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| 歳末に、のんびりとしたテーマで恐縮なのですが、今回は誰でも和歌を詠める超簡単な方法をご紹介してみようと思います。 |

画像出所=https://plaza.rakuten.co.jp/nihongaka/diary/201203240000/
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画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)
歳末に、のんびりとしたテーマで恐縮なのですが、今回は誰でも和歌を詠める超簡単な方法をご紹介してみようと思います。
和歌といえば、五七五七七で詠むものと決まっています。
有名な古典和歌としては、たとえば山部赤人の
田子の浦ゆ
うち出(い)でてみれば
白妙(しろたへ)の
富士の高嶺(たかね)に
雪は降りつつ
なんていう歌があります。
この歌は、国語の教科書でも紹介されている歌なので、聞いたことがあるという方も多いかと思います。
実はこの歌から、次のような歌が生まれています。
難波門を漕ぎ出でて見れば神さぶる
生駒高嶺に雲ぞ棚引く(大田部三成《万葉集》)
わたの原こき出でてみれば久かたの
雲ゐにまがふ沖つ白浪(藤原忠通《詞花集》)
初霜のおき出てみれば白妙の
衣手さむき月の影かな(道昭《新千載》)
深川を漕ぎ出でて見れば入日さし
富士の高根のさやけく見ゆかも(田安宗武)
これらは「本歌取り」といって、古典和歌をモチーフにして、その古典和歌のイメージや歌意に重ねて、自分の言いたいことを詠んだ歌です。
実は、他にもたくさんある。

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ですからたとえば同じく山部赤人の歌を本歌取りして、
令和の世
うち出でてみれば
白妙の
筑波の山に
雪は降りつつ
などのように、今度は由比ヶ浜や富士山ではなく、令和と筑波にひっかけて歌にすることなども簡単に出来てしまうのです。
ちなみに古来、筑波山は男女の同衾をあらわす山として有名です。
これは山頂が二つあり、男女がひとつ布団に寝ている姿に山の形が似ているとされたことからきているものですが、そうすると令和は「神々の前でかしずく心で人々が和をなす」という意味、筑波が男女を意味しますので、もとの歌から意味が少しだけ離れて、
「和を大切に思って世間の荒波に出てみたけれど、男女の仲というのは、雪のように純白だけれど、なかなかに、冷たい雪のようなものですなあ」
などといった意味の歌になるわけです。
もとの山部赤人の歌は、ひとことでいえば、「噴煙をあげる富士山を見て、天下一のこの富士から噴煙がなくなれば(日本から戦乱がなくなれば)、もっともっとずっと良い国になるのになあ」といった国家観を詠んだ歌です。
それを単純に私などのようなモテナイ男の愚痴に詠み替えてしまって歌にしてしまっているわけですが、このような「本歌取り」は、古典和歌さえ覚えれば、誰でも簡単に良い感じの和歌を詠むことができるということで、実は、江戸時代に大流行しました。
そしてこうすることで、たくさんの良い歌が生まれたのですが、ただ、残念なことも生じました。
というのは、本歌取りする際に、もとの古典和歌を、どのような意味にとらえるかは、それぞれの自由とされていたことです。
たとえば、上にご紹介した歌の
深川を漕ぎ出でて見れば入日さし
富士の高根のさやけく見ゆかも
の田安宗武は、江戸時代の八代将軍徳川吉宗の次男であり、松平定信の父親で、摂津・和泉40万石の大大名に出世した人です。
賀茂真淵を幕府に推薦し、また歌道に関する研究書をいくつも著すなどした人でもある。
ところがこの歌では、赤人のもとの歌を、単に風光明媚な景色を詠んだ歌として、本歌取りしているかのように見えます。
なるほど深川から見る富士山も美しいもので、そのように解釈することももちろんそれはそれで結構なことなのですが、山部赤人のこの歌は、下級官僚であった赤人が、歌で国家観を論じているところに、本来の歌意があります。
どういうことかというと、田安宗武は、江戸の町並みから見える富士山の清々しさ(さけけし)に、江戸の人々の豊かで平和な暮らしを重ねることで、武士とは民の安寧を願うものという姿勢を歌に込めているわけです。
そしてそういうものの見方や考え方ができる人だからこそ田安宗武は、単に吉宗の子だからというだけでなく、その人柄・人格によって、40万石を与えられる大大名になっているのです。
ところが、このようにして詠まれた歌を、単に「深川から見た富士山はきれいだね」としてのみ鑑賞すると、本歌となった山部赤人の歌もまた、由比ヶ浜の景色の良さを詠んだ歌に見えてきてしまいます。
こうしたことが、実は江戸時代に繰り返しあったおかげで、明治に入って江戸時代の全否定、欧風化の大歓迎という社会現象のもとで、江戸時代の和歌のみならず、古典和歌までも、程度の低い意味のない歌であるかのように論評されるようになってしまいました。
でも冷静になってみれば、山部赤人の歌を見れば「雪は降りつつ」とあり、雪が降っていれば富士山も景色も見えないことを考えれば一目瞭然で明らかなことですし、ではどうして見えないはずの富士山がここで歌われているのかを考えれば、歌の持つ深さが自然とわかるものです。
実際には、まことに残念なことに、明治以降現在に至るまで、国文学界は、明治期の古典和歌や江戸和歌の批判に終始し、本来の歌の意味を忘れてしまったこと。
そうすることで、本来の日本文化としての和歌が、なにやらくだらないものにされてしまったことは、本当に残念なことに思います。
というわけで、誰でも簡単に和歌が詠める方法。
古典和歌を本歌取りして、自分なりの楽しみの歌を作ってみること。
たとえば紫式部の
心あてにそれかとぞ見る白露の
光そへたる夕顔の花
紀貫之の
春くれば宿にまづ咲く梅の花
きみが千年(ちとせ)のかざしとぞみる
などを本歌取して歌にするとしたら、みなさんなら、どのような歌になさいますか?
たとえば、
心あてにそれかとぞ見る山茶花(さざんか)の
赤き花弁に春の陽が降る
新春の宿にまず咲く山茶花に
君の千年(ちとせ)の幸せ願ふ
なんて、ちょっと文字を入れ替えただけで、簡単に和歌が詠めてしまいます。
現代日本人にとっては、和歌を詠めなどと言われると、テニヲハがどうしたとか、とてもむつかしいことのように思っている人が多いです。
けれど古典和歌をモチーフにして本歌取して歌にするなら、実に簡単に和歌ができてしまいます。
そしてこうなると、和歌を詠むこと自体は、なんてことないことにすぎなくなりますから、今度は次のステップとして、その歌にどのような意味を込めるのかが、大切になってくるし、同様にその歌が、どのような意図をもって詠まれたのかを察するという、ちょっと深みのある知的な遊びへと、和歌が進歩することになります。
そして本来の和歌のおもしろさは、実は、その深みの部分にこそあります。
昨今歌道を語る人の多くが、やたらにテニヲハばかりを云々する風潮がありますが、実は、そのようなことは二の次、三の次でしかないし、むしろ害毒でしかありません。
福沢諭吉が「学問のすゝめ」で、次のように語っていますが、その通りと思います。
****
学問とは、ただむずかしき字を知り、解げし難き古文を読み、和歌を楽しみ、詩を作るなど、世上に実のなき文学を言うにあらず。
これらの文学もおのずから人の心を悦よろこばしめずいぶん調法なるものなれども、古来、世間の儒者・和学者などの申すよう、さまであがめ貴とうとむべきものにあらず。
古来、漢学者に世帯持ちの上手なる者も少なく、和歌をよくして商売に巧者なる町人もまれなり。
これがため心ある町人・百姓は、その子の学問に出精するを見て、やがて身代を持ち崩すならんとて親心に心配する者あり。
無理ならぬことなり。
畢竟(ひっきょう)その学問の実に遠くして日用の間に合わぬ証拠なり。
されば今、かかる実なき学問はまず次にし、もっぱら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり。
譬(たとえ)ば、いろは四十七文字を習い、手紙の文言(もんごん)、帳合いの仕方、算盤(そろばん)の稽古、天秤(てんびん)の取扱い等を心得、なおまた進んで学ぶべき箇条ははなはだ多し。
地理学とは日本国中はもちろん世界万国の風土(ふうど)道案内なり。
究理学とは天地万物の性質を見て、その働きを知る学問なり。
歴史とは年代記のくわしきものにて万国古今の有様を詮索する書物なり。
経済学とは一身一家の世帯より天下の世帯を説きたるものなり。
修身学とは身の行ないを修め、人に交わり、この世を渡るべき天然の道理を述べたるものなり。
これらの学問をするに、いずれも西洋の翻訳書を取り調べ、たいていのことは日本の仮名にて用を便じ、あるいは年少にして文才ある者へは横文字をも読ませ、一科一学も実事を押え、その事につきその物に従い、近く物事の道理を求めて今日の用を達すべきなり。
右は人間普通の実学にて、人たる者は貴賤上下の区別なく、みなことごとくたしなむべき心得なれば、この心得ありて後に、士農工商おのおのその分を尽くし、銘々の家業を営み、身も独立し、家も独立し、天下国家も独立すべきなり。
学問をするには分限を知ること肝要なり。
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