米ニューヨークタイムズの電子版が、8日、
「韓国の元慰安婦のグループが、1960年代から80年代にわたって米兵との性的行為を強制されたとして、当時の政府指導者に謝罪と賠償を求めて告発した」と報じました。
このグループは組織的な慰安施設の設置に直接的に関与したとして、米軍と韓国政府をあわせて告発したのだそうです。
関連記事:韓国人元慰安婦、韓国政府と米軍を告発 NYタイムズ紙
日本相手に従軍慰安婦問題が大成功したから、今度はアメリカ相手にいっちょやってやろうという意図が見え見えな気もする報道です。
ところで、わが国における従軍慰安婦問題について、すこし振り返ってみたいと思います。
そもそも従軍慰安婦問題というのは、どのような経緯で問題視されるようになってきたのでしょうか。
ことのおこりは、終戦後32年も経過した1977年に、吉田清治という文筆家が、『朝鮮人慰安婦と日本人』という本を新人物往来社から出版したところから始まっています。
吉田氏はその本の中で、「第二次世界大戦中に日本軍人が朝鮮の女性を強制連行し慰安婦にした」と記し、その6年後の1983年に、いわゆる従軍慰安婦問題の発端となった『私の戦争犯罪ー朝鮮人強制連行』という本を上梓しました。この本の中で、吉田氏は自身が「慰安婦狩り」というのを行い、一週間に205人の女性を強制連行したと告白をしています。
ところが後に、「慰安婦狩りを行った」という証言について、現代史家・秦郁彦(元日本大学法学部教授)が済州島で行った現地調査では明確な裏付けが取れなかった。
当時を知る島民は「この島で人間狩りが起こったら大騒ぎになって誰でも知っているはずだ。しかしそんな話は聞いたことすらない」との証言をしています。
【秦郁彦・著 『慰安婦と戦場の性』 (新潮選書)】
また、1996年5月29日付の週刊新潮インタビューでは、吉田清治氏本人が「本に真実を書いても何の利益もない。事実を隠し自分の主張を混ぜて書くなんていうのは、新聞だってやるじゃないか」と『私の戦争犯罪-朝鮮人強制連行』中の記述で「人間狩りを行なった場所がどこであるかについては創作を交えた」と偽証を認めています。
ちなみに吉田氏は1998年、秦氏との電話会見に応じ「人権屋に利用された私が悪かった」と反省の弁述べています。
【「諸君!」1998年11月号 秦郁彦「『空想虚言症』の記憶にさいなまれる『朝日新聞』」】
なお、この吉田清治氏という人物は1947年に下関市議会議員選挙に日本共産党から立候補し、得票数わずか129票で落選したという経歴を持っています。
従軍慰安婦問題が、マスコミで取り沙汰されるようになったのは、1991年の朝日新聞が、「朝鮮人従軍慰安婦の一人(一人です)が、ソウル市内に生存」という記事を報道したことから始まります。
この報道のあと、同年12月には数名の元従軍慰安婦という韓国人女性が名乗りをあげ、日本政府を相手取り、賠償を求める訴訟を起こしました。
翌、1992年1月になると、朝日新聞が「慰安所・軍関与を示す資料」という見出しの記事を掲載。ただセンセーショナルな見出しの割には、内容は、関与を具体的に示すものは何も書かれていなかった。
そして同月、宮沢首相が訪韓した際、ノテウ大統領に対し、謝罪とともに日本国内での真相究明を約束します。
さらに同年7月、、宮澤内閣の官房長官であった加藤紘一が、「朝鮮半島出身者のいわゆる従軍慰安婦問題に関する加藤内閣官房長官発表」を発表しました。
この発表で加藤氏は、いわゆる慰安婦問題に関し、「政府の関与があったことが認められた」、そして「従軍慰安婦として筆舌に尽くし難い辛苦をなめられた全ての方々に対し、改めて衷心よりお詫びと反省の気持ちを申し上げたい」と発表します。
翌93年8月、問題の河野洋平氏による、「慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話」が発表されます。
この発表の中で、河野洋平氏は、「慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあった」と発表。
しかし、談話にある「本人たちの意思に反して集められた」というのは、当時の軍による強制連行を必ずしも意味していません。
当時の従軍慰安婦問題調査では、日本軍が慰安婦の強制連行を行なっていたとする書類資料は発見されなかったが、政府は元慰安婦への聞き取りなどを実施し、業者の手により、慰安婦にされた者たちが、必ずしも本人の意思によるものではなかったことが多かったことから、総合的な判断として、この談話の発表を行ったといいます。
本談話発表の経緯としては、韓国側から強制性を認めることが問題解決に絶対必要との意向が示され(注1)、日本政府は強制性について明確な判断をすることが必要だという政治的意味合いのある判断として、強制性を認める発表をしたともいわれています。
(注1)「政府はこれまでの姿勢を転換し強制連行の事実を認める方向で検討に入っているが、その証拠となる資料が発見されないことから対応に苦慮している」「韓国政府は(略)金銭的支援は独自にやるので日本は強制連行を認めればよいという姿勢が鮮明になってきた」「このため政府は強制連行を認めないままでは事態の打開は困難と判断(略)認める方向で検討に入っている」、読売新聞、1993年3月4日。
そして、95年には、女性のためのアジア平和国民基金が設立。国が賠償はしないけれども、国民基金としてなんとか対応してあげようよ、という動きが始まります。ところが、訴えを起こしていた元従軍慰安婦たちは、そういう市民基金のようなお金では受け取れない。あくまで日本政府からの賠償金が欲しいのだと、これを蹴ります。
そして、96年には、日本の中学・高校の歴史教科書に、従軍慰安婦という記述が登場します。
ちなみに、安倍晋三首相は、2007年3月5日の参議院予算委員会で、河野談話をこれからも継承していくとしたが、「官憲が家に押し入って人さらいのごとく連れて行くという強制性、狭義の強制性を裏付ける証言はなかった」と答弁し、河野談話の強制性について修正が必要との考えを示唆します。
ところがこれに反発したのが、、山崎拓。
山崎氏は、「従軍慰安婦はあったのは事実であり、狭義か広義かなんて弁解がましい態度はとるべきではない」と、安倍首相を批判した。
1992年・1993年の宮澤内閣当時の日本政府の調査報告や「河野談話」で、
「軍当局の要請を受けた慰安所の経営者が、斡旋業者に慰安婦の募集を依頼することが多かった、戦争の拡大とともに慰安婦の必要人数が高まり、業者らが甘言や脅迫等によって集めるケースが数多く、官憲等が直接これに荷担するケースもみられたと報告されています。
ただし、「軍ないし官憲などの公権力による強制連行」を示す資料はなかった。
慰安婦問題の研究者秦郁彦は、「女衒」と呼ばれるブローカーであり、「女衒」が親または本人と話し合い、慰安所の業者に送ったのであり、業者は日本人と朝鮮人が半々だが、ブローカーは100パーセント朝鮮人だったと語っています。
従軍慰安婦問題に関する反論としては、基本的に慰安婦は戦時中であれば世界のどこにでもいる売春婦に過ぎず、性奴隷などではないというのが、一般的。
また、河野談話は完全に根拠のない政治的妥協の産物であり、特定アジアへの追従に他ならない。未来の日本人が自虐史観に毒されぬよう、今こそ河野談話を完全破棄し、米国の慰安婦決議案にも対抗しなければならない、 という主張があります。
また、慰安婦が旧日本軍による強制連行を証明するだけの決定的な資料、証拠等も日韓の再三の調査でも未だ確認されていないのも事実です。
こう振り返ってみると、従軍慰安婦問題というのは、どうも政治的なニオイがぷんぷんとします。
日本と韓国との間では、1965年に締結された日韓基本条約で、日本が総額5億ドルに上る経済援助をするかわりに、韓国は以降、一切の賠償請求権を放棄するという条約が交わされています。
それから27年も経ってから、提起され、今日においてもなお、延焼が拡大する従軍慰安婦問題。
少し話は飛びますが、古来、日本人は、あまり議論というものを好まないものだといわれています。
逐一相手の言うことに文句をつけたり、ごちゃごちゃと理屈を述べたりする者は、あまり好まれない。
理屈よりも、「あんたの思いはわかってるぜ、まぁ、飲もうや!」みたいな、情感で互い結ばれる、信頼し合うことのほうが大切とされてきた国であるように思います。
聖徳太子の金言・・・ 「人皆心あり。心おのおの趣あり。彼を是し、我を非し、我を是し、彼を非す。是非の理、誰かよく定むべき。相共に賢愚也。環のごとくして端なし。ここをもって設人いかると云共、かへってわが咎をおそれよ」
この言葉に、素直にうんうん!と納得できる人の方が多いのではないでしょうか。
議論して対立することよりも、情感を共有し、相互に信頼しあうことで共同体としての団結を深める。こういう意識はきっと、農耕社会での共同体意識から、自然と芽生えた意識のような気がします。
魏志倭人伝以降、日本は「倭」の国と書かれていますが、中国における民族名は、ほとんど当該国の一人称からとっているのだそうです。
つまり、日本語の「ワシ」が、和氏、倭氏になったのかもしれません。
そして、「ワ」は、「和」であり、「輪」であり、「環」であり、「話」でもある。
戦争で負ければ全員皆殺しという厳しい環境の大陸から流れ着いた古代の日本で、古代の人たちは、ある種の理想国家を作ろうとしたのかもしれません。
そうした古代から綿々と受け継がれた日本人の「和」の精神。
昨今、国会では何かあると、「議論しましょう」がある種の合言葉になっているようですが、そもそも「議論」の習慣がない日本では、「議論する」というのは、飲み会の前の打ち合わせ程度の馴染みしかない。
お互いを信じあうことからはじめるという日本型議論というのは、実は、論争というよりも、互いに学びあうことに主眼が置かれてきたようにも思います。
それだけに、相手をそもそも「信じない」ところでは、まるで論争そのものが意味をもたない。
それどころか、過激な論争を挑む集団がいると、むしろ統治者側が「信じられていない」⇒「統治能力がない」と世間から受け取られ、辞任や退任に追い込まれてしまう。
地位の保全を図ろうとして上手に立ち回る人は、過激論者に迎合し、たとえその内容が劣悪なものであっても、ちょっとずつそうした過激論を取り入れ、事なかれを得る。
日本人の「和を大切にする」という美徳が、結果として、統治者の「卑劣漢に対するちょっとずつの迎合」を生み、結果として日本をどんどん卑屈な国にしてしまっているような気がします。
本件、従軍慰安婦問題なども、その典型のような気がします。
戦地で兵隊さんが駐屯しているところというのは、若い男ばかりのところです。
そうした駐屯地の周辺には、世界中どこにでも、自然発生的に売春婦が群がってくる。
そうした売春婦によって、性病が蔓延すると、兵員の健康を損ねます。
ですから、軍によって、定期的な診察活動なども行われる。
当時の日本の軍人さんの給与が月15円、高給将校でも25円という時代に、半島の売春婦たちの給与は、月に1000円~2000円。いまの相場で言ったら、月収1500万円~3000万円です。
そうした売春宿に、韓国ですらもいまだに発見できないのが、日本軍が女性を売春のために強制連行したとことを証明するだけの決定的な資料、証拠です。
よくテレビなどで、日本軍や現地警察が女性を徴用した事実があるなどと報道されますが、これらは売春のためのものではなく、看護・給食・教育のための徴用に供されたもので、売春のためのものというのは、今に至るまでまったく証拠が発見されいない。
しかし、それでも、「あった」と言いはられると、和を大切にする日本人は、そこまでいうなら、そうかもしれませんねぇ、と、ついつい迎合する。頭ごなしに、バカモンと否定などしたら、大騒ぎになり、大騒ぎになれば、「世間を騒がせた罪」で、その統治者は責任を追及される。
だからずるがしこい統治者は、追及をかわすために、過激論者に対して、無責任な迎合発言をする。
そうするとこんどは、その迎合発言がネタになって、さらに過激な世論が形成される。
そしてまた迎合者が現れる。
最近思うのですが、やはり、私たちは、毅然として、誇りを持って、悪を断じて許さない。そういう姿勢を持たなければならない。そうでなければ、ほんとうに日本は滅んでしまう。そんな気がしています。

従軍慰安婦は強制連行だったのか? 1

従軍慰安婦は強制連行だったのか? 2

従軍慰安婦は強制連行だったのか? 3

従軍慰安婦は強制連行だったのか? 4

櫻井よし子従軍慰安婦問題について語る


人気ブログランキング ←気にいっていただいたらココをクリック。はげみになります^^v

コメントは受け付けていません。