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アッツ島に残された日本軍守備隊の写真
アッツ島

先の大戦では、多くの戦場で日本の将兵が「玉砕」の道を選びました。
「敵は幾萬」とい軍歌には、
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敗れて逃ぐるは國の恥
 進みて死ぬるは身のほまれ
瓦となりて殘るより
 玉となりつつ砕けよや
畳の上にて死ぬ事は
 武士のなすべき道ならず
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という歌詞があります。
この歌は1886年(明治19年)の歌です。
この歌詞にあるように、玉砕は武士道の一端という見方もあります。
東条英機氏の戦陣訓には「生きて虜囚の辱めを受くることなかれ」とあることから、日本の将兵は、敵兵の捕虜となることもできずに、貴重な人命を犠牲にされた、というように書く人もいます。
そして勝てる見込みも、救済できる見込みも、敵に大きな兵力的損害を与える見込みもない中で、大勢の味方の人命が確実に喪失する玉砕戦は、しばし、大本営や日本軍の人命軽視の象徴のようにいわれることが多い。
大東亜戦争における玉砕戦には、以下のようなものがあります。
おいおい、ひとつひとつの戦いの検証もしていきたいと思いますが、どれも悲しい戦いであったことは事実です。
1943年5月29日:アッツ島守備隊玉砕
1943年11月22日:ギルバート諸島マキン・タラワ守備隊玉砕
1944年2月5日:マーシャル諸島クェゼリン環礁守備隊玉砕
1944年2月23日:マーシャル諸島ブラウン環礁守備隊玉砕
1944年7月3日:ビアク島守備隊玉砕
1944年7月7日:サイパン島守備隊玉砕
1944年8月3日:テニアン島守備隊玉砕
1944年8月11日:グァム守備隊玉砕
1944年9月7日:拉孟守備隊玉砕
1944年9月13日:騰越守備隊玉砕
1944年9月19日:アンガウル島守備隊玉砕
1944年11月24日:ペリリュー島守備隊玉砕
1945年3月17日:硫黄島守備隊玉砕
1945年6月23日:沖縄守備隊玉砕(指揮官の自決により組織的戦闘終了)
このほか、はじめから死ぬことを前提に出撃する特攻や、単騎出撃した戦艦大和の例もある。本土決戦、一億総玉砕といった言葉もある。
しかし本当にそうなのでしょうか。
日本の将兵は、ただ命令があったから、ただ命を軽視されたから玉砕したのでしょうか。
ただ戦陣訓に書かれていたから、それで命を捧げたのでしょうか。
そんな簡単に死ねる?
ぼくにはどうにも、納得ができないのです。
もし、あなた自身が、徴兵され、戦地にいたとして、意味もわからず上官から玉砕せよ!と命令されたら死にますか?
指示・命令だけで死にますか?
会社の社訓に「恥ずかしめをうけないようにしなさい」と書かれていたら死にますか?
日本人の心というものは、いまも昔も、変わりはありません。
死ね、といわれて「はい、そうですか」と簡単に死ねるほど、人は簡単な生き物じゃない。
生に対する執着は、いまもむかしもかわりなどありません。
あなたは死を選ぶかもしれない。では、あなたの周りの同僚の方々はいかがですか?
人間、そんなに簡単に、命令だからといって死ねるものではないです。
上官の命令だから「やむなく」従っただけというのなら、その上官が死んだら、自分はさっさと降伏し、戦いを放棄して逃げ出す。それが人間というものの普通の行動です。
実際大陸での昔の戦争や、シナ兵などの行状をみると、背中から銃を突きつけられてやむなく戦わされていた徴用兵(一般市民から徴用された者)は、戦線の敗色濃厚となったとき、クモの子を散らすように逃げ出した。それどころか、敗色濃厚になったら、真っ先に逃げたのは、後ろから銃を突き付けていた兵士たちです。
上に記した各玉砕戦でも、米軍は日本語で、再三、投降を呼び掛けています。
戦後の学者やマスコミは、日本の兵士は、指示や命令で玉砕を余儀なくされた、と説くけれど、そんなことは、はっきり申し上げて不可能です。
可能だとおっしゃるなら、あなたが、部下に「いますぐに車の前に飛び出して死んでこい」と命令してみてください。
あるいは、あなた自身が、上司からそう命令されたとして、即座に「はぁい♪」と命令を聞きいれ、車に跳ねられて死ぬことができますか?
「平時と戦時は違うよ」という人がいるかもしれない。
戦時だから死を選んだ?
ならば戦地ならあなたは上官も指揮官もいなくなったあとで、突撃しますか?
そこにいる全員が、死を選びますか?
諸外国の兵士たちは、戦局不利が明白になったとき、わりと簡単に投降しています。
では、日本兵だけが特殊だったのですか?
いまこれを読んでいるあなたも日本人です。ではあなたは、上司の命令とあれば、死を選びますか? その上司がいなくなったあとも、ひとりのこって戦って死ぬことを選びますか?
人間、そうそう簡単に死ねるものではないです。
玉砕戦というのは、日本だけのものではありません。
守備側が降伏を拒否し、全滅するまで戦ったものとしては、
テルモピュライの戦いでのスパルタ軍の全滅。
マサダ砦でのユダヤ人の全滅。
アラモの戦いでのテクシャン反乱軍の全滅など、海外にもいちぶその例はあります。
しかし先の大戦のように、日本軍の守備隊が、ことごとく玉砕戦を戦い抜いたという例は、世界史に例をみません。
なぜでしょう。
どうして日本兵は、そこまでして最後の一兵まで戦い抜いたのでしょう。
ひとつには、捕虜となったときの敵の残虐さへの恐怖があった・・・これも事実でしょう。
ご紹介した通州事件や、尼港事件など、敵の残虐さは枚挙にいとまがない。
でもね、愛する人、愛する家族や、恋人、友のいる祖国をね、守るために自分たちがそこにいて、守備隊をしていて、ここで一日でもいいから敵をくぎ付けにしたら、もしかしたら愛する人の命を、ほんのいちにちでもひきのばすことができる、そう思ったら、あなたは戦いませんか?
自分は、ここで死ぬかもしれない。でも、ここでいちにちでも長く敵をくぎ付けにしたら、愛する人がいちにちでもながく生きられるかもしれない。
自分たちが最後の一兵まで戦い抜くことで、日本畏るべし、という印象を敵に与えることができたら、なんとか早期に講和して、愛する人の命を守ることができるかもしれない。
上官の命令なんかじゃないです。
上官に指示されたから死ぬんじゃないです。
戦陣訓なんて関係ないです。
日本の兵士たちは、ひとりひとりが強烈にその思い・・・愛する人を守りたい、愛する人のいる祖国を守りたいという思いがあったから、みんなが死ねた。
日本の将兵は、そのために玉砕戦を戦い抜いた。
補給もない、食べるものも、飲み水さえもない中で、命を懸けて戦った。
それは、祖国にいて生き残る者たちのためであり、未来のわたしたちのため。
そのために、日本の軍人は、ひとりひとりが最後の一兵まで戦い、散って行かれた。そういうことなのだと、ボクは強く言いたいのです。
戦後を生きている私たちの命は、そうやって散って行かれた200万の英霊に守られた。
そして私たちに託された未来は、人々が平和であかるく、そして誇り高く生きることなのだと思います。
そのことを、わたしたちは、いまいちど胸に手を当てて、しっかりと考えてみなければならないときにきているのではないでしょうか。
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KAMIKAZE ~或る特攻隊員の手記~

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