大東亜戦争において、日本は焼け野原になりましたけれど、このとき原爆の開発を終えていながら、その行使をしなかったこと、そして日本の戦いによって、世界から植民地がなくなったこと、その日本は、いまだに米国の保護国のままの状況にあるし、いわゆる敗戦利得者の天下のような状況下にあります。おそらく令和の時代が終わる頃になると、それらの全てが、結果として悪は駆逐され、日本人にとって、最も良い選択が行われていく。歴史は繰り返します。
日本は必ず良い方向に向かいます。


泣きそうなお顔の僧形の足利義満
20191225 足利義満
画像出所=https://ironna.jp/article/6791
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画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)

鎌倉幕府が崩壊して、室町幕府が出来、それが戦国時代となって織豊政権の時代に至ったという歴史の流れは、日本人の常識となっていることです。
ところが、実におかしなことに、
1 どうして鎌倉幕府が崩壊したのか
2 室町幕府があったのにどうして戦国時代になったのか
3 秀吉は、どうして将軍にならずに朝廷の臣下である関白太政大臣になったのか
といった、歴史を知るにあたってとても重要な要素になると、聞かれてはじめて
「そういわれてみれば、そうだね?!」
「あら、考えたことなかったわ」
などといった反応が返ってくることが多いようです。
歴史というのは、個々の事実のことを言うのではなく、その個々の事実がどうしてそうなったのかを、ストーリー仕立てにして記述したものを歴史と言います。
つまり「どうしてそうなったという筋書き」が歴史なのです。
小学校、中学校、高校、人によっては大学までと、通常は3回、人によっては4回、くりかえし学校で日本史を習っていながら、その「どうしてそうなったという筋書き」が見えていないということは、実は歴史を学んでいないということを意味します。
自国の歴史なのです。
これはもったいないことです。


ある程度、この「どうしてそうなったという筋書き」を話せる人も、その知見は、学校で学んだ歴史に基づくというよりも、歴史小説やテレビや映画などの時代劇の解釈に基づいていることが多いようです。
ところがその小説や時代劇というのは、実は人物史であって、これまた歴史とは異なるものです。
早い話、いまの安倍内閣について、反安部の立場で活動している人にスポットライトを当てて歴史を記述するのか、安倍内閣支持の立場の人にスポットライトを当てるのかによって、おそらく180度違う筋書きが出来上がります。
つまり、人物史は、歴史を担(にな)うものであっても、歴史にはならないのです。
そこで上記の1〜3について、概括してみます。
まず鎌倉幕府の崩壊についてですが、これを元寇のときの恩賞が薄かったためと言う人がいますが、間違いです。
二度目の元寇(弘安の役)が1274年です。
鎌倉幕府の崩壊が1333年です。
およそ60年経っているのです。
これは「大東亜戦争の終戦が、平成の政権を崩壊させた」と述べているようなもので、時点がまるで合いません。
ではどうして崩壊したのかというと、実にシンプルな話で、鎌倉政権の相続制度が原因です。
鎌倉政権の相続制度は、源氏の制度を踏襲したもので、元の大帝国と実は同じシステムです。
それは、「子供達に均等に財産を分与する」というものです。
ですから、子供が4人いれば、財産は4等分されます。
このシステムは、現代(つまり戦後の)相続制度と同じシステムですが、この制度を用いると、どんなに広大かつ巨額の財産があったとしても、6代目には相続できるだけの財産が失われてしまいます。
だいたい一世代は25年ですから、150年経つと、出発地点にはあったはずの財産も国も体制も失われてしまうのです。
とりわけこの時代において、財産といえば、田んぼのことを言いましたから、後世の人は、これを「田分け」といって、戒めにしています。
ちなみに戦後日本という体制も、すでに崩壊が始まっているといいますが、戦後に財を築いたいわゆる敗戦利得者も、あと何年か経つと、すべての財は失われます。
相続財産の均等配分方式というのは、そういうシステムなのです。
ですから戦前の名家も、いまはほとんど崩壊。
戦後の農地開放で巨額の財を得た農家も、2100年には財が失われることになります。
と、衝撃的な発言になってしまいましたが、私達が歴史から学ぶべきことは、まさにそういうことなのではないかと思います。
さて「田分け」によって財政の立ち行かなくなった鎌倉幕府は、ついに借金帳消しの徳政令を発布したりしますが、これは現代用語に置き換えたら政府の自己破産です。
そして財政の信頼を失うことは、そのまま政権の崩壊に繋がります。
いま、中共政府や、その影響下にある韓国政府に対して行われている経済の締付けというは、まさに彼らの財政を破綻させようとする動きで、財政が破綻すると、国は崩壊します。
ちなみに韓国の場合、一度はIMFの管理下に入りますが、このときは日本政府が韓国財政を手助けすることで、国家の崩壊をギリギリ踏みとどまらせました。
しかし文在寅政権について、日本政府やそれ以外の諸国の政府がこれを助けることはなく、つまり韓国はいま崩壊の道を真っ直ぐに進んでいることになります。
日本が助けてくれないなら、中共に助けてもらおうと、彼らは画策していますが、韓国を中共が保護国にした場合、中共は韓国崩壊の余波をまともに受けて中共政府まで共倒れになる危険があります。
だから中共はいま、韓国を突き放しています。
また中共は、財政破綻を見越して、日本に助けてもらおうと、習キンピラさんが来日を画策していますが、果たして日本が中共政権を助ける理由があるのかどうか。
中共は、日本国内の土地を買いあさり、北海道では、その買った土地にロシアからヘリを使って武器を搬入して、購入した土地の治外法権や、内乱を匂わせることで、日本政府に言うことを聞かせようと必死の努力をしていますが、仮に内乱状態に決起しようとしても、いまは昔と違います。
その陣地(基地)となっているところに、いまはミサイル一発で、すべてを破壊できる時代なのです。
ですから、平時なら彼らの画策は脅威ですが、非常時となった瞬間、彼らの活動は一瞬にして水疱に帰します。
と、話がものすごく脱線してしまいましたが、要するに鎌倉幕府は、田分け相続によって、政権が崩壊します。
次に興った足利政権は、ですから当然のこととして、細かく分割された土地を、大名主のもとにすべて統合するという政策を打ちました。
これが「田頼り」で、まさに「たより」になる政策だったわけです。
ところが人の良い足利尊氏は、将軍家の土地まで、ことごとく大名主たちに分配してしまいました。
将軍家というのは、お金のかかる仕事です。
足利幕府は、その出発から、貧乏政権になってしまったのです。
その状況を打破するために、三代将軍の足利義満は、明国との交易を画策します。
明国との交易は、たいへんに儲かる。
当時の記録がありますが、だいたい一度の交易船の往復で、財産が400倍になったそうです。
しかしそのためには、明国に朝貢しなければならないことになりました。
こうして足利義満は、明国皇帝から「日本国王」の称号を受けます。
たった一代で、足利義満は、黄金の寺院(金閣寺)を建てることができるほどまでに、足利幕府の財政を立て直してしまいます。
それはそれで、すごいことだと思います。
しかし日本は古来、天皇の知らす国です。
天皇がおわすのに、明国皇帝の子分の日本国王がいる。
このことが、財力さえあれば、何をしても構わないという風潮を生みます。
こうして我が国は、応仁の乱から戦国時代を迎えます。
全国に戦国大名が生まれ、貴族の荘園を力づくで奪い取って、財を増していきました。
これをひとつに統合したのが、織田信長です。
信長の織田家は、もともと弾正の家柄です。
弾正というのは、世の不正を視たならば、それをまっすぐに正すことを使命とする官職です。
信長の有名な「天下布武」は、武力によって天下を統一するのだという人がいますが、言葉の意味を履き違えています。
この時代における「武」は、「たける」という意味の言葉であって、「たける」は、歪んだものを、竹のように真っ直ぐにただすことをいいます。
つまり「天下布武」は、世の中のゆがみを、まっすぐに正すことを布(し)く、という意味の言葉です。
まさに弾正家ならではの言葉といえます。
その信長が本能寺に倒れたあと、信長の意思を継いだ秀吉は、武力によって将軍職を射止めるのではなく、将軍よりも身分の高い朝廷の臣下となることで、あらためて日本が天皇の知らす国であることを明らかにしました。
いただいた役職の関白太政大臣というのは、官位としては最高の位です。
農民出身の秀吉が、国内最高の位にまで昇ったということは、どれだけ庶民に夢を与えたことでしょう。
その代わり秀吉は、農民に刀狩りを実施して、武力を奪い取っています。
武力を持たずに出世しようとするなら、勉学に勤しむほかはない。
そういう国作りをしていくわけです。
さて、ここでみなさんにひとつ、大切なことをお話しなければなりません。
それは室町幕府三代将軍足利義満のことです。
足利義満は、日明交易を実施するために「日本国王」の称号をもらい、日本を戦国時代へと導いた人物です。
本人は、財政のためにたいへんなことをしてしまったという自覚から、出家して僧侶になったりもしているくらいですし、戦国時代の到来によって、多くの命が失われたわけですから、なるほどその責任や大というべきものです。
ところが、一方に、儲かる仕事としての日明交易があり、一方に力さえあれば何をやっても良いという価値観の混乱を生んだわけです。
そうなると、幕府が交易でそんなに設けているなら、俺たちもやろうじゃないかとばかり、力をつけた諸大名たちが、それぞれ勝手に交易を始めます。
結果、諸大名達は、それぞれが大金持ちになっていくのです。
それは、たとえば、鉄砲を持ってやってきたポルトガル人から、鉄砲1丁を、なんと5千万円という大金で、しかも2丁も買い、買った鉄砲のうちのひとつを、惜しげもなく分解してしまった。
そんな無茶苦茶をしたのが、種子島という小さな離島のお殿様であったという一時をもってしても明らかです。
そんなことができてしまうくらい、大名たちはお金持ちになっていたのです。
そして全国の大名たちは、それぞれが武装し、戦いを重ねることになりました。
この結果何が起きたかというと、数々の戦闘経験によって高い戦闘経験値を持ち、しかも財政的に見事なまでに豊かな戦国大名という存在が生まれたわけです。
そして気がつけば、日本は世界の鉄砲の50%を保有する世界最強の武装国家となり、しかもその武力は、当時世界を席巻していたスペインやポルトガルをはるかに凌ぐものとなっていました。
もし足利義満が、国内の富と混乱を招かなければ、日本はあっという間にスペイン、ポルトガルの植民地となっていた可能性は、否定できないのです。
ところが秀吉の時代になると、秀吉はスペインの使節団に、堂々と、
「スペイン王に、我が国に朝貢させよ」
とのたまい、スペインの特使は、まさかそれをそのまま本国に報告するわけにも行かなかったといった事件が起きるほどまでに、日本の持つ力は強大なものになっていたのです。
だから日本は、植民地化されなかった。
だから日本は、次の徳川政権のもとで、鎖国をすることまでできるようになったのです。
植民地支配という強力な外圧のなかにあって鎖国を行うということは、相当な武力と食料自給力がなければできないことです。
そうして考えてみると、足利義満の、いわば売国政策が、結果として日本にとっては最良の選択となっていったということがわかります。
日本の歴史を振り返ると、白村江事件の教訓が活かされて国がひとつにまとまり、平安末期に源平戦乱の時代に苦しんだ日本は、戦(いくさ)慣れした武家の時代の到来によって元寇を跳ね返し、戦国時代の到来によってスペイン・ポルトガルの植民地圧力を駆逐し、ペリー来航以来の国内の混乱が結果として日本の近代化を招くなど、国難と思えた様々な事件が、あとから振り返ってみると必ず結果として最良の選択になっています。
大東亜戦争において、日本は焼け野原になりましたけれど、このとき原爆の開発を終えていながら、その行使をしなかったこと、そして日本の戦いによって、世界から植民地がなくなったこと、その日本は、いまだに米国の保護国のままの状況にあるし、いわゆる敗戦利得者の天下のような状況下にあります。おそらく令和の時代が終わる頃になると、それらの全てが、結果として悪は駆逐され、日本人にとって、最も良い選択が行われていく。
歴史は繰り返します。
日本は必ず良い方向に向かいます。
そしてそのことは、今度は令和の時代において、世界から「暴力による支配の時代」を終わらせ、「教養と文化による新しい世界」を築く礎(いしづえ)となっていくものと思います。
令和の「令」は、神々のお声の前でかしずく人の姿の象形文字です。
「和」は、稲をあらわす禾偏に口と書いて、同じものを食べることで仲間になることを意味する漢字です。
つまり令和は、神々の前でかしずき、人々が一体になることをあらわす元号です。
平成が始まったばかりの頃の日本は、バブル景気の真っ最中でした。
まさか平成30年間、経済が「平に成る」などと想像した人は誰もいませんでした。
はじまったばかりの令和に、世界がひとつになるなど、誰も想像さえできないことでしょう。
けれど、令和の時代が終わる頃には、なぜかそのようになっていくのです。
私達はいま、歴史の大きな転換点にいます。
お読みいただき、ありがとうございました。

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