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抑圧は、ストレスを生み、ストレスはうつを生みます。
現代日本がストレス社会だと言われている背景には、そういう嘘の刷り込みによる抑圧が、実は底にあったのです。
そしてその嘘の刷り込みの出発点が、実は東京裁判にあった、というのが今日のお話です。

20210325 東京裁判
画像出所=https://gendai.ismedia.jp/articles/-/65850
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歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
小名木善行です。
自虐史観の原点が東京裁判にあるということは、いまや多くの日本人の知るところです。
東京裁判は、裁判の名を借りた茶番劇であったことは、いまや日本人なら誰もが知っています。
しかしその茶番によって死刑執行まで行われました。
このことは(結果として)戦勝国である米国にとって恥ずべき歴史の一幕です。
ですから米国の学校では、ナチスドイツを裁いたニュルンベルク裁判は学校で教えるけれど、東京裁判は教えません。
なぜなら東京裁判は、各論になればなるほど、日本の正当性が証明されてしまうからです。
そもそも教育というのは、単に「1+1=2」を教えるものではありません。
我々人類は、数十万年の時を経て、ようやく民主主義国家へとたどり着いたわけです。
その大切さをきちんと教え育むのが、国家が行う教育です。
もっとも民主主義の定義は、国によって違うようで、18日に米アラスカ州で会談したブリンケン米国務長官と楊潔篪(ヤン・ジエチー)中国共産党政治局員との会談では、楊氏が、
「米国には米国流の民主主義があり、
 中国には中国流の民主主義がある」

と発言して話題になりました。
チャイナは共産党の一党独裁政権であり、党名通りの共産主義国であると思っていたのですが、どうやら彼らには共産主義こそが民主主義らしい(笑)
その場には、チャイナの王毅外相もいましたが、チャイナでは、外相よりも楊政治局員の方が地位が上です。
楊政治局員から見たら、外相などはただの使い捨ての駒でしかない。
ちなみに、相手の言葉の意味そのものを真逆にすり替えて世の中を混乱させるのは、中共の日常的交渉手段で、ここで中共側の言葉のトリック「中国には中国流の民主主義がある」にひっかかると、以後の議論がどんどんおかしなものになります。
あらゆる不正を行った挙げ句、自己の正当化をしてしまうのは、昔から、これはチャイナが共産主義国かどうかに限らず、彼らの国の権力にとっての習い性です。
というより、彼らの社会においては、ひとたび「自分が悪うございました」と言うと、以後、未来永劫、すべての責任を押し付けられるのみならず、家族から親類縁者まで、自分の血筋の者は、全員その血が絶えるまで虐殺されきたという歴史を持ちます。
ですからいかなる場合でも、自分の立場が絶対的に正しいという形を取ります。
起きた事実が明らかにまずい状態にあるなら、それはなかったことにしてしまうし、なかったのだから、それは正しい判断であったことになるし、相手がより良い立場、より人々の共感を得れる立場にあれば、その相手の立場を、相手の言葉を用いて強引に自分の立場にすり替えてしまう。
たいへんに悪質なものですが、彼らの社会では、歴史に明らかになったすくなくとも2500年以上、そうあることができる者だけが生き残ることができたのです。
これは民族的伝統であり、習慣であり、習性です。
もちろんこれには個体差があります。
日本人でも、チャイニーズ同様のアコギな人はたくさんいます。
逆にチャイニーズであっても、より良い日本人以上に、正しく生きようと努力している人もまた、たくさんいます。
ですから上に述べたことは、あくまでも縮図としての政治的傾向性です。
全員がそうだということではありません。
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我々日本人が東京裁判を考えるとき、一点、これだけは忘れてはいけないということがあります。
それは、
「我々は、今後決して、
 権力者の野望を満たすために、
 若者のエネルギーを、命を、
 奪ってはならないし、
 また奪われてはならない」
ということです。
幸いにして我が国は、戦後76年間にわたって、戦争をしないで済んできました。
このことは、これから先の500年でも、1000年でも、ずっとこのまま「戦争をしない国、戦争のない国」としての日本であり続けるべきことです。
ここはとても大切な点です。
ただし、だからといって、自称大国の「なかともの国(漢字で書いたら中と共の国)」の横暴に、ただ黙って従うのが正しい道であるとも思えません。
なぜなら中共は権力者が野望を満たすために、若者のエネルギーを命をのみならず、他国の平和までも公然と蹂躙(じゅうりん)する暴力国家であるからです。
そのような暴力国に、我が国の「若者たちのエネルギーを、命を、奪われてはならない」のです。
では、そのために何が必要なのでしょうか。
暴力に対抗できるものは、一般に2つあると言われています。
ひとつは、武力であり、
いまひとつは、伝統的価値観です。
暴力に武力をもって制裁する。
これは古来、ごくあたりまえに行われてきたことです。
けれど、このことは、暴力によって打ち立てられた権力に、より以上の権力で立ち向かうということを意味します。
強い者が正しいという、このいわば「制裁論」は、もしここで生まれる新たな力が、過去の暴力以上に激しい暴力であったのなら、人々は、これまで以上に苦しむことになってしまいます。
人類の歴史は、まさにこの繰り返しであったということができます。
いまひとつの伝統的価値観というのは、その暴力自体が「いけないことだ」ということができる価値観です。
これを別な呼び方で、「権威」と言います。
何が正しくて、何が間違っているのかを規定するのが権威です。
たとえば、神社に参拝するとき、参道の真ん中は神様の通り道だから、歩いてはならないとか、拝殿の前では二礼二拍手一礼するのだとかいったルールがあります。
日本語では、これを「作法」といいます。
作法は、英語圏でいう神様との契約(ルール)とは異なります。
なぜなら作法は、これを守らなかったからと言って、イエローカードやレッドカードが出されることはありませんし、そうしなければならないという法もありませんし、警察に逮捕されることもありません。
「作法」というのは、「しきたり」のことです。
「しきたり」とは、昔からのならわしや慣例のことです。
ここでは「昔からの」ということが、重要なファクターになります。
なぜなら「昔からの」ということは、長い歳月の洗礼を受けていて、しかもずっと生き残っているものを意味するからです。
これを「時の洗礼」などとも言いますが、長い歳月にわたって、そうすることが正しいとされてきた。
実は、この「昔からの」ということが、言葉を変えれば「伝統的価値観」であり、「権威」ということになります。
そして暴力による権力を抑え込むことができる暴力以外のもうひとつの力こそ、この「昔からの伝統的価値観」であり、確立された「権威」です。
中共の、カネの力や、情報操作、あるいは直接的暴力による世界の支配や抑圧に対して、真正面から力で対決するのではなく、人々を苦しめてはいけない、「誰もが」よろこびあふれる楽しい人生を送ることができるようにしていくことが大事なのだという、価値観で暴力を封じ込める。
それができるのは、おそらく世界の中で日本だけです。
なぜなら日本だけが、世界から植民地支配という抑圧からの解放を実現し、また一部の大金持ちだけではなく、一般の人々みんなが、豊かに安全に安心して暮らすことができる社会を実現してきた国であるからです。
常識で考えて、最低でも二千年以上にわたって、支配と抑圧によって国を形成してきた伝統を持つ国に対して、我々日本人が、彼らと同じ次元で戦おうとしても、それは無理なことです。
悪質さにかけては、彼らは伝統と実績があるのです。
付け焼き刃で日本人が彼らと同じ土俵で戦うのは、はっきり言って勝ち目のない戦いです。
けれど、何が正しいのか、ということについては、日本人は、民衆が豊かに安全に安心して暮らせる社会を営んできたという実績があります。
そしてそれは、1万7千年もの太古の縄文の時代から、我が国がずっと続けてきたことです。
つまり、日本人のDNAに染み込んだ習性です。
そしてこの分野において、日本に勝てる国は、世界中どこにもない。
だとすれば、我々日本人にとって大切なことは、教育と文化の力によって、日本人が日本人として誇りある歴史をしっかりと身につけること。
何者にも動じない、しっかりとした信念を身につけること。
そしてそれだけではなく、そうした分野で議論して、しっかりと周囲を説得することができるだけの技術を身に着けていくことが大事です。
この議論というのは、英語で言えばディベートのことですが、このディベートが日本人は下手くそだという議論があります。
なぜなら日本人は「和をもって貴しとなす」という文化の国だからだといいます。
しかし、これは嘘です。
戦後にバラまかれた、デタラメです。
なぜかというと、「和をもって貴しとなす」というのは聖徳太子の十七条憲法の第一条なのだけれど、その第一条には、なるほど文の書き出しのところには「和をもって貴しとなし」と書かれているけれど、第一条の文意は、そこに目的があるのではないからです。
第一条が述べているのは、
 なかよくしなさい(以和為貴)
 人を恨んだり、呪ってはいけません(無忤為宗)
 この原則のもとに、大事なことは議論しなさい(諧於論事)
ということです。
議論のことを、十七条憲法は「論(あげつら)ふ」と書いています。
御存知の通り、十七条憲法に先立って、聖徳太子は冠位十二階を定められました。
冠位十二階は、身分の上下関係を定めたものです。
そして上の人の前では、下の者は、頭を下げて、顔をあげてはいけない。
これが世の中の秩序です。
ただし、大事なことを決めるときには、「面(おもて)を上げて」互いに眼と眼を合わせて議論する。
「面(つら)を上げる」から、「あげつらふ」です。
この合議は、日本古来の慣習で、全員の意見が一致するまで、夜を徹して、あるいは何日もかけてしっかりと行われます。
その議論をするのに際して、最低限の作法としてあるのが、その問題に関する議論ならいくらしても良いけれど、相手の人格を攻撃したり、あるいは相手の名誉を損ねるようなことをしてはいけない、ということです。
とりわけ人の名誉を汚す行為は、その場で斬り殺されても文句はいえない。
それほどまでに、名誉は大切にされてきたのです。
この最低限のルールを守ったうえで、きちんと問題について議論する。
そしてひとたび全員一致に至ったならば、以後はその件について、一切、愚痴や文句を言ってはならない。
なぜなら、ちゃんとみんなで合意したことなのです。
途中で投げ出すのは、卑怯な行為です。
つまり戦後生まれの我々は、聖徳太子が「ちゃんと議論しなさい、ディベートしなさい」と述べていたことをまったく教えられず、あたかも意見の違いが合っても、合意の形成よりも和を大切にしなさいと、誤った解釈を刷り込まれてきたのです。
日本人は、こうして抑圧されてきました。
抑圧は、ストレスを生み、ストレスはうつを生みます。
現代日本がストレス社会だと言われている背景には、そういう嘘の刷り込みによる抑圧が、実は底にあったのです。
そしてその嘘の刷り込みの出発点が、実は東京裁判にあった、ということです。
お読みいただき、ありがとうございました。
日本をかっこよく!! むすび大学。

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