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日本書紀講義1 清陽(すみあきらか)
日本書紀講義2 国之常立尊
日本書紀講義3 創生の男女神
日本書紀講義4 磤馭慮嶋(おのごろじま)
日本書紀講義5 陽神左旋・陰神右旋
日本書紀講義6 陽神左旋・陰神右旋(修正版)
新型コロナで、閉塞感の漂う日々ですが、だからといって気持ちを重く濁ったものにしてはいけません。
助かりたいと思うなら、清く明るく日々を過ごすことです。
そういうことが日本書紀の冒頭に書いてあります。
そこで日本書紀の講義をブログに不定期ですが、書いてみたいと思います。
これは、拙著『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』をさらに補強するものです。
日本書紀が元正天皇に献上されたのが、西暦720年のことで、それはちょうどいまから1300年前のことです。
実は、その翌年(721年)から日本書紀は、貴族の子女たちの教科書として使われるようになりました。
教育の仕方は、師匠が日本書紀を《大和言葉》で読み、その意味を講義するというものです。
こうして日本書紀を学んだ子たちは、成人して国司として地方に派遣され、そこで地方の豪族の子女らに講義を行いました。
そして、そこで学んだ豪族の子女たちが成人して、地方の地主の子女の教育にあたり、数十年の間に日本書紀は、我が国の教育の中心的柱として、完全に日本国内に普及していくことになりました。
こうして1200年の時が経ち、日本書紀は完全に我が国の精神的支柱として、あるいはアイデンティティの根幹を形成しました。
つまり、日本書紀を学ぶことは、そのまま我が国の古来からの精神的支柱、あるいは日本のアイデンティティを学ぶことです。
日本を取り戻そうとするなら、日本書紀を学べ!です。
なぜなら日本的アイデンティティとは、教育と文化による高い民度であり、それがいまに続く第41代持統天皇の御意志であり、日本の形であり、日本書紀によって形成されたものだからです。
今回は第一回として、日本書紀の冒頭の書き出しを学びます。
拙著『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』と併せて読まれると、より一層、理解が深まると思います。
はじめに原文を七五読みし、次いで現代語訳、解説とすすめていきたいと思います。
***
いにしへの 古
あめつちいまだ わかれずに 天地未剖
かげあきらかも わかれずに 陰陽不分
とりのこのごと こんとんの 渾沌如鶏子
ひろがるうみに きざしあり 溟涬而含牙
すみてあきらか なるものは 及其清陽者
うすくたなびき あめとなり 薄靡而為天
おもくてにごり たるものは 重濁者
つつひてつちと なりにけり 淹滞而為地
くはしきたへは ひろがりて 精妙之合博易
おもくにごるは かたまりがたし 重濁之凝竭難
ゆへにさきには あめがなり 故天先成而
のちにはつちが さだまりぬ 地後定
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《現代語訳》
大昔、天地がまだ分かれていなくて、陰陽もまた分かれていなかったとき、混沌としたなかに、ほのかな兆(きざ)しがありました。
その兆(きざ)しの中の清(すみ)て陽(あきら)かなものは、薄くたなびいて天となりました。
重くて濁(にご)っているものは、停滞して地(つち)となりました。
美しく言いようもなく優れたものは広がりやすく、重くて濁ったものは固まりにくかったため、先に天が生まれ、後に地が定まりました。
*
古典を読むとき、現代語訳だけを読んでわかった気になると、たいせつなメッセージを見失います。
その意味では、現代語訳を付けるよりも、解釈だけを先に述べた方が、かえって理解のたすけになるといえるかもしれません。
けれども問題は、多くの解説書が(残念なことに)誰かが現代語訳したものから、解説を加えようとしていることです。
すでに現代語訳した時点で、たいせつな意味が失われたり、ズレたりしているのです。
ズレたり失われたりしているものから再解釈をすれば、ズレは余計に拡大し、意味も違ったものになってしまいます。
古典文学について、こうしたことはかなり数多く行われています。
日本文学が好きで、せっかく大学まで行って4年間古典国文学を学んだのに、つまらない解釈しかできなくなってしまうのは、このためです。
大切なことは、常に「原点に還る」ことです。
ならば、やはり原文が大事です。
けれど原文は、日本書紀に関して言えば漢字ばかりで、一見したところ、意味不明です。
ところが、不思議なことに、大和言葉で七五読(しちごよ)みすると、なんとなく感じるものがあります。
これは日本人の不思議な特徴です。
さて、日本書紀には、古事記のような前文がなく、いきなり本文として、冒頭の言葉「古天地未剖(いにしへの あめつちいまだ わかれずに)」から始まります。
ここで「天地がわかれる」に、原文は「剖」の字を用いています。
「剖」は解剖などに用いられる字で、刃物を使って2つに切り裂くことを意味する字です。
つまり、天地はもともとは一体のものであったけれど、それが後から2つにバッサリと刃物で切り裂くように分かれたわけです。
どのように分かれたかというと、陰陽(おんみょう)に分かれた。
陰陽は「いんよう」とも読みますが、この記述の元になっているのが陰陽思想です。
陰陽思想は、チャイナから渡来してきたものと言われますが、チャイナでは易経も詩経も五行思想も大極思想も、この陰陽を軸として展開されています。
つまり、それらの思想が生まれる前から存在した考え方であるということで、広く東アジア全体に太古の昔からあったものということになります。
その東アジアには、当然、日本も含まれます。
この陰陽思想で重要なことは、ものごとを善悪で分ける善悪二元論とは異なるということです。
陰と陽は、両方があってはじめてひとつであって、両者が調和することで、はじめて自然の秩序が保たれると考えられてきたのです。
つまり陰陽は、2つの異なるものの調和を意味する思想であるという点に、注意が必要です。
ですからおおもとの時代には、陰陽はまだ分かれていなくて混然として一体です。
それが徐々にニワトリのタマゴをかき混ぜたような状態になり、そのなかに、ほのかに「きざし」が生まれるわけです。
日本書紀は、この混然とした状態を「渾沌(こんとん)」と書いています。
「渾」という字は、氵(水)+軍(まとまる)で、水がコンコンとまとまって湧いてくる様子の象形です。
ですから「渾沌」は、「混沌」と異なります。
「渾沌」は、コンコンと湧き出る水が混ざり合う様子です。
「混沌」は、そこに溜まった水が混ざり合う様子です。
陰陽は、はじめニワトリのタマゴをかき混ぜたように混ざっていたけれど、それは、汲んでも尽きない湧き水のように次から次へと湧き上がるものであったわけです。
そして「溟涬而含牙(ほのかにきざし ふくめをり)」と、「きざし」のことを「兆(きざ)し」ではなく、「牙(きざ)し」と書いています。
「牙」という字は、牙の上下が交わる姿の象形です。
つまり、陰と陽は、はじめから一体になることを前提に発生していると書いているわけです。
決して陰陽が互いにキバを向いて対決し合うということを前提としていないことに注意が必要です。
すべて、調和が大前提なのです。
そのうえで、「清陽なものが薄くたなびいて天となった」と続きます。
「清陽」は、「すみあきらかなるもの」、あるいは「きよくあきらかなるもの」と読みます。
「清(きよ)い」は澄み渡っていて清潔な、穢れのない様子です。
「陽」は、「ひなた」を意味する字で、あかるさ、あたたかさを意味します。
つまり「清陽」は、穢れがなくて、あたたかな様子です。
その「清陽」が天になり、重くて濁ったものが地になります。
ですから地で生活している我々は、常に重さや濁り(つまりそれが穢れ)とともにあります。
そしてそれらを祓ったとき、神々のおわす天につながることができるわけです。
重濁に飲み込まれてしまってはいけないのです。
そのために、祓いがあります。
けれど、祓っただけでは、天につながることができない。
そこに「あたたかさ」と「あかるさ」が必要なのです。
ですから、せっかく、お祓いや水行などで穢れを祓っても、心が重く濁っていれば、天につながることはできません。
どんなときでも、明るく、あたたかく、笑顔で日々を送ること。
清潔な暮らしを心がけること。
そうすれば、コロナウイルスだって、避けて通ってくれるのです。
お読みいただき、ありがとうございました。

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