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「威張り」というのは、我が国では「いばり」であって、「いばり」とは「尿」のことです。
そんなものは、排尿だだということは、日本人のリーダー観として実におもしろいと思います。
なにしろ、そういうものは溜まるものだということですし、溜まったらさっさと出してしまえという気分が日本人の心にあるということだからです。
日本人が求めるリーダー像は、威張る人ではないのです。
日本人が求めるリーダー像は、みんなを明るく結ぶ役割を果たす人です。
日本人が求めるリーダーは、不動の信念を持ち、みんなの気持ちを明るくさせて、みんなの心を結んで行くことができる、真面目で明るくて信念のある人です。

武田信玄像 長谷川信春(等伯)作
(画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)
儒教では、お大人(おだいじん)というのは、常に片方の頬に微笑みを浮かべながら、ゆったりとした動作で、箸(はし)の上げ下(お)ろしもゆるやかな人なのだそうです。
収奪文化の頂点にいる人は、自分で働くことをせず、人の上に立って判断と指図をするだけですから、常に心に余裕を持つことが大事で、その余裕が日常の所作にまであらわれていることが必要とされるのだそうです。
ですから儒教的大物というのは、ひらたくいえば「デンと構えて動かない」ような人ということになります。
その儒教は日本に入ってきましたし、影響を受けて儒教型リーダーになろうとした人もいたようです。
けれど、そうした人たちは世間の尊敬を受けることはありませんでした。
トップにあるのは武田信玄の肖像画です。
信玄は尊敬を集めたリーダーですが、その容姿は、どうみても土建屋の親父です。
実際、信玄はものすごく土木工事に精を出した戦国大名で、武田信玄のおかげで甲府盆地は極めて住みよい街になりました。
西郷隆盛は、我が国の歴史上の大物中の大物ですが、上野公園にある西郷さんの銅像は、寸足らずの着物の着流し姿であって、特段立派な姿をしているわけではありません。
こうしたことが何を意味しているかと言うと、我が国では大物を装うから大物ではない、ということです。
みかけはしょぼくれていたとしても、立派ではないとしても、みんなのために知恵を出し、汗をかき、みんなのために方向を示し、その示しにまったくブレがないことが、日本型リーダーです。
| 『ねずさんのひとりごとメールマガジン』 |

芥川龍之介の小説に『神神の微笑』という短編小説があります。
いまは青空文庫でネットで簡単に読むことができます。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/68_15177.html
この小説は、宣教師として日本に赴任したオルガンティノの葛藤を通じ、西洋的な勝利の精神と、日本的な和の精神を対比させています。
芥川龍之介は、この小説の中で、西洋的正義が、戦いに勝利し制圧し、異なるものを駆逐して、その土地の人々を勝者側の色、一色に染めてしまうことにあることを見事に描いています。
これに対し日本は、どちらの勝利も求めないところに特徴があることを、芥川龍之介はこの小説で描いています。
勝利を求めるのではなく、双方の良いところを融和し結びあわせて、より使いやすいもの、より明るいもの、たのしいものにしてしまう。
こうした日本的精神が、ではどこからきているのかといえば「豈国(あにくに)」という、イザナキ、イザナミの心からのものといえます。
「豈国」というのは「よろこびあふれる楽しい国」のことで、イザナキとイザナミは、その「よろこびあふれる楽しい国」を築くために淤能碁呂島(おのごろじま)を築いたのだと日本書紀は書いています。
根底となる枠組みが、「勝利・殲滅」にあるのか、「みんなのよろこび」にあるのかは、行動が同じでも、結果に重大な影響を及ぼします。
芥川龍之介の小説の『神神の微笑』でいえば、宣教師の布教のための行動が人々の幸せのためであることは間違いがないのです。
けれど、その根幹にあるものが、布教しようとする神様以外の一切を認めないというものであることと、すべてを結んで、そこからより良い人々の暮らしを見出そうとするのでは、布教が行われた結果はまったく違ったものになります。
儒教は、ChinaやKoreaでは支配層を確立するために必要な指針となりましたが、我が国ではそうはなりませんでした。
我が国において民衆のリーダーとなる人は、むしろ積極的にみんなにはたらきかけて、みんなのための未来を拓く存在と考えられてきたからです。
ですから日本型リーダーには、強さや身分とは関わりなく、もともとが「よろこびあふれる楽しい国」が根本にあるわけですから、みんなの気持ちを明るくする明るさや、元気の良さ、信頼の持てる不動の根幹を持つことなどが要求されたわけです。
我が国の頂点におわすのは、天皇陛下です。
けれど天皇が、その長い歴史上、威張り、支配し、大物ぶったという歴史は、我が国にはありません。
ちなみに、「威張り」というのは、我が国では「いばり」であって、「いばり」とは「尿」のことです。
そんなものは、排尿だだということは、日本人のリーダー観として実におもしろいと思います。
なにしろ、そういうものは溜まるものだということですし、溜まったらさっさと出してしまえという気分が日本人の心にあるということだからです。
日本人が求めるリーダー像は、威張る人ではないのです。
日本人が求めるリーダー像は、みんなを明るく結ぶ役割を果たす人です。
日本人が求めるリーダーは、不動の信念を持ち、みんなの気持ちを明るくさせて、みんなの心を結んで行くことができるやさしさを持ち、真面目で明るくて信念のある人です。
そしてその模範となるのが天皇です。
天皇は、上古の昔から我が国の政治家を司(つかさど)る人ではありません。
政治の上にあって民衆を「おほみたから」として結ぶ人です。
結ばれた集合体が、天皇のシラス民です。
そのシラス民が、豊かに安全に安心して暮らせるようになるために、政治や行政を天皇から親任されているのが政治家であり、官僚です。
これが日本の形であり、究極の民主主義の形です。
このことを戦前には「天皇制社会主義」とか、「天皇制共産主義」と読んだ人がいました。
確かに似ているようではありますが、2つの点で間違っています。
ひとつは、天皇は「制度ではない」ということです。
どこのご家庭にも本家と分家がありますが、本家のことを「制度」と呼ぶ人はいないでしょう。
これと同じで天皇は制度ではありません。
日本中の各姓氏の本家の中の総本家であって、これは血の問題であって制度の問題ではありません。
2つ目は、社会主義、共産主義は、別な言い方をすれば虐殺主義です。
我が国に虐殺の文化はありません。
従って、天皇の御名に、社会主義とか共産主義を付けるのは、ふさわしくありません。
従って我が国は、「天皇のもとで究極の民主主義を実現した国」であり、これからもそう有り続ける国です。
そしてそういう国柄であればこそ、威張りではなく、信念のもとにみんなを大切にする人こそが日本型リーダーと呼べる人なのです。
お読みいただき、ありがとうございました。

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