当に聞いているのか、わからないわけですよね」
D「着いたのはね、私たちの着いたのは、夢のようで、誰にもわからない」
B「わからんね、ただ夢中だから」
C「ただ山を右往左往……」
そして、西山の自決の場所に集まるように言われたという。
曽野「自然、みんなそこに集まったわけですか」
D「自然に集って玉砕場に着いたから、みんな、明るいような感じでした」
曽野「それからどうなりました」
B「玉砕ですよ」(笑)
曽野「そこで誰かが《死ね》と言ったんですか」
A「わかりませんね」
B「自分たちは早く、もう、敵につかまるよりか死のう、死のうで、早く死んだ方がいいと思ってますよ」
A「軍から命令しないうちに、家族、家族のただ話し合い」
B「海行かば、うたい出して」
C「芝居みるように人を殺したですね、天皇陛下万歳も」
D「してみれば、これはみな不発になって来たから、もう、あっちこっちして《もう、私たちは何で死なないのかねえ》」
A「そのときからさ、もう斬り込みに立ったのは」
C「《敵に突っ込め》したから、子供はおんぶして走ってる」
このように、誰から命令されたわけでもなく、皆、気が狂ううちに自殺を遂げていった。
B「本部のところに、突っ込みにいったから《何であんた方、早まったことしたなあ》」
C「《誰が命令したねえ》」
D「《何でこんな早まったことするね、皆、避難しなさい》と言った。
だからうちの兄は、すぐきたからにまた、《皆、今、あまり早まったことだそうよ》と言って、それからまた、私たち反対方向に行って、また向こうから引率された。」
A「あの晩には、ひとがどんどん死によったですよ」
玉井「あのね、これも疑問だがね、皆騒いだからね、そこに撃ち込んだのはアメリカであるのか、アメリカの迫撃砲で撃ち込んだのか、日本軍があまり騒ぐので友軍が…」
玉井「こっちは迫撃砲を持っておったかどうかもわからないけれども」(注・この時、日本軍は迫撃砲を持っていなかった。)
これは、混乱と重圧の中に起きた悲劇であった。
以下は、隊の一人の証言である。
「皆、あの頃、集団自決なんて知ってたんでしょうか。
僕はそういう意識、全くありませんでした。
勿論、村の方で犠牲になった方があるのは知ってましたが、集団という感じでは僕自身みていなかったし、戦後、週刊誌が始めて書いた時、へえ、そんなことあったのかな、と思いました。
しかし、実感なかったですね。
僕ら下っ端は村の人に親しみを持っていたから、玉砕命令がでたなんでことわかったら、その点についてたちどころに上層部に反感を持つという形で記憶に残ったと思います」
実際、村人達は、手榴弾の使い方もわからずに不発弾だと決め込み、多くの人は手榴弾で死ぬことがなかった。
しかし、狂気の元、様々な自殺が図られたことは確かだ。
以下は、村に帰ってきた兵士が体験したことである。
「帰ってきてみると、家族がほとんど自決して死んでいたというような人もいるわけですよ。」
『村民の間に、一種の陶酔が充満していた。
肉親も殺し、自分も死ぬという異常な雰囲気があった』と言われたそうですが、死んだもののの家族にとっては、陶酔で死んだと言われても、とうてい納得できない。
そこで、どう説明したらいいかということになると、命令だった、ということが、一番はっきりわかってもらいやすい。その気持ちはわかるような気がしますね。
以下は、元隊員の証言である。
「始めにボクも、世間があんまりいろいろ言うから、隊長、ほんとのとこは何かやっとったんじゃないかな、と思う時もあったですよ。
ボクは阿波連という遠くの部隊にいましたからね。
しかしああいう騒ぎの中で、命令の伝達なんていうものは、正確に伝わる筈はないでしょうね。
人間は今みたいな静かな状態で命令を出したとか、それが伝わらなかったとか想像するんです。
しかしあの時は、敵に上陸されて、あらゆるものがひどい混乱の中にあった。
我々は陵線上にやっとタコ壺らしきものを掘って中で一糎でも体を低くしようとしているだけです。
整然と人間を集めて、ちゃんと自決命令を出すなんてことは、できなかったしする気にもならなかったんじゃないかな」
このように、事件は混乱の最中に起こったことであり、
「命令は出されなかった」と考えるのが最もであるように思える。
しかし何故、「自決命令」のような俗説が出てきたのであろうか?
以下は一説であるが、最も有力な説であるように思える。
・・・もし恐怖に駆られて死んだのだ、捕虜になることを恐れて、自ら死を選んだのだ、と言えば、それを戦死とは言えません、と役所は出てくるだろう。
しかし、年金は必要に決まっている。
「玉砕命令による集団自決」という表現は、確かに、一つの明確なものを持っている。
「玉砕命令による」という言葉の部分は正確かどうかは別としても、「集団自決」が行われたのは事実であり、それは戦争なしに惹気されたものではなかったのである。
そのような空気を考えると、昭和32~3年まで、渡嘉敷をめぐる周囲の空気が
「軍命令による玉砕」を主張することは、
年金を得るために必要であり、自然であり、賢明であったと言える。
以下は、元海上挺進隊長大尉赤松嘉次氏の証言である。
「軍が命令を下していないということを隊員があらゆる角度から証言したとなると、遺族の受けられる年金がさしとめられるようなことになるといけない、と思ったからです。
我々が口をつぐんでいた理由は一つそれだけです。」
「我々が悪者になっていれば済むのなら、それでいいという気持ちは皆にあったんじゃないですか。
遺族の方たちの気持ちを傷つけたくないという感じは誰もが持っているし。」
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この事件について、元琉球政府職員、照屋昇雄さん(82)が、CS放送「日本文化チャンネル桜」で、次のように証言をしています。
問:なぜ今になって当時のことを話すことにしたのか
今まで隠し通してきたが、もう私は年。
いつ死ぬかわからない。
真実をはっきりさせようと思った。

問:当時の立場は
琉球政府社会局援護課で旧軍人軍属資格審査委員会委員の立場にあった。
以前は新聞記者をしていたが、政府関係者から
「援護法ができて、軍人関係の調査を行うからこないか」と言われ審査委員になった。
私は、島民にアンケートを出したり、直接聞き取り調査を行うことで、援護法の適用を受ける資格があるかどうかを調べた。

問:渡嘉敷ではどれぐらい聞き取り調査をしたのか
1週間ほど滞在し、100人以上から話を聞いた。
問:その中に、集団自決が軍の命令だと証言した住民はいるのか
1人もいなかった。
これは断言する。
女も男も集めて調査した。

問:ではなぜ集団自決をしたのか
民間人から召集して作った防衛隊の隊員には手榴弾が渡されており、隊員が家族のところに逃げ、そこで爆発させた。
隊長が(自決用の手榴弾を住民に)渡したというのも、うそ。
座間味島で先に集団自決があったが、それを聞いた島民は混乱していた。
沖縄には、一門で同じ墓に入ろう、どうせ死ぬのなら、家族みんなで死のうという考えがあった。
さらに、軍国主義のうちてしやまん、1人殺して死のう、という雰囲気があるなか、隣の島で住民全員が自決したといううわさが流れ、どうしようかというとき、自決しようという声が上がり、みんなが自決していった。

問:集団自決を軍命令とした経緯は
何とか援護金を取らせようと調査し、(厚生省の)援護課に社会局長もわれわれも
「この島は貧困にあえいでいるから出してくれないか」と頼んだ。
南方連絡事務所の人は泣きながらお願いしていた。
でも厚生省が『だめだ。日本にはたくさん(自決した人が)いる』と突っぱねた。
『軍隊の隊長の命令なら救うことはできるのか』と聞くと、厚生省も『いいですよ』と認めてくれた。

問:赤松元大尉の反応は
厚生省の課長から、
「赤松さんが村を救うため、十字架を背負うと言ってくれた」と言われた。
喜んだ(当時の)玉井喜八村長が赤松さんに会いに行ったら、
「隊長命令とする命令書を作ってくれ。そしたら判を押してサインする」と言ってくれたそうだ。
赤松隊長は、重い十字架を背負ってくれた。
私が資料を読み、もう一人の担当が「住民に告ぐ」とする自決を命令した形にする文書を作った。「死して国のためにご奉公せよ」といったようなことを書いたと思う。
しかし、金を取るためにこんなことをやったなんてことが出たら大変なことになってしまう。
私、もう一人の担当者、さらに玉井村長とともに「この話は墓場まで持っていこう」と誓った。

問:住民は、このことを知っていたのか
住民は分かっていた。だから、どんな人が来ても(真相は)絶対言わなかった。
問:あらためて、なぜ、今証言するのか
赤松隊長が余命3カ月となったとき、玉井村長に「私は3カ月しか命がない。だから、私が命令したという部分は訂正してくれないか」と要請があったそうだ。
でも、(明らかにして)消したら、お金を受け取っている人がどうなるか分からない。
赤松隊長が新聞や本に「鬼だ」などと書かれるのを見るたび「悪いことをしました」と手を合わせていた。
赤松隊長の悪口を書かれるたびに、心が張り裂ける思い、胸に短刀を刺される思いだった。
玉井村長も亡くなった。
赤松隊長や玉井村長に安らかに眠ってもらうためには、私が言わなきゃいけない。

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沖縄渡嘉敷海上挺進隊赤松隊は、悲劇の夜を住民と共にしました。
海を覆うばかりの米軍。空爆。艦砲射撃。
艦砲射撃は、単に着弾とともにドカンと爆弾が炸裂するだけでなく、爆発と同時に、中に仕込まれた無数の金属片が、まるで包丁やカミソリの刃のように四方に飛び散った。
爆発から逃れるために、必死で逃げて、なんとか逃げおおせて、ふと背中の赤子を見ると、首がなくなっている。。。そんなこともあった。
島の形が変わるほどの壮絶な艦砲射撃。
防空壕の中に隠れていても、ドーン、ドーンという砲弾の音が聞こえ、着弾の都度、壕は震え、天井から土ぼこりが降ってくる。
それが24時間続く。
野が燃え、家が燃え、いままで築き上げてきたものすべてが燃えていく。
親しかった村の人たちが死んで行く。
そうしたなかで、多くの住民が追い詰められ、集団で自殺を遂げるにまで至った。
戦後、そのことを一部のジャーナリストが取り上げ、改ざんし、歴史をでっち上げたのです。
GHQのウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムが示した「日本=悪、アメリカ=善」の構図に従い、赤松隊はしてもいない「自決命令」を下したことにされたという背景も影響したことでしょう。
しかし、赤松大尉は、あえて反論しようとはしませんでした。
なぜでしょう。
戦争によって村人が大勢死にました。
それは事実です。
軍人としての責任感の強い者であればあるほど、村人たちを守れなかったという悔いは残ります。
「自分が悪者になりさえすれば村人が年金を受けられる」
汚名を受けたまま、赤松大尉は恥辱に耐え続けました。
自分が悪者になりさえすれば、すくなくとも生き残った村の人たちの戦後の生活は保証されるからです。
もし自分が、赤松隊の隊長だったらどうしたでしょうか。
島の防衛隊の隊長です。
島を命を賭けて守るのが職務です。
いくら武器に圧倒的な差があった、上陸兵力と極端な実力差があったとは言っても、島を守りきれず、多くの部下や島民を死なせたという事実からは決して逃れられない。
せめて、自分が「命令した」ことにすれば、生き残った島民のみなさんが、年金をもらえ、すこしでも生活の足しになるなら・・・
日本人の心を持つ者なら、誰でも、赤松大尉とおなじ判断をします。
汚名をひとりで背負う。
背負うことで、生き残った人々が、すこしでも生活が楽になるなら。
前出の照屋さんは、赤松大尉について、次のように語っています。
「赤松隊長さんは、村民からは、神様みたいな方だった。
非常にいい人。
私も、会ってみてそう思います。
悪いことを僕が引き受けましょうって。
いかに善い人であるかね、本当に十字架を背負ってね、
僕らは毎日手を合わせておりましたよ。
だってこの人に責任負わせて苦しめているでしょ。
新聞に赤松隊長の悪口見たりするとね、心が張り裂ける思い」
渡嘉敷村の歴史民俗資料館には、赤松大尉の軍刀や恩賜の銀時計などが丁寧に展示されています。
もし巷間言われるように、赤松大尉が“屠殺者”であるのなら、村人が展示を許すはずがないです。
赤松大尉を「渡嘉敷島民の集団自決を強要した」と断定して貶めた大江健三郎は、ノーベル文学賞をもらいました。
一方で、生涯をかけて、死ぬまで島の人々を守り抜いた赤松嘉次少佐(当時大尉)は、プロや反日左翼の標的となり、誹謗中傷を受け続けながら、昭和55年他界されました。
無責任にデタラメを書いてノーベル賞をもらう人と、重荷を背負いながらも生涯をかけて沖縄を守り通した軍人、人として尊敬されるべきは、どちらでしょうか。
戦後の売国左翼や反日・侮日者たちは、戦後60余年にわたり、赤松大尉の誠実な思いや行動、島の住民たちの悲痛な叫びを、利用主義的に利用し、故意に貶め、名誉を汚し、恥ずかしめ続けました。
しかも「集団自決は軍の命令であった」と教科書にまでそれを掲載し、わが国の子供たちに侮日・反日思想を故意に植え付けました。
事情を知らない戦後の多くの日本人は、彼らの宣伝によって、ずっとそうだったのかと思いこまされ、事実から目をそらされ、無批判にそれを受け入れてきました。
けれど、事実関係かこれだけ明らかになりながら、戦後左翼や反日家たちが、この件についてお詫びをしたなどという話は、ついぞ聞いたことがありません。
それどころか、命を賭けて戦った人たちに対して、彼らは戦後60年以上にわたり、唾を吐き続け、いまだに、なんらその態度を改めようとしていません。
ほんものの善神は、ときに鬼神のごとく見え、
ほんものの邪神は、つねに善神を装うといいます。
わたしたちの戦後の64年は、もしかしたらその邪神に騙され続けた64年だったのかもしれません。
赤松嘉次大尉を立派であった!と思う方
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渡嘉敷島集団自決の軍命令はウソ