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日露戦争の日本兵たち
日露戦争の日本兵

「歩兵の本領」という歌があります。「歩兵の歌」ともいいます。
この歌の歌詞に、
♪万朶の桜か襟の色 花は吉野に嵐吹く
 大和男子と生まれなば 散兵戦の花と散れ
♪アルプス山を踏破せし 歴史は古く雪白し
 奉天戦の活動は 日本歩兵の粋と知れ
という一節があります。
ここに出てくる“奉天戦”。
ちなみに、世界史に残る有名な歩兵大会戦といえば、ナポレオン最後の戦いといわれる“ワーテルローの戦い”(フランス軍12万、英欄プロイセン連合軍14万)。
この戦いでナポレオンはプロイセン連合軍に敗れて、皇帝を退位。英国への亡命を断られ、セントヘレナ島に流されます。
もうひとつ有名な大会戦といえば、“セダン戦争”があげられます。
トヨタ・クラウンと、ニッサン・セドリックの戦いではない^^b
1870年の普仏戦争で、フランス(12万)とプロイセン(20万)との間で行われた大会戦です。
どちらの戦いも、欧米人と話すときは、一般常識。知らないとバカにされるらしい(笑)
ところが、日露戦争の“奉天戦”は、この2つの戦いを衝突した兵力の点でも、戦の激しさの点でも、この2つの大会戦をはるかに凌駕する、すさまじい戦いだった。
“奉天戦”は、大日本帝国陸軍とロシア軍の間に繰り広げられた、人類史上最大の大歩兵戦だったのです。
そして、この戦い以降、これを上回る規模の大会戦というものは、世界史上皆無となっている。
私たち日本人は、世界史に冠たる大会戦を、正々堂々と真正面から戦った。そして勝利した歴史を持っている。(なぜか、そのことはまるで学校で教えられないですけどね^^;)
奉天戦に両軍が投下した兵力は、
 日本軍  25万人
 ロシア軍 31万人
なんと、合計56万人が、満州の荒野で衝突しました。
日本軍の総指揮官は、先般ご紹介した大山巌
ロシア軍の総指揮官は、アレクセイ・クロパトキン。
クロパトキンは、日本との戦いに勝利するため、なんと100万人の歩兵に動員令を出し、満州から朝鮮半島までをいっきに切り取る体制で迫ってきた。
開戦当時のロシアの国力と日本のそれを簡単に比較してみます。
ロシア   日本
面積 2500万平方キロ 37万平方キロ
人口 1億3千万人 4600万人
歳入 約20億円 約2億5千万円
兵力 約300万人 約20万人
要するに日本は、自国の国力を10倍近くも上回る大国ロシアに戦いを挑んでいた。
ここで気をつけなければならないのが、開戦時点の日本軍の兵力20万人で、奉天戦時の日本軍25万・・・・一見すると日本軍の数が増えてます。
実は、この奉天会戦の前に、有名な二百三高地における旅順要塞の攻防戦があった。
二百三高地
二百三高地

旅順港には、ロシアの太平洋艦隊がいる。
このロシア太平洋艦隊に、世界最強を誇るロシア大西洋艦隊(バルチック艦隊)が合流したら、ロシアの海上戦闘力は、日本の2倍。
砲門の数がものをいう艦隊決戦で、これでは日本にまったく勝ち眼がない。
そこで日本は、事前に旅順にいるロシア太平洋艦隊を、先に、どうしても叩かなければならなかった。
ところが、旅順港に立てこもるロシア艦隊を、高地にあるロシア旅順要塞がしっかり守っている。
船は揺れる海上から大砲を撃つから、なかなな砲弾が当たりにくいけれど、もし日本陸軍が旅順要塞を陥落してくれれば、その要塞からロシア艦隊を善船、撃沈できる。
そこで乃木希典を大将として挑んだのが有名な“旅順要塞攻略戦”です。
もともとロシアは、南下政策で満州、朝鮮半島の植民地化を狙い、その勢いで樺太・北海道ルートから日本をモノにしようとしていた。
三国干渉によって日本から強引に山東半島をゲットしたロシアは、さっそく半島にある旅順港を軍港として使用し、ロシア太平洋艦隊を送り込むとともに、これを守備し、南下政策の要として、当時の技術としては、最高水準の難攻不落の大要塞を、二百三高地に建設した。
乃木大将率いる第3軍は、1904年8月、砲術の専門家伊地知参謀長の作戦のもとに、この要塞に向け、二日間にわたって大砲を撃ち込み、3日目、歩兵部隊による総攻撃を行った。
ところが、最強を誇る要塞は、ロシア兵の立てこもるトーチカとも、日本の砲門にまるで、無傷。
突撃する日本軍は、ロシア軍の機銃に晒され、将兵は次々に倒れて行った。
連続6昼夜。
味方の兵士の死体を乗り越えて、さえぎるもののない丸裸同然で、ほぼ白刃突撃に近い特攻を繰り返して山道を駈け登る日本兵。
ロシア兵は、ただ集団で突撃してくる日本兵を機銃で餌食にするという光景が、繰り返された。
日本は、この第一回総攻撃で15,800名の死傷者を出した。
日本から増援を得た攻撃部隊は、さらに9月、11月と、攻撃を繰り返す。
機関銃の前に、ただ白刃突撃するだけの攻撃。
第一回(8月)、第二回(9月)、第三回(11月)、都合三回の攻撃で、日本が失った将兵は、合計で24,130名。
ロシア要塞側は、前進保塁群を失ったものの、ほぼ、無傷。
この3回の総攻撃において、自軍の将兵を目の前で失った乃木大将は、我が子までをも失い、そのつらい気持ちを抱えて、後背地にある作戦本部をひとり抜け出し、敵弾の届く最前線へとひとり向かいます。
死にたかったのでしょう。
敵の弾丸が飛んでくる前線で、その姿を見つけた日本の兵士が、「大将をお守りしろ~!」と乃木大将を取り囲む。
その姿を目撃したロシア兵が、そこに機関銃を撃ちこむ。
目の前で味方の兵士たちが血まみれになって斃れる。
それでも大将をお守りするのだと、必死で乃木を囲み、後退する兵士たち。
そこへもさらに敵、銃弾が襲いかかる。
逸話があります。
日本側の総攻撃と総攻撃の間の時間、日露、双方が休戦時間を設け、高地の将兵の遺体を片付ける時間を設けた。
このとき、ロシア側も人を出し、一緒になって高地のご遺体の片づけを手伝っています。
一緒に作業するロシア兵と日本兵。
身長190cmにもなる大柄なロシア兵と、平均身長160cm程度の小柄な日本兵が、一緒になってタバコを分け合い、吸っているシーンなどの写真もいまに残されています。
戦いは戦い。されど、戦いを離れたら同じ人間として普通に交誼する。
そういう心のゆとりというものが、当時はまだ、あったのですね。
さて、そもそも奉天で大決戦を行おうとする日本陸軍にとって、旅順の要塞ひとつに拘泥し、多くの将兵を失うという事態は、とんでもないことです。
そこで12月1日未明、奉天にいた児玉源太郎が、満州鉄道を使って大連駅に到着します。
ちなみにこの大連、いまこの文をお読みの方が、もしDELLのパソコンをお使いなら、そのDELLの日本向けコールセンターがあるのが、大連です(笑)
大連駅に到着した児玉大将は、すぐに乃木大将と会見。
そして敵の弾の届かない後背地で、作戦指揮を採っていた参謀達の部屋にはいると、いきなり、
「貴様ら、なにをやっちょるかぁ~!」と大声で参謀達を叱りつけます。
そして児玉は、その場で、あらかじめ手配していた28センチ榴弾砲を、敵の目の前の最前線に移動することを命じます。
この28センチ榴弾砲というのは、東京・お台場に据えてあった、大砲です。
東京湾に敵艦船が侵入してきたとき、これを打ち破るために、当時の日本が、東京湾に出島(お台場)を作り、そこに備え付けてあった当時としては最大級かつ最強の大砲です。陛下をお守りするための、日本としては極めて重要な大砲だった。
それを児玉は参謀本部に掛け合い、お台場から外させると、強引に旅順に運ばせた。
28センチ榴弾砲は、児玉が到着する前に、すでに第3軍に到着していたものの、第3軍の参謀たちは、陛下をお守りするための28センチ榴弾砲が、敵に奪われる不名誉を畏れたといいます。突撃して亡くなる将兵よりも、28センチ榴弾砲を奪われることを畏れた。彼らは、これを軍の最後尾に配置し、遠くからロシア側の砲台を狙った。
しかし、砲は、遠くからではなかなか当たらない。
28センチ榴弾砲
28センチ榴弾砲

児玉は、到着するや否や、この28センチ榴弾砲を、軍の最前線に運ばせます。
そしてる間段なく、最大威力の28センチ榴弾砲弾を、敵の主要砲台、機関銃発射台へ向けて撃ち込ませた。
約1時間後です。
たった1時間後です。
敵の主要砲台、日本の将兵の妨げとなっていた敵の機関銃が、ことごとく榴弾によって破壊され、沈黙します。
9時10分。
日本の歩兵部隊が突撃を開始。
ロシア軍の反撃もすさまじかったけれど、夕方には日本軍は完全に203高地を占領した。
激戦の最後の頃、9月から3か月間、味方・戦友たちをただ撃ち殺され続けたロシア兵のもとに日本の将兵が到達すると、日本の将兵は、手にした銃を撃つのも忘れ、ロシア兵に飛びかかって行く者もいたといいます。
武器なんかじゃない。
コノヤロー、俺の戦友を殺しやがって!
組み付き、噛み付き、涙を流しながらロシア兵をぶん殴ぐる者もいた。。
要塞が陥落すると、児玉は、すぐに持っている全砲門を、203高地山頂に運ばせます。
28センチ榴弾砲とかね、めちゃくちゃ重いのです。
その重い大砲を、生き残ってくたくたに疲れているはずの日本の将兵たちは、大声で掛け声をあげながら、丘の上まで運びあげます。
よ~いしょ、よ~いしょ!
俺たちは勝ったんだ!、あとは、一刻も早く、いくさの目的の旅順港の敵艦隊をやっつけなければ!
兵士たちの汗と涙にまみれた大砲が、丘の上に到着します。
当時の艦船は、石炭船です。
出航するまでに、ものすごく時間がかかる。
まさか、わずか半日で要塞が陥落するとは思っていなかった旅順港のロシア艦隊は、慌てて乗員を船に乗せ、港を出ようと準備します。
船の出港準備がまだ整わないうちに、丘の上から日本の攻撃が始まります。
揺れる船からの大砲攻撃と異なり、揺れない地上からの攻撃は百発百中です。
これにより、ロシアの太平洋艦隊は壊滅します。
しかし旅順要塞攻略には後方関係を含め、延べ約13万人が参加し、戦死者15,390名、戦傷者43,914名、計59,304名もの犠牲を出した。
ただでさえ、日本軍の将兵の数はロシアの15分の1しかない。
旅順要塞攻略のために大量の戦力を割かなければならなかった日本軍は、急きょ徴兵並びに義勇兵を募った。
奉天に向けられた日本の戦力25万は、正規軍ではあったけれど、かなりの人数は、急ごしらえの兵士たちでもあった。
奉天のロシア大将クロバトキンは、すでにロシア本国に100万の大軍を要請しているとの報もはいってきている。
日本陸軍としては、ロシアの戦闘準備が整うより前に、1日も早くロシア陸戦隊を叩いておかなければならない。
そうして始まったのが、1905年2月にはじまる奉天戦です。
日本軍は、はじめ乃木第三軍より編入された四国善通寺第11師団と後備第1師団が、清河城にこもるロシア軍への攻撃を開始した。
ところが第11師団は、現役兵師団ではあったけれど、旅順攻囲戦によって現役兵を大量に失い、兵のほとんどが応召兵。
日本側は、得意の夜襲をかけるのだけれど、逆にロシア軍から夜襲を受け戦いは膠着状態に陥った。
3月1日になると、日本軍は奉天に対する包囲攻撃を開始する。
当初日本軍は、ロシア軍の左右を攻撃し、手薄になるはずの正面に大規模な攻撃をしかけようとした。
そのために、カノン砲や、旅順から運んできた28センチ榴弾砲までも導入して盛んに攻撃するのだけれど、満州の厳寒によって地面が凍っていたため砲弾が弾かれ、せっかくの砲弾が役にたたない。
しかも、悲しいかな、砲弾のための黒色火薬も、旅順要塞攻城戦で使い果たしており、量がまるで足りない。
戦いが膠着状態になると、満州軍総司令部は作戦変更を行い、ロシア軍右翼の側面に回り込むために迂回を続ける第三軍に対し、さらに大きく奉天を迂回・包囲してロシア軍退路を遮断するとともに奉天を攻撃するよう命令する。
一方、ロシア軍の総司令官クロパトキン大将は、旅順を陥落させた乃木第三軍を過大評価しており、当初ロシア軍左翼を攻撃した鴨緑江軍を第三軍と勘違いして、これに対して大量の予備軍を派遣。
ところが、ほんものの第三軍は、ロシア軍の右翼にいると知って、左翼の応援に送った予備軍をまたさらに右翼(乃木第三軍正面)へ転進させるという命令の変更を行った。
乃木軍の将兵は、このときわずか3万8千人。これに対しクロバトキンは、10万の兵力を指し向けて応戦する。このとき、乃木の第三軍は、ロシア10万の軍勢に、一歩もひるまず、実に見事に対等以上の戦いをしたといいます。
ロシア軍は、初戦の混乱から少しづつ勢力を盛り返し、むしろ戦力の中央集中化を図ることで、戦いを有利に進めようとします。
このため、ロシア軍側面に打撃を与えるはずの秋山支隊が、敵正面にでることになってしまう。
遊撃を得意とし、軽騎兵を戦力とするこの秋山支隊が壊滅すると、日本軍は壊滅してしまいます。
ロシアの猛攻撃の前に、銃を捨てて逃走する日本兵の姿すら見られる状況となり、このとき日本軍は絶体絶命の状況となった(大石橋の惨戦)。
日本軍作戦室は、この報に接して大混乱となる。
このときの話が、先日アップした「大山巌の伝説」となっています。
大山巌の見事な指揮ぶり、そして参謀達の冷静な対応は、後年、同じく陸軍大将のマッカーサーの大のお気に入りともなり、マッカーサーは、世界の陸軍軍人で、最も尊敬する人物は、大山巌であると答えていた。
大山大将の見事な指揮に、冷静さを取り戻した児玉源太郎満州軍参謀長は、間髪をいれず、作戦全体を見直します。
腹心である松川敏胤大佐と図り、第四軍と第二軍に奉天への前進を指令した。
3月9日、ロシア軍の総帥クロパトキンは、日本軍によって奉天が包囲されつつあることを知ります。
包囲は、全滅の危機をも意味する。
クロバトキンは、兵力にまだ余力のある状態で、総撤退を開始します。
第四軍はロシア軍を追撃。2個師団に大打撃を与える。
日本側の死傷者7万。
ロシア側死傷者9万。
ロシア軍の将兵は、士気を失います。
軍隊秩序が失せ、略奪、上官への背命など、軍隊としての体をなさないまでに崩れてしまう。
そのためクロパトキンは、哈爾浜に逃れ、ここで敗戦の責任を取らされ罷免。
これにより、ロシアのシベリア陸戦隊は、事実上壊滅状態となった。
しかし、巨大な大会戦を戦った日本も、すでに補給線は伸び切り、物資の補給もままならず、本国からの兵士の補充も限界。
最後まで戦いを繰り返した乃木第三軍は、損耗率が6割にも達し、兵の補充の予定すら立たない。
軍全体をみても、少尉から大尉クラスの下級将校の欠乏は目を覆わんばかりであり、開戦当初に配属されていた士官学校出身の現役将校は大量に損耗。
大部分の将校は、速成教育しか受けていない者や、予備役から召集された者ばかりとなり、前線での指揮も満足に取れない。
また、たった一日の行軍で体力を消耗してしまう老齢の兵士も多く存在する状態となっていた。
日本軍は、奉天会戦後は、ほとんど活動できないまでになっていた。
この現実を前に、大山巌大将は、児玉源太郎と協議し、児玉を急ぎ東京へ戻して戦争終結を具申した。
目先の勝利に浮かれあがっていた中央の陸軍首脳はあくまで戦域拡大を主張したけれど、日本軍の継戦能力の払底を理解していた海軍大臣山本権兵衛が児玉の意見に賛成し、ようやく日露講和の準備が始められることとなった。
日露の講和に積極的に協力してくれたのが、アメリカ合衆国大統領であり、米・共和党党首であったセオドア・ルーズベルトです。
彼は、駐露大使のマイヤーに訓令を発し、ロシア・ニコライ2世に謁見させます。
しかし、ロシア宮廷は、「いまは大西洋にいるバルチック艦隊が思い上がった日本に鉄槌を下すであろう」という希望的観測から講和を渋った。
バルチック艦隊が日本海軍を破ると、満州にいる日本陸軍は孤立します。そうなると、すでに疲弊している日本軍に勝ち目はない。
強気のニコライ2世の前に、いったんは日露講和は頓挫してしまいます。
ところが、5月の日本海海戦において日本海軍が完勝すると、米国SD・ルーズベルトの調停によって、9月、休戦が成立。
10月、ポーツマス条約が批准され、日露戦争は終結します。
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いやはや、ここまで、いっきに書いてしまいました^^;
てか、書きだしたときは、こういうストーリーではなかった(汗)
7月に日清戦争を書いたので、今回は、実は日露戦争がなぜ起こったかの開戦経緯を書こうとしたのです(笑)
それが、なぜか戦記になってしまいました^^;
だいぶはしょって旅順戦から奉天戦まで書いたので、(日本海海戦はたった1行・・・OLZ)
日露戦争にお詳しい方は、物足らなさをお感じになるかもしれません。
ただ、明治日本というものが、ほんとうに国力の必死の力を振り絞って戦っていたのだ、そのことを今回の稿でご理解いただければと願うばかりです。
日露戦争の原因は、いまどきの教科書は「ロシアの南下政策に対し、日本が大陸での利権確保を狙ったもの」などと説明されているようです。
しかし、そうではない。
日本は、露独仏の専制・無知・反動に対し、東亜に自由・啓発・進歩・平等を定着させ、東亜の安定を平穏を図ろうとした。
そのための戦いだった。
日本の将兵は、強大なロシア兵に戦いを挑みました。
旅順要塞攻防戦では、日本軍の将兵は、ロシアトーチカの機関銃攻撃の前に、まる裸同然で飛び出して行って、ただやみくもに死体の山を築くという、すさまじい戦いをした。
死ぬとわかっている白たすき隊までも編成し、全滅させた。
兵士たちは、命令されたから死んだと、いうのは大きな間違いです。
もし、ただ犬死だけを強制されて死ぬのならば、兵士の間には、当然乃木希典大将に対して、怨嗟の声があがったし、乃木大将が最前線に現れたからと、敵の銃弾から大将の身を守って死ぬ兵士なんてのもいなかった。
いまの日本人も、当時の日本人も、同じ日本人なのです。
わたしたちと同じ、赤い血が流れている。同じ考え、同じ心を持っている。
誰だって、死ぬのは怖いし、いやです。
そのことは、当時もいまもなんにも、なんにも、なんにも変わっていません。
それでも、自分が撃たれても、「お国のためだ、かまわずに、遅れてくれな」と戦友を先に行かせた日本の将兵の心にあったことは、自分たちが「なんのために戦っているか」、そのことの意義を、日本の将兵みんなが理解していたということなのだと、ボクは思うのです。
ただ命令されて死ぬんじゃない。
自分が、ここで戦って死ぬことで、お国を守ることができる。
故郷(くに)にいる姉ちゃんや、母ちゃんを守ることができる。
先に死んだガキ大将の太吉のカタキをとってやることができる。
うちの女房はいま妊娠5カ月でさ、来年1月には子供が生まれるんでさ。おいらの子がロスケの野郎にむごたらしくやられちまうようなことがあったら、おいら、死んでも死にきれねえ。
だから、大将、おれたち、なんでもするから、命令してくれよ。
この命なんぞ、くれてやらあ。
けど、きっと、きっと、最後は勝ってくださいよ。
きっとですよ。大将!
亡くなられた、兵士たちの思いは、ボクにはそういうことだと思える。
彼らの死は、だから決して犬死なんかじゃない。
お国のために尊い命を犠牲にされて、必死に闘ってくれて、そのおかげで、いまボクたち日本人はこうして生きている。
日本という国に住み、日本語を話し、平和な毎日を送っている。
そういうことを、ボクたちは、絶対に忘れてはいけないのだと、思うのです。
亡くなられた英霊たちに感謝!と思う方
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明治37-38年(1904-05) 日露戦争 陸戦編

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