奴婢は、訓読みすれば「奴(やっこ)と婢(かかあ)」です。
奴(やっこ)というのは、朝廷では下級官吏のことで、婢(かかあ)もまた同じです。
地方豪族であれば、奴婢(やっことかかあ)は、やはりその地方豪族の家で働く下級職員です。
つまりいまで言うなら、奴婢というのは、国家公務員や地方公務員のことを言います。


写真のような国といっしょにされたくない。
20200219 奴隷
画像出所=https://www.wikiwand.com/ja/%E5%A6%93%E7%94%9F
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日本は歴史を通じてslaves(奴隷)、slavery(奴隷制)が全く存在しなかった国です。
このような意見の発信をすると、外国人から、徹底的にこれを否定する(受け入れない)という反応が帰ってくることがあります。
それもそのはずで、彼らはそれが文化です。
死の5段階受容説というのがあって、人は自分が死ぬのだという衝撃的な事実に出会ったとき、ほぼ必ず同じ行程を経ていくとされます。
簡単に申し上げると、次の5段階です。
1.否認:頭では理解しようとするが、感情的にその事実を否認している段階。
2.怒り:「どうして自分がこんなことになるのか」というような怒りにとらわれる段階。
3.取引:神や仏にすがり、死を遅らせてほしいと願う段階。
4.抑鬱:回避ができないことを知る段階。
5.受容
これは「死の受容」プロセスを研究した精神科医にエリザベス・キューブラー=ロスの5段階説ですが、死に限らず、衝撃的な事態にであったときの反応は、ほぼこの形になると言われています。
欧米人の場合、こうした反応がやや露骨に出る傾向があるのですが、日本人の場合は、最初の「否認・孤立」が起きても、言葉や仕草、態度の上では、これをやや曖昧にする傾向があります。
たとえば医師からガンの告知をされ、余命何ヶ月と言われたとき、日本人は内心では必死にその事実を否認するのですが、心配した家族が「大丈夫?」と聞けば、笑顔で「ああ、これくらい大丈夫さ」と答える。
「どうして自分がこんなことになるのか」という怒りよりも、むしろ悲しみの気持ちの方が大きいし、悲しくても人前では涙を見せずにいようとする。
神仏にすがるにしても、取引よりも、むしろ勇気をくれと願う。
鬱になっても、笑顔とやさしさを絶やさない。

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つまり欧米人が
「否認→怒り→取引→抑鬱→受容」
というプロセスをたどるのに対し、日本人の場合、すくなくとも外見上は、
「笑顔→勇気→悲しみ→感謝→受容」
という段階になることのほうが多いようです。
これは日本人が、自分のことよりも周囲の人を気遣う特質を持つからで、ですから外国の人と議論していて、彼らが相手の気持ちを気遣わずに、いきなり頭ごなしに「否認・否定」をしてくると、それだけで面食らってしまうことが結構あったりします。
けれどたとえばフランス人などは、議論すれば必ず最初の答えは「ノン、おまえは間違っている」です。
たとえそれが肯定的な事実であり、自分も賛成のことであっても、人から言われたら、その瞬間に「ノン」と反応します。
それはそういう文化だからです。
ですから外国人と議論するときに、彼らが最初に「NO」と否認してきたとしても、そこで怯んではいけない。
彼らはそれが文化なのだと心得て、相手が怒り出すまで、事実を主張し続け、抑鬱にまで追い込んではじめて彼らは議論を受け入れるのです。
日本人だと、はじめは笑顔でとっつきやすく、感謝まで進んでも、最後の受容段階に至らずに保留にされてしまうことが結構あるので、どちらが気難しいといえるのかは、なんともいえません。
さて、話が大幅に脱線してしまいましたが、奴隷(slave)について議論するには、まず奴隷の定義からはじめなければなりません。
奴隷(slave)というのは牛馬と同じで、所有者の動産としての所有物とされる人のことをいいます。
所有物、つまり物ですから、そこに人としての名誉、権利・自由はありません。
そして動産ですから、譲渡や売買の対象となります。
そしてこれを許容する社会制度が奴隷制(slavery)です。
ところが我が国では、神話の昔から一般の民衆は、国家最高権威である天皇の「おほみたから」です。
所有物という意味においては、なるほど天皇の所有物という関係になるのですが、その天皇は、所有者としての権力行使をすることはありません。
民衆に対して権力行使をするのが権力者ですが、その権力者は、全員が天皇の部下です。
つまり権力者は、天皇の「おほみたから」が、より豊かに安心して安全に暮らせるようにしていくことが、権力を与えられた意味となります。
ですから日本の民衆は、天皇という存在によって、権力からの自由を与えられ、自己の名誉を育み、一定の地位や権利を享受することができる民として、長い歴史を過ごしてきています。
つまり、歴史を通じて我が国には、奴隷も奴隷制も存在しなかったのです。
このように書くと、
「生口(せいこう)とか奴婢(ぬひ)とかがいただはないか」
という方がおいでになります。
なるほど「生口」については、『後漢書』- 107年(後漢永初元年)に当時の倭国王帥升らが後漢の安帝へ生口160人を献じたこと、 『魏志倭人伝』に倭王卑弥呼が239年(魏景初2年)に魏明帝へ男生口4人、女生口6人を、243年(魏正始4年)に魏少帝へ生口を献じたこと、その後継者の台与(とよ)も248年に生口30人を魏へ献じたことなどの記載があります。
だから古代の日本には奴隷がいたではないかというのですが、「生口」というのは、生きた人間のことを言います。
外交交渉にあたって、無教養で言葉も通じない奴隷を献じるとは考えにくいことです。
むしろ相手国に侮られないためには、教養があり、男であれば武芸にも秀で、女性であれば教養が高くて見目麗しい人を送ることになるし、そのような人材は、奴隷という概念からはほど遠いものです。
むしろ、後漢や魏の王の側近として役立つ優秀な人材を、本人も納得の上で送り込んだと考えるべきで、いわゆる所有物でしかなく、教養もないスレイブを送ったと考える方が無茶な話です。
もし、このときの生口が日本が送り込んだから奴隷だというのなら、国際社会で活躍する日本の外交官は、まるごと奴隷ということになってしまいますし、映画の007もまた奴隷だということになってしまいます。
また三国志魏志倭人伝に卑弥呼が亡くなったとき100人以上の奴婢を殉葬したと記録にあるし、また蘇我氏物部氏の争いのときに聖徳太子が大連(おほむらじ)の首を切ってその子孫を四天王寺の寺奴婢としたという記録もあります。
ところが奴婢は、訓読みすれば「奴(やっこ)と婢(かかあ)」です。
奴(やっこ)というのは、朝廷では下級官吏のことで、婢(かかあ)もまた同じです。
地方豪族であれば、奴婢(やっことかかあ)は、やはりその地方豪族の家で働く下級職員です。
つまりいまで言うなら、奴婢というのは、国家公務員や地方公務員のことを言います。
下級官吏ですから、売買の対象になることはありましたが、それさえも持統天皇4年(690年)には全面禁止となっています。
また律令制のもとでは、正当な理由なく奴婢を殺した家長は流罪、罪なき奴婢を殴った者は懲役3年です。
これはどうみても、西洋や東洋社会でいう奴隷(Slave)とは程遠い扱いです。
要するに歴史を通じて、我が国には奴隷はいなかったのです。
それが日本の国柄です。
半島とは違うのです。
お読みいただき、ありがとうございました。

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