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| 回天をスクラップの鉄くずとして売払う、そのような社会も人も断じて容認できません。人の命の尊さを思う気持ちがあるのなら、回天とともにすごした青春があったことを後世の私たちは決して忘れてはならないと思うし、そうした心をたいせつにすることができる思いやりのある社会を、私たちは築いていかなければならないと思うからです。 |

画像出所=https://hijinavi.com/spots/detail/7
(画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)
海中の特攻機である「回天(かいてん)」は、別名「人間魚雷」と呼ばれています。
その「回天」の訓練基地は、山口県周南市の徳山港の沖合い10数kmにある大津島にありました。
昭和20(1945)年8月15日、終戦の詔勅がくだされたとき、この基地の全隊員が、分隊ごとに玉音放送を聞くように命令されました。
みんなでラジオに耳をかたむけました。
古い時代の話です。
ラジオは雑音まじりで、ひどく聴き取りにくかったそうです。
放送が始まるとき、指揮官の板倉光馬海軍少佐は、すぐに全回天を48時間以内に使用できるよう、急速整備を指示しましたが、放送の内容が判明したとき、回天の整備指示は途中解除になりました。
板倉海軍少佐は、みずからの出撃を再三要求していました。
しかし指揮官の勤めは回天の戦力化にあります。
ですから司令部は、少佐の要求を却下し続けました。
それでも出撃を強行しようとする板倉少佐に、7月には多田武雄海軍次官がとんできて、
「おまえが出るときは、海軍が命令を出す」と、説得しています。
このことき板倉海軍少佐は、次のように反論したそうです。
「指揮官先頭は帝国海軍の伝統です。
部下を出していながら、
なぜ私をのけものにするのですか」
| 『ねずさんのひとりごとメールマガジン』 |

多田海軍次官は、
「軍司令部総長の命令だ」
と大声を張り上げました。
こうして板倉海軍少佐は、志を果たせずに終戦をむかえました。
汚名を残すまいと板倉がいったん自決の腹をきめたところへ、近くの平生基地での、橋口寛海軍大尉自決の報せがはいりました。
橋口海軍大尉は、出撃の直前に敗戦の知らせを受けていたそうです。
彼は18日のまだ夜が明けないうちに、純白の第二種軍装で威儀をただして回天の操縦席にすわり、拳銃を胸にあて自決されました。
橋口大尉の遺書です。
「吾人のつとめ
足らざりしが故に、
神州は国体を
擁護しえなかった。
その責任を
とらざるべからず。
さきがけし期友に
申し訳なし。」
そして次の遺詠で結びました。
おくれても
またおくれても
卿達に
誓いしことば
われ忘れめや
同じく近くの大神基地では松尾秀輔海軍大尉が、どこから持ち込んだか手榴弾に火をつけて、右胸の前で爆発させて自決されています。
「戦争に負けた以上、将校たる者は責任をとらなきゃなあ」
ちなみに松尾海軍大尉の母の綾子さんは、8月25日未明、枕元に息子の松尾海軍大尉が立ち、
「お母さま」と、声をかけられたそうです。
綾子は飛び起きたけれど、秀輔の、元気のない悲しそうな様子に、死をさとったといいます。
橋口・松尾両大尉の悲報を耳にした板倉海軍少佐も、自決を心に決めました。
しかし呉鎮守府の参謀たちは、板倉に渾身の説得をしました。
「まだ戦争をつづけようという動きがある。
おまえがとめてくれ。
ポツダム宣言を受諾したのだ。
部下たちを死なせてはならん」
こうして板倉海軍少佐は、死ぬに死ねないことになりました。
板倉海軍少佐は、妻子と離れて回天戦を指揮していました。
そして1月9日に、生後4ヶ月の男の子を失いました。
その息子の遺骨を墓におさめる暇もなく、徳山の大空襲で家ごと焼失しています。
心労がたたり、3月には訓練中に喀血もしていました。
そして終戦。
最大のストレスの中で、さらに追い打ちをかけるように公職追放。
窮乏と混乱の戦後社会を、板倉は、妻・恭子にささえられて生きました。
「回天その青春群像~特殊潜航艇の男たち(翔雲社)」という本を書いた上原光晴氏が、平成9年に板倉光馬元海軍少佐に会いました。
板倉さんはこのとき上原さんに、自分の死後、遺体を大阪の医大に献体すると申し出たことを明かしたそうです。
自分の体は当然、飛散して、なくなるべき運命にあったのだからと。
医大教授はいたわるように言ったそうです。
「わかりました。
でも板倉さん、
ゆっくりおいでくださいよ」
第二回天隊長の小灘利春海軍中尉が、部下7人とともに、八丈島に進出したのは昭和20年5月のことでした。
小灘は、いつでも回天を発進できるよう準備を整えていたけれど、8月、終戦を迎えました。
10月になって、米軍が島に上陸してきました。
そしてまっさきに回天の武装解除を命じました。
米軍は、火薬のつまった頭部を海に捨て、本体は洞窟ごとに爆破していきました。
洞窟爆破は小灘海軍大尉の提案だったそうです。
おかげで、洞窟の入り口がふさがっただけで、回天はそのまま埋まりました。
20年後の昭和40(1965)年8月のことです。
小灘元海軍大尉以下8名が再会し、回天がまだ残っていないかと炎天下の島をたずねました。
しかし洞窟にはなにも残っていませんでした。
昭和20年代、朝鮮戦争で鉄などが高く売れたときに、日本語のたどたどしい古売屋がやってきて回天を掘り出して売り払ってしまったのです。
男は泣くものではない。
決して涙を見せるなと教えられて育った彼らが、洞窟の跡地で滂沱の涙を流しました。
泣いて、泣いて、
そしてこのとき、
「回天はなかったが、
それでよかったのかもしれん・・」
と語り合いました。
ちょうど世の中は高度成長経済の真っただ中でした。
戦後の焼け野原からの復興で、街は活気にあふれ、人々の生活は、3c時代と呼ばれる豊かさの時代を迎えようとしていた時代でした。
戦後の経済復興の最中で売られた回天は、なるほど当時の感覚としては、「それでよかったかもしれん」と思ったことも無理からぬことであたのかもしれません。
しかし戦争に敗れたとはいえ、回天は命をかけて戦った男たちの「魂」そのものでした。
その「魂」を、単に鉄のカタマリとして売り払う。
これは日本の心を持つ日本人にはできないことです。
この時代に社会の中心をなした人たちは、半島が日本の一部であった時代の教育を受けた人たちです。
ですからこうした非道も、同じ日本人が行ったことと理解されたし、経済優先の時代の中で、これはしかたがなかった、それでよかったのかもしれんとして、現実を甘んじて受けるしかなかったといえます。
終戦は、日本人の価値観を大転換させた大きな事件だったといわれています。
しかしその影で、あってはならないゆがみが生じたのも、また終戦後の出来事であったと思います。
戦前が良かったことばかりとは思いません。
戦後が良いことばかりとも思えません。
いつの時代にも間違いはあるものです。
だからこそ、過去の良いところと現在の良いところを組み合わせて、より良い未来を築いていく。
それこそが大切なことであろうと思います。
いろいろな意見があろうと思います。
けれど回天をスクラップの鉄くずとして売払う、そのような社会も人も断じて容認できません。
人の命の尊さを思う気持ちがあるのなら、回天とともにすごした青春があったことを後世の私たちは決して忘れてはならないと思うし、そうした心をたいせつにすることができる思いやりのある社会を、私たちは築いていかなければならないと思うからです。
※この記事は2009年11月の記事のリニューアルです。
お読みいただき、ありがとうございました。

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