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江戸時代に描かれた朝鮮通信使一行の図は、まことに豪勢な行列です。なぜ豪勢なのかといえば、朝鮮通信使が立派だったからではありません。幕府が彼らのために、莫大な予算を計上して通信使たちの行列を荘厳したからです。
これまた世界ではありえないことです。普通は、訪問者の側が派手なパフォーマンスをして国威を示すものだからです。


20191008 朝鮮通信使
画像出所=https://www.lmaga.jp/news/2017/11/30972/
(画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)

室町時代から江戸時代にかけて、朝鮮からの特使(朝鮮通信使)が、都合十二回、来日しました。
最終回の十二回目は、対馬に差し止めとなり、日本本土には来ていませんが、初回が正長2年(1429)で、最終回が江戸後期の文化八(1811)年です。
当初の三回は、国交回復や捕虜返還交渉のためとされています。
以降の9回は、いずれも新将軍就任の祝賀のための来日です。
ちなみにこの朝鮮通信使について、最近の韓国の歴史教科書では、家康の開いた江戸幕府が超貧乏であったため李氏朝鮮の知恵と文化を欲しがり、日本から使節の派遣を申し出たと書かれているそうです。
歴史ファンタジーもここまでくるともうお笑い草です。
さて、宝暦十四(1764)年の朝鮮通信使の記録が、いまに残っています。
このときの朝鮮通信使は、徳川家治が第11代将軍に就任したことへの祝賀のための来日です。
その通信使の一行の中に、金仁謙という者がいて、来日したときの模様を「日東壮遊歌」という本にして詳細に書き遺しています。
希少本で、いまでは古本がすごい高値になっていますが、この本の中に、当時のコリアンの官僚が見た率直な日本への感想が書かれています。
そこには次のように書かれています。


********
▼1764年1月22日 大阪
百万軒はあると思われる家の全ては「瓦の屋根」だ。凄い。
大阪の富豪の家は「朝鮮の最大の豪邸」の十倍以上の広さで、 銅の屋根で、黄金の内装だ。
この贅沢さは異常だ。
都市の大きさは約40キロもあり、その全てが繁栄している。信じられない。
チャイナの伝説に出てくる楽園とは、本当は大阪の事だった。
世界にこのように素晴らしい都市が他にあるとは思えない。
ソウルの繁華街の一万倍の発展だ。
北京を見た通訳が通信使にいるが、「北京の繁栄も大阪には負ける」 と言っている。
穢れた愚かな血を持つ、獣のような人間が中国の周の時代に、この土地にやってきた。
そして二千年の間、平和に繁栄し、一つの姓(つまり天皇家)を存続させている。 嘆かわしく、恨めしい。
▼1764年1月28日 京都
街の繁栄では大阪には及ばない。
しかし倭王(天皇)が住む都であり、とても贅沢な都市だ。
山の姿は勇壮、川は平野を巡って流れ、肥沃な農地が無限に広がっている。
この豊かな楽園を倭人が所有しているのだ。 悔しい。
「帝」や「天皇」を自称し、子や孫にまで伝えられるのだ。 悔しい。
この犬のような倭人を全て掃討したい。
この土地を朝鮮の領土にして、朝鮮王の徳で礼節の国にしたい。
▼1764年2月3日 名古屋
街の繁栄、美しさは大阪と同じだ。 凄い。
自然の美しさ、人口の多さ、土地の豊かさ、家屋の贅沢さ、この旅で最高だ。
中原(チャイナの中心地)にもない風景だ。
朝鮮の都も立派だが、名古屋と比べると、とても寂しい。
人々の美しさも最高だ。
特に女性が美しい。美しすぎる。あれが人間だろうか?
「楊貴妃が最高の美人だ」と言われているが、名古屋の女性と比べれば、美しさを失うだろう。
(帰路にて) 名古屋の美人が道を歩く我々を見ている。
我々の一員は、名古屋の美人を一人も見逃さないように、頭を左右に必死に動かしている。
▼1764年2月16日 江戸
左側には家が連なり、右側には海が広がっている。
山は全く見えず、肥沃な土地が無限に広がっている。
楼閣や屋敷の贅沢さ、人々の賑わい、男女の華やかさ、城壁の美しさ、橋や船。
全てが大阪や京都より三倍は優っている。
この素晴らしさを文章で表現する事は、私の才能では不可能だ。
女性の美しさと華やかさは名古屋と同じだ。
*******

これが来日した朝鮮使節の実際の感想として書かれたものです。
この感想が、いまから248年前の半島人の日本を見た感想であり、その感想は日本に来るコリアンにとって、当時もいまもほとんど変わらないといわれています。
そして、自分たちが思っていた「我が国が一番」という認識(認知)と、実際に自分の目で見たときの認識(認知)が、あまりにも不一致(不協和)だったとき、普通なら、人は他国に倣って自分たちも成長しよう、進歩しようと考えるものですが、彼らはそうは考えません。
金仁謙は、このことについて、
「悔しい。
 この犬のような倭人を全て掃討したい。
 この土地を朝鮮の領土にして、
 コリア王の徳で礼節の国にしたい」

と、およそ日本人の常識では考えられない思考を書き残しています。
戦後の日本政府の間違いは、こうした不埒な思考(感情)に走っている半島人に対し、懐柔のために日本がむしろカネや利権や技術を提供したことにあります。
すると彼らは、かえって自分たちの「感情が正当化された」、「自分たちに日本が服従した」と考え、より一層、過激で不可解な行動に走ります。
理屈ではなく、感情がそのように仕向けてしまうのです。
感情というものは、
「低レベルであればあるほど、激しく過激に」
なります。

足を踏んだ、踏まない、言葉遣いが気に食わない、肩がぶつかった、ガンを飛ばされたと同じです。
人は次元の低い感情であればあるほど、過激に走るのです。
斜めにしか物事を見れなくなった人たちの、こうした歪んだ感情には、とにもかくにも関わりをもたないことです。
さて、その朝鮮通信使に、おもしろい絵があります。
京都大学が所蔵している「鶏を盗んで町人と喧嘩する朝鮮使節」の絵です。
この絵は、朝鮮通信使が鶏を盗んで乱闘になっている有名な絵です。

鶏を盗んで町人と喧嘩する朝鮮使節
20191008 鶏を盗んで町人と喧嘩する朝鮮使節

ご覧いただくとわかります通り、白昼堂々の往来で、朝鮮通信使一行が、日本人の町民からニワトリを強奪し、騒ぎになっています。
場所は辻の中央です。
ニワトリを奪おうとする朝鮮通信使たち、
そうはさせじともみ合う町人たち。
足下には明らかに日本人と見られる町民が倒れています。
通信使を押さえつけようとする町民、
ニワトリを奪い取って別な通信使に渡そうとしている半島人・・・。
そうとうな騒ぎの乱闘であったことを、この絵から伺い知ることができます。
日本では、官が民の所有物、たとえばニワトリなどを勝手に泥棒するなどということは、まず考えられません。
なぜなら「官は『おほみたから』のためにある」というのが、官民両方の「常識」だったからです。
しかしそれは、あくまで「日本の常識」であって、「半島の常識」ではありません。
では朝鮮ではどうだったのかというと、明治初期に、日中韓を旅行した英国人女性イザベラ・バードが朝鮮紀行で詳しく書いています。
「彼らは、たいがい内気で、
 わたしたちの姿が目に入ると
 あわてて鶏をひっつかんで
 隠してしまう。
 伝統上、
 両班に求められるのは
 究極の無能さ加減である。
 従者たちは近くの住民たちを脅して
 飼っている鶏や卵を奪い、
 金を払わない。」

(イザベラ・バード「朝鮮紀行」P133~P137)
要するに1392年から1910年まで500年続いた李氏朝鮮では、支配階層である貴族(両班)が、庶民(白丁)からニワトリや卵を勝手に奪うのは、支配者としての「当然の権利」であったのです。
ニワトリや卵だけではありません。
魚も、食べ物も、穀物も、欲しいものがあれば、勝手に奪われました。
目の前にアベックがいて、その相手の女性が気に入れば、奪って持ちかえります。
日本語の「お持ち帰り」とは意味が違います。
幼子を連れた若い母親がいて、その母親が気に入れば、その場で蹂躙する。
日本では「官は民のために」ありますが、半島ではあくまで「民は官のためにある」のです。
上下関係が何よりも優先する。
上に立つ者は下からいくら収奪しても構わない。
それが彼らにとってのあたりまえの常識です。
この傾向は、いまも同じです。
日本では子供に「思いやりのある立派な大人になれ」と教えます。
けれど半島では、
「とにもかくにも人の上に立て」と教えられるのだそうです。
下にいたら何もかも奪われる。
だからどんな卑怯な手を使ってでも上に立つ。
それが彼らの生きる知恵です。
日本とは、根底にある「常識」が異なるのです。
同じくイザベラバードの朝鮮紀行に、次の一節もあります。
「高級官僚や両班はお付きの行列を連れ、
 行政官の屋敷に泊まり贅沢な食事をとる。
 快適とはほど遠い宿屋に泊まり、
 村の食べ物をとらなければならないはめに追いこまれたとしても、
 すべて最上のものが選ばれ、
 それに対して代金は支払われない。」
(同上)
下々の者が、それによって飢え死にするようなことがあったとしても、官僚は我関せずです。
自分がその場で贅沢ができればそれで良いと考える。
日本人にはあり得ない感性です。
そういう一行が、朝鮮通信使として日本に来たのです。
宿泊施設の旅館では、部屋にある布団から、花瓶や、食器、掛け軸まで盗まれました。
朝鮮通信使が去った後の部屋は、まさに「引っ越した後の空き家」状態になったといいます。
そしてそのことは、何も十八世紀の大昔ばかりではありません。
昨今の対馬には韓国人観光客が大勢やってくるけれど、例えばタクシーで、降りるときにカネを払わずに走って逃げる。
あるいは料金を払っても、その支払いに五百円玉そっくりの五百ウォン(価値は十分の一)を混ぜてくる。
その場で気づいて注意すると何事か大声で喚き散らして、泣き寝入りさせられてしまう。
スーパーでは並んでいるバナナを、カネも払わずにその場で食べてしまう。
店員が気づかなければそのまま金を払わずに立ち去る。
コンビニに5〜6人の集団でやってきて、ひとりが支払いをしている間に他の者が万引きをする。
若い女性客は陳列棚の口紅をその場で使って元の棚に戻すので、売り物にならなくなる。
料理屋では食べ物を持ち込み注文しない。
旅館では、シャンプー、リンス、タオルから、トイレットペーパー、果は部屋に据え置きのテレビまで、残らず持ち去ってしまう。
部屋や建物を汚し、フロントやエレベーターなどの公共スペースで、平気で大小の用をたす。
部屋の中で何をしているのか、便臭が激しく(日本人女性を騙して部屋に連れ込み、スカトロ行為をしているというウワサあり)、部屋に臭いがしみ付く。
支払いの段階になると、部屋にクレームをつけて値切る。
浴場施設では、湯船の中で平気で石鹸を使って体を洗う。
日本人客が嫌がって来なくなり、廃業した温泉もある等々、これが西暦2千年代の対馬や日本で実際に起きていることです。
山本博文さんが書いた「江戸時代を探検する」 (新潮文庫)には、次の記載があります。
「通信使の随員の中には、
 段々と尊大な行動をする者も現れた。
 出船の時に、
 前夜出された夜具を盗んで船に積み込んだり、
 食事に難癖をつけて、
 魚なら大きいものを、
 野菜ならば季節外れのものを
 要求したりというような些細なことから、
 予定外の行動を希望し、
 拒絶した随行の対馬藩の者に
 唾を吐きかけたりするようなこともあった。」

このことは、上にご紹介した金仁謙が来日したときの第十一回朝鮮通信使の帰り際にも、同様の事件が起こっています。
明和元(1764)年4月6日のできごとです。
この日の昼、大阪の長浜の荷揚げ場で、朝鮮通信使の中の下級役人のひとりが、鏡を失くしたと突然騒ぎ出しました。
通信使の都訓導(中級官人)の崔天宗という者がこれを咎(とが)めて、
「日本人は、盗みの仕方が上手だ」
と悪口を言ったのです。
朝鮮通信使たちの通訳をしていた対馬藩士の鈴木伝蔵は、自分で落して失くしたのか、盗られたのかもまだわからないうちに、日本人を泥棒呼ばわりするのはけしからんと、崔天宗に
「あなたは日本人のことをそのように言うが、
 あなた方は食事の際に出た食器や飾りの品々を
 勝手に持ち帰っているではないか。
 これをどう思うのか」

と言い返しました。
すると鈴木伝蔵に痛いところを突かれた崔天宗は、突然怒り出し、人々が見ている前で、鈴木伝蔵を杖で何度も打ち据えたのです。
鈴木伝蔵は、自分はあくまで通詞(通訳)であり、朝鮮通信使たちをもてなす立場ですから、その場は、打たれるままに我慢しました。
けれど下級とはいえ、武士は武士です。
杖で打ち据えられて、ただ黙っていたのでは、武士の一分が立ちません。
思いつめた鈴木伝蔵は、その夜、崔天宗の喉を槍で突き刺して殺害し、奉行所に自首して切腹しました。
よく朝鮮使節をさして、
「日本に儒教をはじめ、
 さまざまな文化や技術を伝承した」
と書いている教科書などがありますが、儒教はそれ以前から日本に上陸しているし、文化的にもはるかに日本が勝っていたことは、朝鮮通信使の一員だった金仁謙が書き残していることです。
つまり朝鮮使節が日本に文化を伝えたなどという事実はまったくないし、鶏泥棒の文化や技術など、日本には不要のものでした。
当時の朝鮮からの日本の輸入物は、朝鮮 人参と、チャイナ産の生糸と絹織物でした。
他方、朝鮮通信使たちが喜んで持ち帰ったのが、サツマイモでした。
当時の朝鮮は、毎年のように飢饉が発生していたからです。
ところが日本では、飢饉のとき、サツマイモを栽培しました。
芋は収穫が早いので、多くの人がこれで命を長らえたのです。
実際、ラバウルの今村均陸軍大将も、ラバウルで早くから芋の栽培をはじめ、これによって多くの兵隊さんが飢え死ぬことなく日本に帰還できました。
こうして朝鮮通信士使たちは、種イモだけでなく、植え方、貯蔵法、料理法まで学んで持ち帰り、自分たちのためにこれを栽培しました。
ちなみに、この朝鮮通信使によって朝鮮半島に日本から持ち込まれたものに、タバコと唐辛子があります。
いま朝鮮料理といえば、唐辛子を使ったキムチが定番ですが、キムチに使われる唐辛子は、日本から朝鮮半島に伝わったものです。
鎖国をしていても、海外の動勢は、国家として常に監視しておかなければならないのは当然のことです。
ですから、ほんのわずかな窓口での交流は続けましたが、ものめずらしい外国人が来日するとなれば、中央から歌舞伎一座や、相撲興行がやってくるというのと同じで、大歓迎するのが、日本の庶民の常です。
ですから朝鮮使節を迎えるための踊り、なんていうのも、今に伝えられています。
ところが、肝心のこの朝鮮使節、実にとんでもない連中で、自称朝鮮国王の使いでありながら、道中で、まるで不良中学生ばりに、道中で悪さをする。
朝鮮通信使は、毎度600人ほどの集団で日本にやってきます。
このうちの1〜200人の水夫が大阪に留まり、400人前後の大集団が、大阪から徒歩で江戸向かいます。
こうして彼らは半年くらい、日本に滞在しました。
そしてこの朝鮮通信使が悪さをしないようにと、窓口となった対馬藩は、およそ800人の護衛の武士を、朝鮮通信使に同行させています。
400人を800人で取り囲んで、悪さをしないようにしたのです。
ところがそれでも朝鮮通信使はあちこちで問題を起こしました。
徳川幕府はこの朝鮮通信使のために、毎度百万両の予算を計上しています。
それだけの経費をかけて接待したのです。
けれど彼ら朝鮮通信使たちには、風呂にはいる習慣がありません。
日本の旅籠や、街道のあちこちにある茶店には、いまで言ったらコンビニみたいなもので、ちゃんとトイレがあったのですが、なぜか路上で大小の用をたす。
朝になると400人が一斉に、往来の路上で大用をたします。
街道の村々では、30年に一度のこの朝鮮通信使たちの歓迎のために、踊りや祭りなども企画し実行しています。
負の面もたくさんあったけれど、外国の人だからと、それでも歓迎をする。
みんなで歓迎しようとした仲間たちの大切な思い出を大事にする。
いやな思いは後世に残さず、楽しさだけを伝えようとしました。
それが日本人です。
最後にひとつ。朝鮮通信使は、壱岐対馬を通って来日したのですが、壱岐を治める平戸藩では、使節の無事な航海を祈って藩主自らが、邇自神社(にじじんじゃ)に参拝し、順風祈願をしています。
表向きはあくまで「無事な航海を願ってのこと」です。
けれど本音は、
「一日も早く壱岐から出て行ってもらいたい」
というものであったそうです。
隣人と仲良くしたい、と思うのは、日本人の変わらぬ習性です。
けれど、まともな人たちなら、そうやって仲良く暮らすことはとても大切なことですが、まともでない人たちとまで仲良くしなければならないということはありません。
江戸時代に描かれた朝鮮通信使一行の図は、まことに豪勢な行列です。
なぜ豪勢なのかといえば、朝鮮通信使が立派だったからではありません。
幕府が彼らのために、莫大な予算を計上して通信使たちの行列を荘厳したからです。
これまた世界ではありえないことです。
普通は、訪問者の側が派手なパフォーマンスをして国威を示すものだからです。
日東壮遊歌―ハングルでつづる朝鮮通信使の記録 (東洋文庫)

※この記事は2012年10月の記事のリニューアルです。
お読みいただき、ありがとうございました。

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