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つい先日、「豈無國歟(あにくになけむや)の『あに〜や』は反語的表現であって、これを『よろこびあふれる楽しい国』と読むことは間違いではないのか」というごしつもんをいただきました。
このことは、以前にも何度もご案内していることなのですが、あらためてご案内をします。


20180508 豈国無歟
(画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)

豈無國歟(あにくになけむや)という四文字熟語は日本書紀にある言葉です。
日本書紀では、創世の神々の誕生のあと、イザナキ(伊弉諾)、イザナミ(伊奘冉)の二神が生まれたあと、次の文を書いています。

 伊弉諾尊 伊弉冉尊
 立於天浮橋之上、共計曰
 「底下、豈無國歟
 廼以天之瓊(瓊玉也、此云努)
 矛指下而探之是獲滄溟

(現代語訳)
イザナキとイザナミは、ともに次のようにはかられました。
「底の下に、あに国なけむや」
そしてアメノヌボコを、下にさしおろして、
混沌としたところを探(さぐ)りました。

こうして誕生したのがオノゴロジマであり、ニ神は、そのオノゴロジマに降臨されて、国や神々をお生みになられます。
そして、ここに出てくるのが「豈無国歟(あにくになけむや)」という言葉です。

ご指摘のように「あに〜や」という表現は、現代の古語教育では「下に打消の表現を伴なう反語」であるとされています。
たとえば「あによからんや」といえば「良いだろうか、いや決して良くはない」という意味になるし、「あにまさめやも」といえば「どうしてまさろうか、いや、まさりはしない」です。

その説に従えば、「あにくになけむや(豈無国歟)」は、「国があるだろうか、いやありはしない」となり、そういいながら、二神は底下に矛を差し入れて、オノゴロジマを作ったことになります。
ところがこれは神様の言葉です。
「ありはしない」と断定してから、「オノゴロジマを築いた」というのでは、言葉と行動が矛盾します。

なにしろこれは日本書紀に登場する最初の神様のお言葉なのです。
その神様が、「ない」と断定されたのなら、もう「ない」のです。その後のオノゴロジマ建設はありえません。
逆にオノゴロジマ建設を神々の偉業とするなら、その前の「ない」という断定と矛盾します。
つまり、現代古典学会的な「あに〜や」の解釈では、日本書紀のここの記述を読み解くことができないのです。

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そこで使われている漢字の「豈」の意味を調べてみます。
なぜなら、日本にはもともと大和言葉があり、その大和言葉の語彙(言葉の意味)にもっとも近いと思われる漢字を、用いて日本書紀は記述をすすめているからです。

だから日本語の漢字の読みには、音読みと訓読みがあるのです。
日本が古来からの言語を持たず、漢字を輸入することで生まれた言葉であるなら、日本語の漢字に訓読みはありえません。

また、この点も誤解なのですが、日本書紀は「漢文で外国向けに書かれている」のではありません。
「漢字を用いて日本語で」書かれています。

どういうことかというと、たとえば日本書紀にある有名な言葉に「和をもって貴しとなす」という言葉があります。
聖徳太子の17条憲法にある言葉です。
そしてこの言葉は日本書紀に「以和為貴」と記述されています。

これで「和をもって貴しとなす」と読み下すのですが、ところがChina語では、この四文字の熟語を読み解くことができません。
なぜかというと、China語で「和」というのは、日本語で言うあなた「と」わたし、というときに使う接続詞だからです。
また「貴」は、お金があって身分の高い人のことを言います。
するとChineseたちに「以和為貴」という熟語を見せても、彼らには「接続詞がお金があって身分が高い???」となってしまって、意味不明な熟語になってしまうのです。

つまり日本書紀は、なるほど漢字で書いてはありますが、それはいまでいうならローマ字で日本語を記述するようなもので、ローマ字で書かれたアルファベットの文章を英米人が読めないのと同様、日本書紀も漢文調であっても、これがChina語で書かれたものとはいえません。

このことが何を意味しているのかというと、古代の日本人は、漢字が複数の象形文字を組み合わせて一定の意味を持たせた表意文字であることに注目し、その意味と大和言葉の意味を重ね合わせながら漢字を大和言葉の記述のために導入したということです。
つまり、漢字一文字一文字の持つ意味を大切にあつかいながら、日本書紀を記述したといえるのです。

このような視点から、あらためて「豈」という字を見ると、この字は神社などで使われる「楽太鼓(がくたいこ)」の象形であることがわかります。
楽太鼓は、婚礼の儀や記念祭など、お祝いのとき、よろこびのとき、楽しいときに打ち鳴らす太鼓です。
だから名前を「楽太鼓」といいます。

つまりイザナキとイザナミは、
「よろこびあふれる楽しい国はどこかにないだろうか、
 いや、ないよね。
 だったらオレ達で作ろうよ」と、アメノヌボコを用いて私達の住む地球、自(おの)ずから転がる「オノゴロジマ」をつくったのだと、日本書紀は記述しているのです。
つまり「豈国」とは「よろこびあふれる楽しい国」のことなのです。

実はこのことを出口光先生にお話ししたとき、出口先生が「豈」という字を見て、
「これはヤマトだね」とおっしゃいました。
衝撃でした。
「豈」という字は、「山」と「豆」で出来ています。
そして「豆」の訓読みは「と」です。
「やま(山)」に「と(豆)」で、「ヤマト」です。

ヤマトの語源論は別として、古代の日本人が、私たちの国を「ヤマト」と呼び、そのヤマトが希求した国の形が、私たちみんなにとっての「よろこびあふれる楽しい国」であったといういことは、まさに目からウロコが剥がれ落ちる事実で、それはとっても誇るべきことであると思います。

誰か一人の贅沢な暮らしのために、周囲のみんなが奴隷として使役される社会ではなく、末端のみんなが主役となって、みんなにとって、社会がよろこびあふれる楽しい国であること。
そのことを実現するために築かれたのが、天皇という権威を国家最高権力の上に置くというシラス統治の形です。

残念ながらこういうことが、戦後教育の「あに〜や」は反語表現である、という固定概念に固まってしまうと、まったく見えなくなってしまうのです。
こだわりから思考停止に至ることは、とても残念なことです。

お読みいただき、ありがとうございました。

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