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| その地の統治者を交代しようということであれば、建物を焼いたり、人民を殺すことはマイナスに働きます。そうではなくて、単に食料を得に立ち寄っただけであれば、あとで報復されないように、生き残った者たちが生活をするために必要なものを、すべて焼いてしまう。そして敗れて捕まった者が、自分たちは強制連行されたのだ、と嘘を言う。これまた千年前もいまも変わらぬ習性です。 |

画像出所=https://ameblo.jp/nagarahirokazu/entry-12310363778.html
(画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)
寛仁3年(1019年)といいますから、いまからちょうど千年前の平安時代のことです。
この年の3月27日、壱岐に50隻あまりの船がやってきました。
ひとつの船はだいたい15メートルくらい。
当時としては大型船です。
各船には、約60人が分乗していました。
彼らは壱岐に上陸すると100人くらいずつの分隊をつくりました。
先頭の20~30人は斬り込み隊です。
後ろの70~80人は弓や盾を持っていました。
彼らの持っていた矢は、長さ4~50cmと短いもので、楯も射通すほどの貫通力がありました。
彼らは整列を終えると、民家に襲いかかりました。
牛馬を殺し、抵抗する島民たちを片端から殺しました。
記録には、彼らが
「牛馬を切っては食い、
また犬を屠殺して
むさぼり食ら」ったと書かれています。
略奪後、民家はすべて焼き払われました。
穀物もすべて奪い取られました。
民家で生き残った者は船に拉致されましたが、船上で病人や老人は簀巻きにされて海に投げ込まれて殺されました。
「暴徒上陸!」
知らせを受けた国司の壱岐守藤原理忠(ふじわらのまさただ)は、ただちに147人の手勢を率いて征伐に向かいました。
しかし相手は3000人の統制の取れた軍隊です。
衆寡敵せず敗退してしまう。
理忠(まさただ)を打ち破った国籍不明の軍団は、次に壱岐島の真ん中にある、国分寺(嶋分寺)まで攻め込んできました。
寺には常覚和尚(じょうかくおしょう)という立派なお坊さんがいました。
常覚和尚は僧侶と、避難してきた地元住民を指揮し、なんとこの国籍不明の軍団を三度(みたび)撃退しています。
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けれど暴徒たちは、圧倒的な人数で襲ってくる。
このままでは全滅も免れない。
けれども直ちに危急を大宰府に知らせなければ、今度は日本が危ない。
そう考えた寺の人たちは、常覚和尚に島を脱出して、事の次第を大宰府に報告に連絡する役目を委ねます。
こうして寺に残った人々は、必死に戦ったけれど全滅し、嶋分寺も火をつけられて全焼させられてしまいます。
島からは、女子239人、男子若干名が連れ去られました。
壱岐島で生き残った者は、わずか35人だけでした。
4月7日、こんどは対馬から大宰府に危急の知らせが届きました。
対馬守遠晴(姓・読み不明)の報告です。
「対馬に刀伊(とい)国の者が
50隻あまりの船でやってきて、
殺人・放火をはじめた。
彼らは隼のように迅速で、
数が多くとても対抗できない。
壱岐では壱岐守の藤原理忠が殺害され、
ほとんど全滅状態となった。
すでに刀伊は、
博多警固所と目と鼻の先の
能古島まできている。」
知らせを受けた大宰権帥(だざいのごんのそち)の藤原隆家(ふじわらのたかいえ)は、すぐに京都に緊急事態を伝える飛駅便を飛ばすとともに、応戦のために九州の豪族たちに非常招集をかけました。
しかし翌8日には、暴徒たちが筑前・怡土郡(福岡県西部)に上陸してくる。
賊徒たちは、またたく間に民家を急襲して牛馬や犬を殺して食い、老人や子供を皆殺しにしたうえ、おびえる男女を追いかけて、4~500名を捕らえて船に乗せていました。
また数知れない穀類が略奪されました。
この時点で、まだ九州各地の豪族たちからの応援は到着していません。
大宰権帥の藤原隆家は、わずかな兵を率いて賊徒たちの不意をつく戦法で個別撃破を図ります。
藤原隆家の軍は強く、あちこちで賊徒を蹴散らし、彼らはこの日の夕方には海に逃れて能古島に一時的に去りました。
翌9日の朝、賊は藤原隆家軍の本拠である大宰府に全軍でやってきました。
しかし準備を整えた正規兵を前に、逆に刀伊の側が追い詰められ、生き残った者は、再び能古島に帰っています。
このあたりの倭人(日本人)の正規兵の強さというのは、古代においても11世紀のこの刀伊の入寇においても、また20世紀においても、そしておそらく21世紀となったこんにちにおいても、常に圧倒的です。
いまも昔も変わりません。
理由は簡単に説明がつきます。
戦いにおいて必要なことは、度胸ではなく、責任感です。
責任感の強い日本人は、どこまでも戦うのです。
大陸や半島の人は、すこしでも戦況が不利となると、すぐに逃げてしまう。
これは当然のことで、彼らは自分の欲望を満たすために戦っています。
そうであれば、殺されたら元も子もない。
だから不利となると、すぐに逃げ出すのです。
これに対し倭人(日本人)は、そもそも争ったり略奪したり、自分が欲をかくということをせず、戦うときは愛するものを護るために自らの意思で戦います。
これが責任感で、だから強い。
そして勇敢な藤原隆家の軍による抵抗の中「神風」が吹いたのです。
10日、波風が強くなり、賊徒たちの船が足止めになりました。
これによって水軍である賊徒たちは身動きがとれなくなります。
その間に九州各所からの援軍が続々と大宰府に到着したのです。
11日午前6時頃、賊徒たちが、再び大宰府に上陸してきました。
このとき隆家は、上陸した賊徒を迎え撃ち、彼らを皆殺しにしました。
圧倒的な隆家の軍の勝利でした。
そして敵の生き残りの二人を逮捕しました。
一人は傷ついた男、一人は女です。
13日、賊徒の別働隊が肥前国松浦郡に至り、村里に攻めてきました。
ここでは前肥前介と源知という武将が待ち構えていて、同じく賊徒たちを全滅させ、生存者一人を逮捕しました。
残った賊徒は恐れをなして、半島に帰っていきました。
帰国途中、弱った賊徒を高麗の正規軍が待ち伏せしました。
そして残りの賊徒を全滅させ、日本人の捕虜270人を助けて、日本に送り返しています。
当初日本側は何者が攻めてきたのかさえもわかりませんでした。
逮捕した三人の族の取り調べから、彼らが三人とも高麗人であることがわかりました。
そして彼らが口をそろえていうのには、
「自分たちは被害者である。
刀伊(とい)がいきなり襲ってきて、
自分たちは捕らえられて
無理やり連れて来られたのだ」
というものでした。
この事件で記録された被害は、
殺害された者 365名、
拉致された者 1289名、
牛馬380匹殺害
家屋45棟以上焼失
です。とくに女子供の被害が目立っていました。
拉致された1289名のうち、高麗によって保護されて帰国できたのは270名です。
残りの千余名は、船上で殺されました。
この事件は「犯人たちの申立に基づいて」、「刀伊の入寇(にゅうこう)と呼ばれるようになりました。
捕まったのが高麗人なのに、どうして「刀伊の入寇」と名付けられたかというと、隣国が高麗であり、高麗との関係悪化を防ぐこと、それと高麗に保護された日本人を無事に返してもらうためです。
名称を「高麗の入寇」とされることは、高麗にしてみればどうしても防ぎたいことです。
つまり拉致され、人質となった270名の奪還のために、名称を「刀伊の入寇」としたのです。
なぜ刀伊にしたのかには、明確な理由が2つあります。
ひとつは先程述べましたように、犯人が「刀伊に拉致された」と自供していることです。
そしてもうひとつは、人質奪還のためです。
刀伊は実在した国ですが、この入寇事件があったとき、すでに刀伊は滅亡していました。
つまり「刀伊の入寇」という名称は、その時点で実在しない国の名を事件名にしています。
要するに「刀伊の入寇」という名称は、実際は高麗人による凶行であったものを、「政治的な配慮」から名前を逸(そら)したものにすぎません。
ではどうして高麗が壱岐を攻め、対馬を攻め、九州に上陸を図ったのでしょうか。
一般に言われていることは、高麗の末端の民衆が、圧政によって食えなくなり、結果として暴徒になったという説です。
しかしこの説には重大な見落としがあります。
船です。
この入寇事件では、50隻あまりの大型の軍船が用いられています。
それだけの軍船を、果たして「圧政によって食えなくなって逃亡した民衆」が、用意することができるでしょうか。
また壱岐に上陸したときの戦いにも明らかなように、彼らは威力の強い短弓を大量に用いていました。
それだけの武器を、その貧困のために逃亡した農民らが、いつどこでどのようにして調達したというのでしょうか。
また、壱岐に上陸した時の記録に明らかなように、彼らは上陸後すぐに隊列を整えて、その後に上陸戦を挑んでいます。
これは訓練された軍の動き方であって、暴徒の行動ではありません。
では、犯人たちは誰なのでしょうか。
考えられることは、日本への攻撃をたくらむ高麗が、先遣隊として少数の兵に日本を攻撃させ、倭国の防衛力について様子を見ようとした、というものです。
これは高麗にしてみれば、一石二鳥です。
まず、棄民の処理ができます。
うまく行けば、壱岐対馬、そして九州を手に入ることができるかもしれない。
さりとて、いきなり数万の軍勢を仕立てれば、日本と全面戦争になります。
それは避けたい。
あくまでも、少しずつ切り刻んでいく。
そこで問題です。
それにしても、領土がほしいだけなら、どうして高麗は壱岐対馬の島民を皆殺しにしたり、村や寺に火を放ったりしたのでしょう。
日本人の感覚なら、たとえば壱岐に攻め込んだなら、壱岐の藤原理忠(ふじわらのまさただ)だけを討ち取れば、それで壱岐が手に入るし、領土問題に、住民は関係ないように思うのではないでしょうか。
ところが高麗は、住民から先に虐殺を開始し、殺すだけでなく女達を船に連れ込むということをやってのけています。
実は、ここが古くからの大陸や半島の戦い方と、日本人の戦い方の大きな違いです。
彼らは、どこかの国への出兵を皇帝や王が将軍に命じたとき、命じられた将軍は兵の兵站(食料)を自前で調達しなければなりません。
たとえばチャイナの皇帝が、将軍Aに10万の兵を与えるから、どこぞの国へ行って攻め滅ぼしてこいと命じたとします。
このとき、兵は与えられます。
けれど、兵を食べさせるのは将軍の役割です。
ですから九州に攻め上るのにあたって彼らが壱岐対馬に先に立ち寄った理由は明白で、食料調達のために立ち寄っています。
病人と年寄は食べられませんので、すぐに殺します。
男は抵抗すると厄介なので、やはり殺します。
女性と子供は、食べやすいので、鹵獲して船に持ち帰ります。
女性は死ぬまでりんかんされて、死んだら食料として、すぐに焼き肉にされるか、舷側に干して、干し肉にします。
要するにそういう文化なのです。
これは、西部劇のガンマンたちが、バッファロー狩りをするのと同じです。
壱岐対馬では、そのバッファローが島民であったということです。
すぐに火をつけるのも、同じ理由です。
その地の統治者を交代しようということであれば、建物を焼いたり、人民を殺すことはマイナスに働きます。
そうではなくて、単に食料を得に立ち寄っただけであれば、あとで報復されないように、生き残った者たちが生活をするために必要なものを、すべて焼いてしまう。
そして敗れて捕まった者が、自分たちは強制連行されたのだ、と嘘を言う。
これまた千年前もいまも変わらぬ習性です。
※この記事は2010年4月の記事のリニューアルです。
お読みいただき、ありがとうございました。

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