| 個人の行動も、国家としての行動も、そこには必ず価値判断の物差しがあります。 その物差しを持たないということは、価値判断の尺度を持たないということですから、それではただのロボット、もっというなら、ただの奴隷に成り下がることを意味します。 精神的自立や自由は、価値判断の物差しを得るところからはじまります。 |

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歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
小名木善行です。
学校で教わったことは、多くの場合、一般社会通念、つまり常識となります。
そして国家についての日本人の常識は、国家とは次の三要素によって規程されるというものです。
1 住民(Staatsvolk:国民、住民)
2 政府(Staatsgewalt:武力)
3 領域(Staatsgebiet:領土、領水、領空)
つまりこの三つが整えば、それは国家である、と学校で教わるわけです。
さらに詳しくいうと、1933年のモンテビデオ条約では、この三つにもうひとつ、
4 他国と関係を結ぶ能力(外交能力)
が加わることがあります。
そしてこの4は、19世紀までは「他国による承認」であると教わるわけです。
これが日本人の常識です。
そのことに、誰も疑問を抱かないようにされてしまっています。
ところが、実はここに重大な落とし穴があります。
それが何かというと、2の政府というのが、「スターツグワイト(Staatsgewalt)」であり、それは自衛力、治安維持能力などの「武力を意味する語でしかない」ことです。
ということは、早い話、住民と領域があり、それらを押さえるための武力があれば、それが「国家」だということになります。
そうであれば、暴力団には、シマと呼ばれる領域があり、そこに人が住んでおり、彼らは武力を持っているわけですから、暴力団○○組は「国家」である、ということになります。
さらにその暴力団を、どこか他国が後ろから支援していれば、それは「他国と関係を結ぶ能力」を持つということになり、暴力団=「国家」であると規程されることになってしまいます。
このことがなぜ問題なのかというと、この定義によって、支那事変当時における蒋介石の国民党や、毛沢東の八路軍、あるいは、当時、チャイナ各地にあった軍閥(自治政府)、あるいは現代におけるチャイナの軍閥などは、それらすべてが「国家」として規程されるということです。
なぜなら、領域と住民があって、武力があれば、それが国家だという定義だからです。
これはおかしな定義です。
住民がいて領域があるなら、そこにおいて必要なことは、民政のための行政機能です。
なぜなら国家は、領域内に住む人々が豊かに安全に安心して生きることができるようにしていくための共同体であると考えられるからです。
このことは王国においても同じです。
実際、国家という語は、英語の「ネイション(Nation)」の翻訳語ですが、そのNationには、語彙として
(1) 〔主権を持つ〕政府
(2) 〔歴史や文化を共有する〕住民
(3) 〔政府が管轄する〕領域
といった意味があり、また用語もそのように用いられます。
つまり「ネイション(Nation)」とは、
「歴史や文化を共有する民族が、主権を持つある政府のもとに統合された領域を持つもの」
という意味を持つ用語であるわけです。
このことは、冒頭に述べた「国家の三要素」と、明らかに異なります。
なぜなら武力、つまり交戦権や警察権は、その国家の主権の一部とみなされているからです。
では、日本では国家とはどのようなものであると考えれられてきたのでしょうか。
もちろん、昔は国家という言葉はなく、天下という用語が用いられていましたが、縄文、弥生以来、我が国がひとつの主権国家としてまとまってくるのにあたって大切にされたこと、つまり我が国が古来、国家の三要素と考えてきたことは、上にある要素とは、実はまったく異なります。
では何が天下の三要素とされてきたのかというと、それが
㈠ かみ
㈡ たみ
㈢ はみ
つまり「かみ・たみ・はみ」の三つです。
まず大和言葉で、語尾に「み」が付く用語で、反対の意味を持たない語は、それ自体が「とてもたいせつ」な要素を持つ用語です。
政治のことを大和言葉で「まつりごと」と言いますが、「まつりごと」は「祀りごと」ですから、そこに「かみ」がとても重要な要素とされてきたこは、疑いのない事実であろうと思います。
天皇のことを「天子さま」と昔は呼びましたが、それは天皇が「かみ」につながるご存在であるとされてきたからです。
つまり国家の要素の根幹に、我が国は「かみ」を置いていたわけです。
※ちなみに御皇族の方々について、近年では「○○さま」などと軽く名前で報道されたり、人々の口端にのぼったりしますが、かつては御皇族の方々については、そのお名前を口にすることさえ、もったいなくもはばかられるとされてきたのが日本の古くからの慣習です。
その「かみ」のもとに「たみ」がいます。
たみは天皇の「おほみたから」です。
その「おほみたから」たちが、豊かに安全に安心して暮らして行けるように、つまりちゃんと食べていくことができるようにすることが「はみ」です。
「はみ」は、「食(は)み」とも書きますが、食べることです。
そしてこの「かみ」と「たみ」をつなぐご存在が天皇であり、その天皇の「おほみたから」である「たみ」が、どのような災害が起きようと、しっかりと食べていく(はみ)ことができるようにしていくことが、行政府の役割でした。
その行政府のことを、古代から中世にかけて「朝廷」と呼んだし、武家が台頭した近世には「幕府」と呼びました。
近世以降は、それを「政府」と呼んでいます。
この「かみ・たみ・はみ」を軸とした我が国の古来からの体制は、我が国の国家としての成り立ちの根幹を為すものです。
ですから、「たみ」のための「はみ」を行わないチャイナの国民党軍や、八路軍などは、いくら軍事力を持ったとしても、我々日本人の感覚としては、彼らはただの軍閥であって、とてもじゃないけれど政府などと呼べるような存在ではなかったし、だからこそ当時は日中戦争という用語がまったく用いられず、あくまで支.那事変、あるいは日華事変と呼ばれていたのです。
そういう日本人の目から見ると、今般の米国大 統領選挙における不正問題問題のようなものは、
1) 神を無視して
2) 民の心の発露としての票を改ざんし、あるいは捏造し
3) 限られたごく一部の人たちだけが利権を得ようとした
という意味において、国家そのものを否定しようとした、つまり国家反逆にあたると考えられることになります。
もちろん米国は日本とは異なる成り立ちを持つ国ですから、この問題はあくまで米国のルールに従って対応されるべきものです。
日本人にとっての国家の三要素は、「かみ・たみ・はみ」です。
そしてこの「かみ・たみ・はみ」は、我が国の神話に基づく要素です。
このように、神話は、その国や民族の価値判断の基礎を形成します。
したがって、我々日本人が神話を学ぶことは、そのまま自分自身の価値判断のものさしを手に入れることにつながります。
個人の行動も、国家としての行動も、そこには必ず価値判断の物差しがあります。
その物差しを持たないということは、価値判断の尺度を持たないということですから、それではただのロボット、もっというなら、ただの奴隷に成り下がることを意味します。
精神的自立や自由は、価値判断の物差しを得るところからはじまる・・・ということを今回は「かみ・たみ・はみ」という古い大和言葉を用いてご案内させていただきました。
お読みいただき、ありがとうございました。
歴史を学ぶことでネガティブをポジティブに
小名木善行でした。

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