宝島社から出ました本日発売の
『2000年の歴史でひもとく日韓「気質」の違い』
室谷克実先生監修で、日韓関係について古代から現代に至るまでが、まるわかりになる本です。
私も巻頭対談で登場しています。お値段も980円とお安く、すごくお勧めです。


人気ブログランキング
応援クリックは←こちらから。いつもありがとうございます。
| 日本では日銀が紙幣を発行し、政府は補助通貨としてコインを発行するという住み分けがなされています。それはなぜでしょうか。 |

画像出所=http://www.setagaya-sc.com/genpinkagirko-na-.htm
(画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)
歳末といえば、いろいろな支払いに追われて、お金がいろいろと忙しくなる時期でもあります。
そこで今日はお金のお話をひとつしてみたいと思います。
我が国では、いま一万円札や千円札のような「お札(紙幣)」と、10円玉や100円玉のような「ジャリ銭(コイン)」の二種類があることは、みなさま御存知の通りです。
そのお札をよく見ると、そこには、
「日本銀行券」
と書いてあります。
一方、ジャリ銭(コイン)の方は、これまたよく見ると
「日本国」
と書いてあります。
これが何を意味しているかというと、いま日本国内で通用している貨幣(お金・通貨)は、
「日本銀行が発行するお札(銀行券)」と、
「日本国政府が発行しているコイン(貨幣)」の二種類があるということです。
ではどうしてその両方のお金を政府が発行しないのでしょうか。
明治のはじめには、実は明治政府がお札を発行していたのです。
それがトップの写真です。
中央に一円紙幣に「大日本帝国政府紙幣」と大きく書かれています。
発行者の名前も、画面左側に「大蔵卿」と赤く書かれています。
ところがこうした政府発行紙幣は実は信用がないとされています。
なぜなら政治は色物と言われるくらいで、色はコロコロと変わるからです。
政治の都合で、紙幣をガンガン印刷することもある。
なにせただの紙ですから、いくらでも刷れるのです。
信用のない権力が、信用のない紙幣を発行しても、それは通貨とはなりえません。
そこでかつては、お金は金属の価値でその裏付けが行われていました。
たとえば江戸時代には、幕府は金や銀を貨幣として用いました。
もっと昔、和同開珎が出来た頃には、和同開珎1枚と、絹一丈が等価で交換となりました。
つまり金や銀を用いることで、幕府の信用だけでなく、金銀の持つ価値を重ねることで、安定した通貨の供給を行っていたわけです。
ところが幕末に、日米和親条約の細則によって、日本から金(Gold)が大量に米国に流出しました。
慌てて幕府は、金の含有量の少ない万延小判を発行することで、この流出に歯止めをかけたのですが、こんどは、幕軍と薩長軍に分けて国内に内戦を仕掛けられ、米国の南北戦争の余り物の中古の軍服や銃や大砲、弾薬を幕軍、薩長軍両方が買わされました。
要するに、日本の幕府をうまく騙して金(Gold)を大量に日本から吐き出させたけれど、それに幕府が気付いてしまったので、今度は、内戦を煽って、仕入れがタダの南軍の装備を日本に買わせることで、もっと日本から金(Gold)を吸い上げようとする策略に、しっかりと日本はハマってしまったわけです。
だいたい世界において、内戦というものは、ドロドロの泥仕合になります。
米国の南北戦争だって、両軍合わせて死傷者90万人です。
ところが日本は、西郷どんと勝海舟が会談して、いともあっさりと江戸城が明け渡され、内戦が終わってしまった。
一部会津の抵抗や、函館の五稜郭の戦い、その他地方ごとに戦いは続いたけれど、南北戦争のような国を二分したドロドロの戦いは回避されてしまったのです。
日本に底なしに戦時用品を売ろうと思っていた米英仏は、おもいきり拍子抜けです。
けれど戊辰戦争までの間に、通貨の裏付けとなる金(Gold)がすでに大量に国外に流出していたために、明治新政府にはお金がない。
そこで明治新政府が発行したのが、紙のお札です。
これが征韓論が湧いて西南戦争があった翌年の明治11年です。
そのときのお札がトップの画像にある紙幣で、絵柄が三韓征伐を行った神功皇后(じんぐうこうごう)です。
要するに時の明治政府は、征韓論に湧く国内世論に、神功皇后を描いたお札を発行することで信用を得ようとしたわけです。
ところが、そこまでしたのに、政府紙幣に信用がない。
なぜなら明治政府に金(Gold)がないとみんなが知っているからです。
ですから両替屋さんたち(いまでいう銀行)も、政府発行紙幣を額面で受け取ってくれない。
半値から4掛けだったそうです。
そこで政府に信用がないのなら第三者機関を作って、そこにやらせようということになってできたのが、明治14年の日本銀行です。
日銀は、翌明治15年に開業し、明治16年には政府や、それぞれの銀行が独自に発行していた通貨を全部額面で回収し、明治17年には、日本に残った「銀」を用いて、日本銀行兌換紙幣を発行します。
つまり金(Gold)はないけれど、銀なら手元にあるから、その銀を裏付けにして紙幣を発行したわけです。
そしてこれによって、日本の通貨はようやく安定を迎えることになります。
この「明治政府発行通貨に信用がなくて額面の半値以下でしか両替商が扱ってくれない」という時代に、せっせと政府発行紙幣を安値で集めていた男がいます。
岩崎弥太郎です。
日銀がその紙幣を、額面で買ってくれるということになったとき、これで弥太郎は大儲けして、時の財閥となりました。
こうしてできたのが三菱財閥です。
誰もがこれを「岩崎弥太郎は先見の明があった」といいますが、真実はそうではなくて、弥太郎は、金(Gold)やシステムのもたらす信用より、「約束を守るという日本という国と日本人」を信じたからだったといわれています。
そのことが三菱の大財閥を生んでいます。
昨今、三菱グループは、何かと叩かれていますけれど、その国を信じ、民族を信じるという創業精神がいつのまにか失われ、「儲け」が重視される体質になってしまったことが、ひとつの原因かもしれません。
困ったときは、創業精神に帰れ、は、古くて新しい言葉です。
頑張っていただきたいと思います。
こうしていまも、日本では日銀が紙幣を発行し、政府は補助通貨としてコインを発行するという住み分けがなされています。
お手元のお札や、コインを見たときに、そんなお話をお子様やお孫さんたちにお正月、してあげたらいかがでしょう。
最後にもうひとつ。
貨幣は、もともとは黄金などの貴金属や家畜などの食べ物などの交換物のことだったものが、これがいまのような通貨に変化した原因は、元の大帝国の立国にあります。
元は、ユーラシア大陸を席巻する大帝国を築きましたが、大陸内にある城塞都市の王は、モンゴル人が就任していました。
その城塞都市の王たちが集うと、酒盛りが始まり、博打などの賭け事が行われたのですが、そうなると、互いに離れた城塞都市同士で貸し借りが生まれます。
一方、元の大帝国は、帝国内の城塞都市の行き来にあたって、もともと相手によって通行税が変わっていたものを、すべて一律にして、通行の便宜を図るとともに、通行証の発行を行いました。
その通行証があれば、どの城塞都市に入るにも、一定の低率な通行税だけで済むわけです。
ユーラシア大陸は、砂漠の大地ですから、水のあるオアシスに城塞都市があり、人は水を飲まなければ死んでしまいますから、どうしても通行しなければならない。
そのときに通行証があれば、楽に城塞都市を行き来できるわけです。
こうなると、その通行証が、独自に取引されるようになり、これが通貨としての価値を持つようになります。
そして城塞都市間同士の決済も、この通行証が用いられるようになりました。
ところが、決済のために、毎度、通行証を運ぶのでは、あまりにリスクが大きすぎます。
そこで発達したのが、民営の為替屋さんで、A都市に200万の借りがあり、B都市に300万の借りがあるなら、BがAに100万払うだけで済む。
こうしたことを代行する業者が出現したわけです。
これが為替屋さんで、後の金融業になります。
元は、滅んだわけではなくて、相続のたびに、王国の版図が分割されて小さくなって消滅していきましたが、この為替屋さんのニーズは、王国が分割されるほどに、ますますその役割を強めました。
こうして、「王国がなくなっても、金融屋は残る」ということが、為替屋さんの発行する通貨の信用となり、これが金銀銅といった貴金属の裏付けを必要としない貨幣の誕生となっていきます。
つまり、国境を越えて存続する為替屋さんの信用が、王国の信用に勝る、という信用創造が行われたわけです。
そしてこの為替屋さんたちは、常に大金を持っていますから、お金の貸付なども行うようになり、これが金融業として発展していきます。
つまり、政府発行通貨よりも、金融機関発行通貨の方が信用性が高いという国際的な仕組みは、こうした歴史を背景に出来上がっていったわけです。
そしてそのことが、いまも「日本銀行券」と、日本国発行通貨の2つになって存続しているわけです。
お読みいただき、ありがとうございました。

人気ブログランキング
↑ ↑
応援クリックありがとうございます。
講演や動画、記事などで有償で活用される場合は、
メールでお申し出ください。
nezu3344@gmail.com

