我々はいま、これまでにない、まったく新しい共同体の創設の必要に迫られています。その共同体とは、悪いことをしたり、人に迷惑をかけるようなことがあれば、そのコミュニティの恥と呼べるようなものです。
それは情報化社会にあって、これまでとはまったく違う、新たな共同体の形となっていくものと思われます。
その新しい時代の新しいコミュニティに入れるかどうかは、そのままその人の生きざまにもつながっていく。
ワクワクする素晴らしい未来が、いまやってこようとしています。

20200708 コミュニティ
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社会という用語は、幕末に英語の「Society(ソサエティ)」の翻訳語として造られた言葉です。
それまでは社会のことを国と呼びました。
ですから出雲国といえば、出雲大社を中心として形成されている社会をいうし、武蔵といえば武蔵国一宮《氷川神社》を中心とした社会のことを言いました。
氷川神社の御祭神は素戔嗚命(すさのをのみこと)であり、素戔嗚命は世の乱れを正す神様ですから、タケル(武)神様がしっかりと矛を構え目を見開いておいでになる国ということで、武蔵国と呼ばれていたわけです。
また播磨国といえば、いまの兵庫県南部ですが、海に面して切り立った崖に種を播くというこの国名は、同時に播磨国一宮とされる伊和神社を中心にまとまった社会を意味します。
伊和神社は、もともとは伊和坐大名持魂神社(いわにいますおおなもちみたまのかみやしろ)で、大己貴命(おほなむちのみこと)《別名:大国主神》が御祭神です。
崖に面していても、そこに種を播いておおいなる社会《=国》を営んでいこうということで播磨国と呼ばれました。
要するに旧行政単位における全国の諸国は、それぞれにいわれと、その中心核があったわけです。
それぞれの地元には、中心となる神社があり、その神社こそがもともとその地域の氏神の総代であったわけですから、国の名と総代となる神社の御祭神の関係を調べれば、その国がどのような社会を築こうとしてきたのかが見えてきます。
是非、みなさんの地元についても再考いただくと面白いかもしれません。
我が国の神語によれば、その国、つまり社会は、もともとイザナギとイザナミが豈国(あにくに)を求めて築かれたとされています。
豈国(あにくに)というのは、「豈の社会」という意味です。
そして「豈(あに)」とは、楽太鼓の象形で、これは「よろこびあふれる楽しいこと」を意味します。
従って「豈国(あにくに)」は「よろこびあふれる楽しい社会」を意味し、そのためにこそ、社会《すなわち国》が創られたのだと書かれています。
日本は天然の災害が多発する国です。
台風は毎年やってきますし、何十年かに一度は必ず大地震がやってきます。
50歳にもなれば、誰もが震度6以上の地震を一度は経験する、日本はそういう国です。
このことは、日本人にとってはあたりまえのことですが、世界に目を転じれば、1万年に一度、震度1の地震があるかないかという国が、実はほとんどでもあります。

《塾・講演等の日程》
どなたでもご参加いただけます。
2020/7/25(土)13:30-16:30 第74回倭塾(於:富岡八幡宮婚儀殿)
 https://www.facebook.com/events/1074216212960822/
2020/8/1(土)13;00〜15:30 羽曳野講演(羽曳野市いずみの里 南島泉集会場)
 https://www.facebook.com/events/662947247910504/
2020/8/15(土)靖国神社昇殿参拝
 https://www.facebook.com/events/2667848776866935/
2020/9/12(土)13:30-15:30 第75回倭塾(於:富岡八幡宮婚儀殿)
 https://www.facebook.com/events/1140192956351381/
2020/10/18(日)13:30-16:30 第76回倭塾(於:富岡八幡宮婚儀殿)
 https://www.facebook.com/events/867036783780708/
2020/11/15(日)13:00〜15:30 日本書紀出版記念(於:靖国会館)
 https://www.facebook.com/events/269322421064039/
2020/12/19(土)13:30-16:30 第76回倭塾(於:富岡八幡宮婚儀殿)
 https://www.facebook.com/events/337364737249840/
20200401 日本書紀 ◆ニュース◆
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他にも津波もくれば、水害もある。
半世紀も生きておいでの方なら、膝より下まで水に浸かった経験を一度ならずもっておいででしょうし、中には膝より上までの浸水を経験された方もおいでになるかと思います。
埼玉県の越谷市には、かみまくり、しもまくり(上間久里、下間久里)、という地名がありますが、これは大雨の都度、女性たちが着物の裾を膝より下をまくるから、しもまくり、膝より上まで着物の裾をまくらなければならなかったところが、かみまくりです。
地名には意味があるのです。
大和言葉は一字一音一義です。
その大和言葉で「くに」は、訓読みで「く」の音を持つ漢字は《音読みのクはたくさんありますが訓読みは少ない》、食茹喫喰餌悔などがあります。
基本的に、食べることに関連する文字です。
要するにみんなで一緒に食べることが「く」です。
訓読みで「に」を持つ漢字には似煮熟燗などがあります。
いずれも煮炊きを意味します。
要するに大和言葉でいう「くに」というのは、みんなで一緒に食べていくところや、その集団のことをいうとわかります。
そしてそれが日本における、英語でいう「ソサエティ(society)」、つまり「社会共同体」です。
そういう意味から、武蔵国とか播磨国、出雲国などといった語は、もともとがそれぞれ社会共同体を意味していたことがわかります。
この社会共同体を、生活のためのひとつの単位とする。
そして共同して祭祀を行い、田植えなどの稲作を行い、そして災害対策をみんなで行い生きていく。
いま地域共同体と呼ばれているものが、実は、大昔、人々が助け合って生きていくために築いた社会共同体であったということが、このような「ことば」からもわかるわけです。
明治維新は、そうやって全国の諸国に別れていた地域ごとの社会共同体を、日本という国家ひとつにまとめるというはたらきをしました。
これによって、日本全体がひとつの社会共同体となることが目指されたわけです。
ところが戦後になると、この日本国という共同体意識、別な言い方をするならば日本全体がひとつの家族となるという国家意識が崩れました。
それでも高度成長の頃までは、会社がひとつの共同体を形成しました。
これら共同体は、「恥」という概念でも存在を見出すことができます。
江戸の昔なら、地域の恥、家の恥、親族の恥。
明治以降なら、帝国臣民の恥。
戦後の高度成長の頃は、会社の恥です。
ところが平成から令和の時代となり、会社共同体も、いまや崩壊したといわれています。
会社は永続して働くところではなく、単なる腰掛けとなっていきました。
では、いまの日本に、それらとは別な共同体が生まれているのかというと、実は日本人の社会の中には、それがない。
一方、在 日の方々などは、民団とか総連とか、彼らなりの共同体を深く形成しています。
チャイナも同じで、日本にいるチャイニーズは、全員、チャイナの大使館の指揮下に置かれています。
つまり日本人が個に向かって行って日本人社会が崩壊する一方で、外国の社会勢力は、それなりの社会共同体を持っているわけです。
社会共同体を持たない日本人は、どこまでも個でいるほかない。
日本国内に社会的共同体を持つチャイニーズやコリアンは、彼らの社会共同体を持つ。
この違いは、個対団体という関係になります。
この違いは大きいのです。
たとえば日本に生粋の日本人が1万人いて、チャイニーズやコリアンが200人いたとします。
日本人は、全員「個」、つまりひとりです。
チャイニーズやコリアンは、200人の団体です。
そうすると、常に「200人対1人」という関係になってしまうのです。
実際には1万人いても、共同体を持たない日本人は、常に「個」でしかないのです。
個と社会を形成する集団では、集団を形成している方が発言力が強くなるのはあたりまえです。
とりわけ民主主義の世の中では、より大きな集団の意見が民意とみなされるのです。
個の意見は、簡単にかき消されてしまうのです。
戦前の日本が強かったのは、日本が単に軍事力が強かったからだと誤解している人が多いです。
もちろん軍事力が強かったこともあります。
けれどそれは要素のひとつでしかありません。
戦前は、日本が大日本帝国臣民として、ひとつのおおきな共同体を形成していたのです。
だから国は貧しかったけれど、国際的に大きな発言権を持つことができたし、外地にいる日本人がとても尊敬されたのです。
もっとも、大正から昭和初期にかけては、特におエライサンを中心に、海軍村とか陸軍村、政友会村、民政党村といった村意識に凝り固まった人たちが生まれ、国内政治や国の外交面においては、それらの村の利益ばかりが追求されることになり、結果として日本は大きな敗戦を経験することになってしまったことは、とても残念なことです。
このように書きますと、違和感を覚える方がおいでかもしれませんが、もし日本が、明治時代のような日本というひとつの社会共同体を前提とした社会であったのならば、もしかすると戦争は起こり得なかったかもしれないといえるのです。
先の大戦の開戦時、昭和天皇があくまで開戦に反対であられたことは、誰もが認める歴史の事実です。
我が国は歴史を通じて、天皇のお示しが、何よりも優先する国です。
「承詔必謹(詔を承(う)けては必ず謹しめ)」は、十七条憲法以来の我が国の国是です。
それがあるから、幕末の開国に際しても、幕府が勝手に鎖国を解いたことが大問題となったのです。
ところが開戦当時の情況は、陛下があくまで開戦に反対であるのに対し、朝日を中心とする新聞メディアや国会は、「鬼畜米英、進め1億火の玉だ」とばかり、日本の国力も考えずにいたずらに開戦をあおるものばかりでした。
天皇は政治権力者ではありません。
けれど天皇のご意思は、我が国では何よりも尊重されるべきものとされてきたのです。
にもかかわらず、メディアや国会は、天皇の大御心に反して、いたずらに開戦をあおりました。
これは日本が天皇を中心とする日本という国体からすれば、ありえない暴挙であったといえます。
※この暴挙説は、当時の日本の軍事力が米国の軍事力に及ばないからという日本弱国論とは意味が違います。
 戦えば勝つことが軍人の使命であり、当時の軍隊が太平洋をはさんだ米国との戦いにおいて、戦場が太平洋の手前まであるならば、日本の軍事力は米国のそれをはるかに上回るものでした。つまり日本が太平洋の先にあるハワイ攻撃などを行わず、戦線を当時の大日本帝国の領域内に絞っていれば、日本が戦いに勝てる可能性はかなり濃厚であったということができるというのは、近年の様々な学説が物語っていることです。
日本の元首が天皇なのに、天皇の大御心に反して大戦争を行う。
こんなありえないことが起きたのが、実は先の大戦であったわけです。
明治の開闢以来、日本は統一国家としての日本、つまり日本国というひとつの家族国家を目指しながら、同時に不平等条約の改定などを目指して国がひとつとなってきたのに、いつのまにか日本は、日本という統一国家ではなく、海軍村、陸軍村、政友会村、民政党村などの村社会におちいってしまっていた。
それでいながら、開戦の責任者が誰もいないという、まさに不思議の国日本になっていたわけです。
※戦後東条英機首相らが東京裁判によって裁かれましたが、東条英機首相はそもそも日本が戦争に至らないようにと陛下によって選ばれた首相です。つまり東條内閣ができたときには、もはや国内世論なるものは開戦にあまりにも傾いていたのです。
けれど東條内閣の前の近衛内閣のときに、開戦直前の昭和16年8月の時点で、首相官邸で『総力戦机上演習総合研究会』が行われ、何度やっても日米戦争は日本必敗との結果が出ました。世間の開戦圧力に、必敗の報告。これがもとで近衛内閣が総辞職しています。あとを受けたのが東條内閣であったわけです。
結果、日本は敗戦しました。
そしていまだに日本は、日本国に変わる社会共同体を見い出せないでいます。
その社会共同体とは、繰り返しになりますが、なにか悪さをしたら、その共同体の恥、となるものです。
高度成長の頃は、会社がその昨日を担いましたが、いまは会社も求心力が弱まっていると言われています。
では、これからの時代において、日本が持つべき社会共同体とはいかなるものなのでしょうか。
繰り返しになりますが、日本が共同体を持たない限り、日本はどこまでいっても個人で戦わざるを得ず、団体戦を行う人々に個は必ず負けるのです。
つまり日本が世界の中で一定の名誉ある地位をしめ、また日本人が社会から守られるためには、日本がなんらかの形で共同体となっていかなければならないのです。
今回のコロナ騒動は、こうしたことを見直す、ある意味、よい機会ではないかと思います。
コロナは太陽の別名ですが、まさに日輪が日本社会崩壊を、ギリギリのところで食い止める働きとなったのが、今回のコロナ問題であったのかもしれません。
最大単位として、天皇を中心とした国があり、その下に地域という社会共同体がある。
この形は、災害の多い日本においては、どうしても採らざるを得ない形であると思います。
これが縦軸です。
そして地域横断的な、国のため、地域のための様々なコミュニティがある。
おそらくそれはネットを通じた人々の集合体となるのではないか。
これが横軸です。
そして縦軸、横軸ともに、ちゃんとした社会的に認められたコミュニティを形成していく必要があります。
残念なことに、いまの日本では、その縦軸に関しては法的整備がされていますが、横軸に関する法制度上の整備はまったくありません。
このあたりは、一考に値することではないかと愚考する次第です。
我々はいま、これまでにない、まったく新しい共同体の創設の必要に迫られています。その共同体とは、悪いことをしたり、人に迷惑をかけるようなことがあれば、そのコミュニティの恥と呼べるようなものです。
それは情報化社会にあって、これまでとはまったく違う、新たな共同体の形となっていくものと思われます。
その新しい時代の新しいコミュニティに入れるかどうかは、そのままその人の生きざまにもつながっていく。
ワクワクする素晴らしい未来が、いまやってこようとしています。
お読みいただき、ありがとうございました。

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