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「日本の女性は差別されていた」が聞いてあきれます。
日本の女性たちは千年も前から、男たちと対等な存在として、堂々と立派に生きてきたのです。
それが日本の文化です。

百人一首の88番に、皇嘉門院別当(こうかもんいんのべっとう)の歌があります。
難波江の 蘆のかりねの ひとよゆゑ
身を尽くしてや 恋ひわたるべき
(なにはえの あしのかりねの ひとよゆゑ
みをつくしてやこひわたるへき)
(現代語訳)
難波江のほとりの蘆での仮寝の一夜でも、身を尽くして(命懸けで)、恋い(乞い)続けるべきです。
(解説)
この歌は『千載集』に掲載されている歌で、そこには詞書(ことばがき)があります。
「摂政右大臣の時の家の歌合に、旅宿逢恋といへる心をよめる」というものです。
つまり、旅の宿での恋の逢瀬を題材にした歌会の席で、皇嘉門院別当が詠んだ歌であると記されています。
この時代の大阪の難波は、うっそうと葦(あし)が茂る入江になっていました。
そんな難波は、一昔前までは交易のための港として栄えたのですが、皇嘉門院別当の時代にはさびれ果てていたようです。
もともと繁栄していた町や店が町ごと衰退していくと、不思議なことに風俗関連のお店が立ち並ぶようになります。
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「難波江の 蘆のかりね」というのは、そんなさびれて遊女たちがたむろする難波の入江での仮寝(かりね)、つまり遊女との一夜の恋をいいます。
「葦のかりね」とありますが、その遊女たちの営業場所が、葦でできた船だったのか、あるいは葦で葺(ふ)かれた屋根を持つ宿屋だったのか、いずれにしても、そこで一夜をともにするわけです。
けれどそんな遊女たちであっても、たった一夜の相手に恋心を抱き、一生、その相手を恋続けることがあるという。
「みをつくし」というのは、「身を尽くし」でもあると同時に、海上標識の「澪標(みをつくし)」にも掛けられています。
海上標識の「澪標」は、船の航路と、浅瀬を識別するための標識で、つまり船が通れる限界ギリギリの場所を示すものです。
ですからこの歌の「みをつくし」にも、限界ギリギリの切羽詰まったような思いが掛けられています。
「たった一夜の出会いであっても、それが本当の恋ならば、遊女たちであってもその恋を一生忘れないと聞く」
そんなニュアンスが、この歌で詠まれているわけです。
ところが藤原定家は、この歌を88番という百人一首の末尾の方に配置し、かつ歌人の名前を「皇嘉門院別当」と記しました。
「皇嘉門院」というのは、摂政藤原忠通の娘で崇徳天皇の中宮であった皇嘉門院・藤原聖子(ふじわらのせいこ)のことです。
「別当」は、その聖子付きの女官の長官という意味で、いまの時代でいうなら、皇后陛下付き女官のトップの女性です。
つまり定家はこの歌を、職業人としての役名で紹介しています。
それをさらに、単に「別当」という役名で記すのではなく、その主筋にあたる皇嘉門院の名前をあえて付しているわけです。
そう思ってこの歌をあらためて読むと、中宮付きの女官が遊女のことを歌に詠んでいるということも不思議なら、単に「旅宿逢恋」を歌っているにしては、
「かりね」が「刈り根」と「仮り寝」、
「ひとよ」が「一節」と「一夜」、
「みをつくし」が「澪標」と「身を尽くし」、
「こひ」が「恋ひ」と「乞ひ」
と、ひとつの歌のなかに、四つもの掛詞(かけことば)が挿入されています。
つまりこの歌は、たいへん技巧的な歌なのです。
しかも文意においても、「難波江の葦の刈り根の一節のように短い」という意味に「そんな短い仮り寝の一夜のために」という意味を重ねて詠んでいます。
くわえて先ほどご案内しましたように、「みをつくし」の「澪標」は、「限界ギリギリ、切羽詰まった切迫感」を感じさせ、同時に「身を尽くす」、つまり「なにもかも全てを捨てて危険を顧みずに全身全霊で相手に尽くす」という意味が込められているようです。
皇嘉門院は、皇位を追われた第75代崇徳天皇の皇后の聖子のことです。
崇徳天皇は退位して崇徳院となられていましたが、「保元の乱」によって讃岐に流刑にされています。
その崇徳天皇は、わずか三歳で天皇に即位されています。
妻の聖子は摂政である藤原忠通の娘で、崇徳天皇が十歳のときに中宮に迎えています。
政略結婚と言ってしまえばそれまでですが、お二方は子宝に恵まれなかったものの、とても仲のよいご夫婦であったと伝えられています。
けれども藤原忠通からすると、我が娘が天皇の男子を産めばこそのお家安泰です。
子がなければ、家の将来が危ないのです。
そこで藤原忠通は、強引に崇徳天皇に退位を迫って、天皇の弟の近衛天皇を第76代天皇にさせています。
ところがその近衛天皇が、わずか17歳で崩御されてしわれます。
困った藤原忠通は、やはり崇徳天皇の弟である後白河天皇を第77代天皇にしてしまうわけです。
このとき後白河天皇29歳。
当時の感覚からすれば、すでに壮年です。
天皇が未成年や子供で、まだ幼いからこそ、摂政の必要が生まれます。
それが29歳の後白河天皇が即位されたということは、藤原忠通にとって、最大の脅威は、すでに天皇を退位されて上皇の地位にあられる崇徳上皇と、弟君であられる後白河天皇が手を結ぶことです。
わが国では、天皇には政治権力は認められていません。
しかし上皇は天皇ではありませんから、摂政関白太政大臣よりも政治的に上位となります。
つまり現役の天皇である後白河天皇は政治権力を持ちませんが、退位されて上皇となっておいでの崇徳上皇は政治権力を持つのです。
もしこのお二方が、兄弟でしっかりと手を結ばれたら、藤原忠通の地位は危なくなります。
崇徳上皇は、争いを好みません。
ですから上皇となってからも、意図して政治に関与せず、毎日を歌会などですごしておいででした。
藤原忠通は、崇徳上皇にとっては妻の父、つまり義理の父にあたりますし、その妻を深く愛する崇徳上皇には、妻の父の不安は痛いほどわかります。
だからこそ崇徳上皇は、あえて政治に口出しをしないようにされていたのです。
このことは、徳川幕府成立時に、意図して阿呆を演じた加賀の前田家と似ているかもしれません。
ところが、三歳児を天皇の地位に据えるなど、それまで権力をほしいままにしてきた忠通からすると、いくら崇徳上皇が政治に無関心を装っていても、もともと崇徳上皇が聡明な御方です。
疑心暗鬼に陥った藤原忠通は、後白河天皇の宣旨を得ると、崇徳上皇に謀叛の兆しありとあらぬ疑いをかけ、平清盛らに命じて、武力で崇徳上皇を逮捕して讃岐に流罪にしてしまうのです。
これが保元の乱です。
こうして崇徳上皇は崇徳院となって讃岐に流され、妻の聖子様は、皇嘉門院と名乗って都に残りました。
そして世は、保元の乱、平治の乱を経由して、平清盛の全盛の時代に向かいます。
その清盛は、自分の悪評が立てられることをおそれ、都に赤禿(あかかむろ)と呼ばれる、いまでいったら中学生くらいの若者に、赤い衣装を着せて、平家の悪口や、政府に対して不満を漏らす者を監視しました。
赤禿たちは、そうした人を見つけると報告し、報告された者は、即刻逮捕され、地位を追われ、場合によっては殺害されました。
その一方で、戦が続いた都に限らず、日本中で武威のために人が人に殺されるという事態が頻発します。
わが国では、民は、天皇のおおみたからです。
人が戦いによって傷つけば、その傷ついた人には必ず家族身内がいるのです。
世の中には、そうして傷ついたり、身内を失ったりした民衆の涙が満ちるようになる。
そうした時代背景下にあって、ある日、皇嘉門院付きの女官長である別当が、摂政右大臣の家での歌合に招かれたわけです。
そして詠んだのが、この歌です。
歌は、一見すると単に遊女の恋を詠んだ歌です。
ところが掛詞が幾重にも重ねられています。
たいへん技巧的な歌になっています。
そしてまず気になるのは、初句の「難波江」です。
「難波」は「百人一首」では十九番の伊勢や二十番の元良親王の歌にも登場しています。
その歌が、
わびぬれば 今はたおなじ 難波なる
みをつくしても逢はむとぞ思ふ
という歌です。
「思いどおりにはいかないけれど、今となっては同じこと。
難波の航行の目印の澪標のように、
限界ギリギリであっても身を尽くしても逢おうと思います」
という、これはものすごく情熱的な愛の歌です。
ところが実は、本歌取りされた元良親王のこの歌は、親王でありながら、政治的な繋がりから天皇になれなくなった元良親王が、宇多上皇を貶めるために、その愛妻があたかも親王と不倫の関係にあるようなことを吹聴した歌です。
つまり「みをつくしても逢はむとぞ思ふ」と言ってはいるけれど、それ自体が虚飾です。
皇嘉門院の別当は、そんな虚飾の歌を、意図して本歌取りして「身を尽くしてや恋ひわたるべき」と詠んでいます。
また元良親王の時代には、難波江は、唐との交易でたいへんに栄えた港でした。
ところが遣唐使廃止後、時代が進むに連れて難波の港はさびれていき、皇嘉門院別当の時代には、難波は女郎屋がはびこる、いまでいう風俗街になっていたわけです。
つまり、昔は良かったけれど、いまは良いとは言えない状態になっている。
「かりね」も「ひとよ」も掛詞です。
ですから上の句は、
「昔繁栄していたけれど今はすっかり様変わりしてしまった難波江の、群生している葦を刈ったあとに残っている根本の短い一節のような、そんな短い仮り寝の、たった一夜」といった意味です。
ここでは、昔の繁栄と今の衰亡が描かれています。
そして、群生する葦と刈り取られた葦によって、何事かが失われた状態が描かれています。
さらに「短い仮眠、短い夜」によって「短い時間」が強調され、下の句は、それらを「身を尽くしてや」と受けています。
「身を尽くし」は、「危険があっても、命懸けで」という意味です。
「恋ひわたる」は、「恋」が「戀」で千々に乱れる心を暗示し、さらに「乞ひ」との掛詞になっています。
「わたる」は長い間続けることを指し、
「や~べき」は係り結びで「~するべきではないですか」となります。
つまり下の句は、「たとえ危険があろうとも身を尽くして(命懸けで)、恋い(乞い)続けるべきではありませんか?」と問うています。
こうして上の句と下の句をつなげてみると、
「昔繁栄していたけれど今はすっかり様変わりしてしまった難波江の、群生している葦を刈ったあとに残っている根本の短い一節のような、そんな短い仮り寝の、たった一夜の恋であっても、遊女はその恋を忘れないといいます。たとえ危険があろうとも身を尽くして(命懸けで)、恋い(乞い)続けるべきではありませんか?」
となります。
「昔繁栄していた」というのは、「保元の乱」以前の五百年続いた平和と繁栄の社会です。
それが今は刈り取られてしまっている。
別当が仕えている皇嘉門院聖子は、先にも述べましたように、流刑にあった崇徳院の皇后です。
阿呆のふりをしてまで平和を望んだ夫は、あろうことか流刑されているのです。
その理不尽な状況に、皇嘉門院は涙の日々を送っておられる。
皇嘉門院に仕える女官として別当は、歌合の場に集まった貴族たちに、まさに血涙を流す思いで、
「あなたたちは、それでいいのですか?」
と呼びかけているのです。
たまたま皇后陛下にお仕えする女官が歌合の席に呼ばれたのです。
それが別当の置かれた立ち位置です。
そこには並み居る群臣たちがいます。
歌合のテーマは「旅宿逢恋」です。
順番が巡ってきたとき、皇嘉門院別当は、持参した歌を披露しました。
一見すると「遊女たちでさえ、一夜の恋が忘れられない」という意味の歌です。
ところが中宮付きの女官が遊女の歌を詠むことも異例のことなら、その歌には幾重もの掛詞が用いられている。
ただの「寂れた港の遊女の恋」を詠むのに、ここまで技巧を凝らしたのは何故でしょうか。
和歌は「察する」文化です。
ですから当然、その場に居合わせた貴族たちは、
「どんな意味なんだろう」と、その掛けられた言葉のひとつひとつを追っていきます。
すると、そこに詠み込まれた歌の真意に驚愕するのです。
「遊女の短い一夜限りの逢瀬でも
一生忘れられない恋だってあるといいます。
私たちは一夜どころか、
五百年続いた平和と繁栄を享受してきました。
そのありがたさを、その御恩を、
たった一夜の『保元の乱』を境に、
あなた方はお忘れになってしまうのですか。
父祖の築いた平和と繁栄のために、
身を尽くしてでも平和を守ることが、
公という立場にある、
あなた方貴族のお役目なのではありませんか」
都中の政府の閣僚や高級官僚たちが大勢集まった歌合の席で、
一人の女性が真剣な面持ちで、
「一夜限りの恋が忘れられませんわ」と、一見すると官能的な恋歌を詠み上げる。
するとその真意を察した並み居る貴族たちが、誰一人言葉を発することができずに、みなうつむくばかりになってしまう。
歌合の席には、敵方の人たちもいたことでしょう。
いやむしろ、その場の全員が敵方に回っていたというのが実際の情況であったことでしょう。
そんななかにあって、皇嘉門院別当はまさに檄文のごとき和歌を携えて、たった一人で戦いを挑んだのです。
その凄味、その気迫。
日本の「察する」という文化の神髄です。
平安貴族たちというのは、仕事をほっぽり出して毎日和歌に興じていたわけではありません。
聖徳太子の「十七条憲法」十一条にある「明察功過」を大事にし、わずかな兆候を事前に察して、問題が広がっ
たり大きくなる前に対処するのです。
良いことであれば、その徴候の段階で褒めたり顕彰したりし、悪いことは、その徴候の段階で「あらかじめ察し」て、事件になる前に対処をしてきました。
そのために必要な「察する」能力を極限まで高めるために、誰もが競い合うようにして和歌を学んでいたのです。
皇嘉門院別当が生きた時代は、すでに世の中は人が人を平気で殺す世の中になっていました。
このような歌を公式な歌合に出詠すれば、彼女は殺される危険だってあったわけです。
しかもその咎(とが)は、別当一人にとどまらず、もしかすると皇嘉門院にも及ぶかもしれません。
ということは、別当は、歌合の前に皇嘉門院様に会い、
「この歌の出詠は、あくまで私の独断でしたことにいたします。
皇嘉門院様には決して咎が及ばないようにいたします」とお話になられていたことでしょう。
そして別当からこの申し出を聞き、それを許可した皇嘉門院も、その時点で自分も「殺される」と覚悟を決められたことと拝します。
つまりこの歌は、単に皇嘉門院別当一人にとどまらず、崇徳天皇の妻である皇嘉門院の戦いの歌でもあるのです。
そこまでの戦いを、この時代の女性たちはしていたのです。
いかがでしょう。
なみいる群臣百卿を前に、堂々と、たったひとりで女性が戦いを挑む。
挑まれた側の公家たちは、ひとことも返せずに、ただうつむくばかりとなる。
「日本の女性は差別されていた」が聞いてあきれます。
日本の女性たちは千年も前から、男たちと対等な存在として、堂々と立派に生きてきたのです。
それが日本の文化です。
お読みいただき、ありがとうございました。
(出典:『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』

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