
愛国心というのは、自分がが育った、あるいは所属する社会共同体や政治共同体などに対して愛着ないし忠誠を抱く心情をいうと定義されています。
いってみれば、きわめて素朴な国を愛する心です。
親や子を愛する、友を愛する、恋人や家族を愛する、みずからの所属するスポーツチームを愛する、学校を愛する、会社を愛する、故郷を愛する、国を愛する、人類を愛する。
だから、人を愛することのできる者は、国を愛することができる。
愛の深い者は、ひとしく深い愛で、国を愛することができる。
逆に、国を愛するな、といえば、国を構成しているすべての人までも愛せないことになる。
故郷も愛せず、友も愛せず、家族や恋人、親兄弟も愛せない。
そして愛を失った人々は、世話になった恩人の愛を忘れ、恩人への感謝の思いすら忘れ、英霊たちへの感謝すら忘れる。
愛は、感謝とも通じるものなのです。
戦後日本のサヨクは、日本が戦争を起こすに至ったのは盲目的な愛国教育によるものであると主張した。だから愛国教育に通じるすべてを否定した。「お国のために」という言葉そのものまでもタブー視された。
教育現場では、日の丸掲揚・君が代斉唱を行うことに反対し、あたかも“反日であることが正義”であるかのような曲折した教育が行われてきた。
そして愛国心に変わるものとして提唱されたのが、個人主義。
愛国心が集団的愛を説くものとするならば、個人主義は、あくまで自己愛だけを強調する。
他人に迷惑さえかけなければ、自分はなにをやってもいい、という考え方です。
この考え方は、そのまま、他人に“バレなければ”なにをやっても良い、という考え方に行きつく。
平素はまじめな学生を演じているけれど、先生や級友たちの見ていないところならば、特定の生徒をいくらいじめてもよい。バレなければいいのです。
そしてもしバレても、集団でいじめをすれば、特定の“誰”は消えてしまう。
いじめをやったのは個人であり、すくなくとも、バレたいじめに自分が関与していなければ、自分へのペナルティは免れることができる。
昔の愛国教育のもとでは、考えられないことです。
愛国教育のもとでは、人は常に連帯責任を負う。
生徒のなかの誰かがいじめをして、誰かが泣いていたら、クラス全員が連帯責任です。
やっていようがやっていまいが、全員が罰せられる。
人が見ていようが見ていまいが、常に自らを律して“正しく生きる”ことが求められる。
そして“正しい”とは何かが、教育勅語によって、あらかじめきちんと教育される。
原理原則としての教育勅語があるから、何か問題が起こったときに、生徒同士で、自分たちのどこがどう誤りだったのかを、きちんと考えることができた。
昨今では、学校の教師が、道徳は生徒に自分たちで考えるように指導しているというけれど、基本となる判断のモノサシもない生徒に、“考えなさい”といったところで、混乱するだけです。
下に動画をご紹介します。
たかじんの「そこまでいって委員会」の8月9日放送分です。
前半が「愛国心」、後半は、「核」について議論しています。
田母神さんもご出席されている。
1~7まであります。
すべての動画を張ると、画面が重たくなるので、№1だけを張り、その余は、該当のYOUTUBEのページのURLを張っておきます。
後半で、サヨクの大物さんが出てきますが、議論の様子をご覧いただくとわかりますが、自分が言いたいことは、言うけれど、反対意見に対しては「うるさい!黙れ!」(笑)
要するに人のいうことを謙虚に聞けないのがサヨクなのかもしれませんね。
日本は愛国心を取り戻そう!と思う方
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内容が内容だけに、いつ削除されてしまうかわからない動画です。
お早目のご視聴を♪
続きは以下をクリックすると開きます。
たかじんのそこまで言って委員会2009年8月9日 №2
たかじんのそこまで言って委員会2009年8月9日 №3
たかじんのそこまで言って委員会2009年8月9日 №4
たかじんのそこまで言って委員会2009年8月9日 №5
たかじんのそこまで言って委員会2009年8月9日 №6
たかじんのそこまで言って委員会2009年8月9日 №7

