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戦争に敗れるということは、米国のような国でさえ、理不尽が正当化されてしまうことを意味します。
ましていま、日本を取り巻いているのは、理不尽を絵に描いたような国ばかりです。
国と正義を護るのは、私たち国民の力です。
何事も「転ばぬ先の杖」です。
私達自身が、自分が人間であると思うなら、国をしっかりと護る決意をしなければなりません。


マレー半島内の橋梁を破壊するイギリス軍工兵
マレー半島内の橋梁を破壊するイギリス軍工兵

大東亜戦争開戦時、日本は12月8日のマレー半島上陸から、わずか55日間でマレー半島のイギリス軍を降伏させました。
当時、マレー半島は英国の支配下にありました。
日本軍の猛攻の前に、英国軍は撤退するのですが、このとき英国軍は橋を爆破しながら撤退しています。
おわかりいただけると思いますが、橋は住民たちの生活道路でもあります。
生きるか死ぬかの戦闘とはいえ、橋の爆破は「自分たちが助かりたいための軍」なのか、「民衆のための軍隊なのか」を明確に色分けるものです。
攻める日本側は、橋がなくても大砲などの武器や弾薬、食糧を運ばなければなりません。
運搬する荷物の中には、重量の大きな戦車もありました。
それらを日本軍がどうやって運んだかというと、工兵隊が川につかり、木材をみんなで担いで、その上を兵士や自転車、戦車などを通しました。
ご存知の通り、マレーの川は日本の川のような澄んだ川ではありません。
泥水です。
そこに工兵隊が飛び込んで、板を担ぎました。
英国軍が破壊した橋は250本にのぼります。
橋の修理をしていたら進軍が間に合わない。
マレー戦での戦いにおける戦闘は95回。
日本軍の移動距離、1,100キロ。
そして、日本軍の損害は、戦死1,793、戦傷2,772名にのぼりました。
その間、英国軍が遺棄した英国兵士の遺体約5,000人の埋葬も、お一柱(ひとはしら)ごとに日本軍は丁寧に行っています。

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この作戦の指揮をとったのが山下奉文大将です。
山下隊は、2月8日、日本軍はジョホール海峡を渡河しシンガポール島へ上陸しました。
そして主要陣地を次々奪取し、11日にブキッ・ティマ高地に突入。

ところが、英国軍の集中砲火がものすごくて動けない。
山下隊は、ありったけの火力で応戦するのだけど、15日、日本側の砲弾がついに底をついてしまいました。
「司令、弾がありません」
「うーん、とりあえず、まて」
となって、砲弾のなくなった日本側が、どうしようかと算段しているときに、英国の陣地から白旗があがりました。

そして降伏の使者が到着しました。
水源が破壊され、給水が停止したことが、抗戦を断念した理由だったといいます。
限界ギリギリの戦いだったのです。

降伏交渉を行う山下奉文大将と
シンガポール駐留イギリス軍のアーサー中将
降伏交渉を行う山下奉文大将と

この戦いのあと、キッティマ高地にあるフォード自動車工場で、山下大将が目をむいてイギリス軍司令官に「イエスかノーか」と迫ったという有名な話がありますが、これは当時のマスコミの創作です。
実際には、この言葉の相手は、英国の司令官に対してではなく、台湾人の通訳に対してはなった言葉でした。

山下大将は、通訳に、
「まず降伏する意思があるかどうかを聞いてほしい」
と述べたのですが、通訳の日本語が怪しい。
いらだった大将が、
「降伏する意思があるかどうか、イエスか、ノーか、聞いてほしい」と言ったシーンが、上手に脚色されたのです。

話が一人歩きしていることを山下大将はたいへん気にされて、
「敗戦の将を恫喝するようなことができるか」と、事態の顛末(てんまつ)を否定されています。
実際、その場に居合わせた全員が、この出来事を否定しています。
ついでにいうと、このときの交渉の模様の映像は、交渉の迫力を増させるために早送り再生されています。

マレー作戦の成功で、山下大将はメディアによって国民的英雄にされますが、山下大将自身は、こうした戦いに勝ったことよりも、戦いで亡くした多くの部下、そして英国の若い兵士たちの死を悼(いた)む思いが強かったといいます。
そういう、人としてのやさしさを持つ大将だから、みんなが付いていったし、みんなから尊敬されたのです。

大東亜戦争が終結したとき、かつてシンガポール攻防戦で降伏調印した英国軍のパーシバル中将のもとで、こんどは逆に山下大将が降伏文書に調印することになりました。
敗戦を知って自刃しようとした山下大将を思いとどまらせたのは、玉砕突撃を敢行しようとする部下たちを無益な死から守るためだったといいます。

山下大将は、戦後、戦犯としてフィリピンのマニラにて軍事裁判にかけられ、死刑になりました。
山下大将への求刑は、彼の部隊がフィリピンのマニラで、現地のフィリピン人10万人を虐殺したというものです。
しかしこれは事実に反します。

昭和20(1945)年1月にフィリピン、ルソン島のマニラに、米英連合軍が上陸しました。
2月3日、米軍第1騎兵師団と第37師団がマニラへと突入しました。
山下大将はマニラの市街戦を避ける方針でした。
なぜなら当時マニラ市内には約70万人の市民が残っていたからです。

けれど米軍は、そのマニラへと攻めかかりました。
戦闘はマニラ市街で3週間以上も続きました。
米軍の砲撃は、市街地を焼け野原にするほど激しいものでした。
これに市民が巻き添えとなりました。

亡くなったとされるフィリピン人は10万人とされました。
けれど、具体的に何人なのかは、ついに明確にされませんでした。
日本の戦いの場合、民間人に死亡者が出ると、それが「何人」まで、はっきりと調査され発表されます。
なぜなら日本人にとって、現地の人であれ、日本人であれ、そこで命を失ったのは「人」であるからです。
けれど世界の戦いにおいては、どんぶり勘定で、だいたいざっと見積もって何万人の死傷者が出た、としか把握されません。
文化の違いと言ってしまえばそれまですが、有色人種であれそれ以外であれ、死者を人の命として日本人はたいせつにあつかいます。

話を戻しますが、山下大将にかけられた嫌疑は、要するに米軍が行ったマニラ市街の完全破壊による一般市民の犠牲者への戦争責任を、まるごと日本軍に転嫁した裁判であったといえます。
それでも山下大将は、マニラ軍事裁判の席上、
「私に責任がないとは言わない」
と、従容(しょうよう)として死刑を受け入れています。

山下大将のこうした立派な態度に、米陸軍の法務将校らが猛然と判決に異を唱えました。
彼らはフィリピン最高裁、アメリカ連邦最高裁判所にまで死刑の差止めと人身保護令の発出を求める請願をしています。
しかし米最高裁6対2の投票で請願を却下。
山下大将は、マニラで、軍服の着用も許されず囚人服のままで絞首刑に処せられました。

戦争に敗れるということは、米国のような国でさえ、理不尽が正当化されてしまうことを意味します。
ましていま、日本を取り巻いているのは、理不尽を絵に描いたような国ばかりです。
国と正義を護るのは、私たち国民の力です。
何事も「転ばぬ先の杖」です。
私達自身が、自分が人間であると思うなら、国をしっかりと護る決意をしなければなりません。

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