第83回 倭塾 5月23日(日)13:30より開催
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失われた30年と言いながら、私達日本人は、その間に、モノよりも心、ハードよりも心地よさを重視する社会を形成してきているのではないでしょうか。
そしてこれからはじまるAIの時代、人々に求められるものは、むしろそうした日本的な価値観といえるのではないでしょうか。

20210428 国会議事堂
画像出所=https://www.sangiin.go.jp/japanese/70/70-1.html
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小名木善行です。
国会議事堂が火事で全焼したことがあります。
いまから130年前、明治24年(1891年)のことです。
当時の国会議事堂は、いまの永田町ではなく、東京・霞ヶ関にありました。
いまでは経済産業省が建っているその場所に、明治23(1890)年11月に国会(仮)議事堂が建設されました。
それが冒頭の写真です。
この霞ヶ関の仮議事堂で、日本初の国会である「第一回帝国議会」が開催されました。
その国会議事堂が、建てた翌年1月に、早くも火事で全焼してしまうのです。
原因は「漏電」です。
いまでは、多くの日本人は、電気は空気のように「あたりまえにあるもの」と思っています。
けれど明治半ばのこの当時、まだ電気はたいへんめずらしいものでした。
なにせ、日本人がはじめて電気を見たのが、明治15(1882)年のことです。
この年の11月1日に、銀座2丁目に、アーク灯が点灯したのが最初です。
下の絵は、当時の模様の錦絵ですが、学校の教科書の文明開化のページでご覧になられた方も多いかと思います。
東京銀座通電気燈建設之図
東京銀座通電気燈建設之図

それまで行燈(あんどん)や提灯(ちょうちん)しか夜の照明がなかった日本にはじめて、ローソクにしたら4000本分の明るさの明かりが灯ったわけで、銀座の町は、連日、見物客で大にぎわいになったそうです。
この電気街灯は、翌年には京都の祇園に、翌々年には大阪の道頓堀にも設置されています。
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この電気燈は、送電線で電力が供給されるのではなくて、その場に据え付けたバッテリーから電力を供給するものでした。
これがバッテリーではなく、電力会社から供給される電力によるようになったのが、明治19年(1886年)のことでした。
その、送電線による電力で、日本で初めて「室内の電灯」が灯されたのが鹿鳴館で、明治20(1887)年1月のことです。
皇居に電灯が配備されたのが明治22年(1889年)1月6日ですから、天皇の御在所である皇居より先に、外国人を接待するための屋敷の方が、先に電灯が配備されたわけです。
当時の日本が、外国に追いつくために、どれだけ必死であったのかがわかります。
営業用に電力が使われだしたのが、翌、明治23(1890)年11月のことで、東京・浅草の凌雲閣に電灯が灯されました。
その後、朝日新聞や、時事新報といった新聞社が電力の供給を受けるようになっていきます。
そしてこの年に国会議事堂が出来、そのまた翌年(明治24年)の1月には、電力によって夜間も明かりが灯る設備を整えた国会議事堂が、漏電による出火で、大火災となって全焼したのです。
おかげで日本全国から、「電気は危ない」、「電気は危険だ」、「電気は人々の生活を破壊する」、「電気のない安全な生活を!」、「電気は大災害をもたらす」、「電気は経済的に非効率だ」、「電気は明かりの灯る者と灯らない者との間に差別をつくる」等々と、電気反対の大合唱が起こります。
この当時、電力会社の発電は、もっぱら外国製の火力発電に頼っていましたから、火力発電所のいかにも恐ろしげな猛火の前に、多くの人々が「電気は怖い」と思ったのもうなづけます。
さらに、発電所から伸びる送電線は、並んでいる電柱にコードが架かっています。
ものめずらしさもあったのでしょう。
なんとかと阿呆は高い所が好き、とばかりに、この電柱に登って電線に触り、感電して落下する者もあとを絶たず、このためますます民間においては、「電気恐怖症」が巻き起こり、電気反対の運動は、当時の社会風潮にまで至るようになりました。
そして多くの市町村が電気の供給を拒否するようになりました。
おかげで、日露戦争(明治37ー38年)で捕虜として日本に連れてこられたロシア人が、日本の街並の夜が暗いことに驚いて、
「日本はなんと貧しい国だろう」
と書き遺しています。
数々の反対運動の中、東京に電灯が普及したのは、はじめて銀座に街灯が灯ってから40年後の大正11(1922)年のことでしたが、その翌年に、関東大震災が起こります。
人々は火事や家屋崩壊に恐怖しましたが、それ以上におびえたのが、電気がない、真っ暗な生活でした。
これが、電気に反対し続けた日本人が「文明」に負けた瞬間となります。
以後、電力反対運動は、完全に沈静化に向かいます。
さて、冒頭で申し上げた国会議事堂ですが、全焼した後、第二会帝国議会の開催に間に合わせるため、いったん、帝国ホテルを貴族院、東京女学館(旧工部大学校)を衆議院にあてて、急場をしのいでいます。
その後、焼失した跡地に、第二次仮議事堂が再建されるのですが、明治27(1894)年の日清戦争で大本営が広島に移された際に、国会議事堂も広島に引っ越しています。
この広島の国会議事堂では、明治28(1895)年に第七回帝国議会が開催されています。
いまある永田町の国会議事堂は、大正8(1919)年に一般公募によってデザインが決まったもので、大正9(1920)年には竣工するのですが、途中、火災に見舞われたり、関東大震災が起こったりと、なかなか建設が進みませんでした。
そして、ようやくいまの国会議事堂が完成に近づいたときに起こったのが、昭和11(1936)年の二二六事件です。
このとき、武装した一団が、議事堂を占拠していますが、まだこのときは完成前だったのですね。
こうして紆余曲折を経て、いまの国会議事堂が完成したのが、昭和11(1936)年11月7日のことです。
それまでの帝国議会が行われていた場所は、最初からすべて「仮議事堂」と呼ばれていました。
ではなぜ最初から、いまあるような立派な国会議事堂を建設しなかったのかというと、当時はそれだけ我が国が貧しかったからです。
ですから明治政府には、国会議事堂よりも優先すべき課題が山積みだったし、予算もなかった。
国家議事堂という建物によって国会の権威を飾ることよりも、もっとしなければならない課題を優先したのです。
失われた30年と言って、いまの日本は経済が麻痺しているともいいます。
しかし天皇皇后両陛下の宿所になるような宿でも、雨が降れば天井から雨漏りがした明治時代と比べれば、今の日本は、ものすごく豊かです。
明治の頃の日本人の平均寿命は、男女とも44〜45歳。
健康面においても、日本はずいぶんと豊かになっているのです。
だから我慢しろというのではありません。
そうではなくて、経済成長なるものの本質をもう一度考えてみたいのです。
経済成長といいながら、ごく一握りの大金持ちの懐が豊かになるだけで、一般の人々にはなんの恩恵もないような、世界の経済成長と同じ種類の経済成長が、本当に経済成長といえるものなのか。
失われた30年と言いながら、私達日本人は、その間に、モノよりも心、ハードよりも心地よさを重視する社会を形成してきているのではないでしょうか。
そしてこれからはじまるAIの時代、人々に求められるものは、むしろそうした日本的な価値観といえるのではないでしょうか。
そしてそうした価値観が、これまでとは違った、経世済民という意味での新たな経済になっていくのではなかと思えるのです。
ちなみに帝国政府は、朝鮮総督府や、台湾督府、満州の府督府などには、惜しみなくお金を使い、立派な建物を建設しています。
こんなところにも、戦前の帝国政府には、仁徳天皇のお心が活かされていたのです。
お読みいただき、ありがとうございました。
日本をかっこよく!! むすび大学。

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