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明治43(1910)年4月15日、第六潜水艇が広島湾に沈没しました。
この事故で、艦長の佐久間勉大尉を含む乗員14名全員が殉職されました。
事故のとき、佐久間艦長が薄れゆく酸素の中で残した手記があります。
この手記は、アメリカ合衆国議会議事堂の、ワシントンの独立宣言書が陳列されている大広間に、英訳を添えて丁重に陳列されました。
戦前戦中までは、誰でも知っていた第六潜水艇事件、あらためてその様子を追ってみたいと思います。
*
第六潜水艇は、明治39年に竣工した、当時としては珍しい、我が国初のガソリンエンジンによる潜航をする潜水艇でした。
ガソリン潜航というのは、ガソリンエンジンの通風筒の先だけを海面上に突き出して、ガソリン機関によって水上走航に近い速度を得ようとするものです。
原理的には、シュノーケルで潜水するものに近いと思っていただくとわかりやすいかと思います。
水中を潜航するときには、通風筒のバルブを閉じて、バッテリーの電力で潜水走行します。
時代を考えたら、本当に最先端の技術のかたまりだったわけです。
この当時、日本は9隻の潜水艇を保有していたのですが、このうちの7隻が欧米製で、国産が2隻。
そのうちのひとつが、この第六潜水艇でした。
潜水艇は潜行実験ために山口県の岩国を出航して、広島湾に向かいました。
第六潜水艇は、午前10時ごろから訓練を開始しました。
45分ほど経過したとき、何らかの理由で通風筒の長さ以上に艇体が潜航してしまい、艦内に海水が浸水しました。
乗組員はすぐに、浸水を防ぐために閉鎖弁を締めるのですが、肝心の閉鎖機構が故障を起こしてしまっていました。
艦内では、操作を手動に切り替え、弁の閉鎖の努力をしました。
けれど第六潜水艇は、17メートルの海底に着底してしまいます。
付近にいた監視船は、長時間たっても浮上しないことに気づき、ただちに広島県の呉港に在泊中の艦船に「遭難」の報告をしました。
救援の艦船が駆けつけました。
必死の捜索の後、ようやく船を見つけたけれど、艇長の佐久間勉大尉以下、乗組員十四人の死亡が確認されました。
*
さて、ここからが大事なところです。
| 『ねずさんのひとりごとメールマガジン』 |

実は第六潜水艇の事故よりも前に、イタリア海軍で似たような潜水艦事故がありました。
このときイタリア潜水艇では、乗組員が脱出用のハッチ(昇降口扉)に折り重なって、他人より先に脱出しようとして乱闘をしたまま死んでいました。
人間は、危機に直面すると本性が現れます。
誰だって死にたくないのです。
ある意味それはやむをえないことです。
「佐久間艇長以下の乗組員も醜態をさらしてしまっているのではないか」
海軍の関係者たちは、固唾(かたず)をのんで潜水艇のハッチを開けました。
*
乗組員が発見されました。
艇長は司令塔にいました。
機関中尉は電動機の側に、機関兵曹はガソリン機関の前に、舵手は舵席に、空気手は圧搾管の前にいました。
それぞれ全員、持ち場に就いたままの姿で亡くなっていました。
「よくやった。世界に醜態をさらさずにすんだ」
ところが、二名がいません。
「どこだっ!?」
二人は本来の部署にはいませんでした。
二人がいたところは、ガソリンパイプの破損場所でした。
彼ら二人は、空気がなくなる最後の最後まで、懸命に破損の修理に尽力していたのです。
そして、その作業中の姿のままで亡くなっていました。
引き上げられた六号艇を検分した一同は、死に至るまで職務に忠実であった様を見て、帝国海軍軍人として正にふさわしい死に方をしたと、その姿に全員が泣を流しました。
*
この事故の中で、亡くなられた佐久間艇長は、空気が乏しくなり、薄れゆく意識の中で、死の直前まで手帳に書き続けたメモを残していました。
一頁に3行から5行、全文39頁に及ぶ記録です。
苦しい息の中で、文字は正確、文章は簡潔明瞭でした。

口語訳してみます。
~~~~~~~~~~~~
■私の不注意によって陛下の艇を沈め、部下を殺すこと、誠に申し訳ありません。
■乗員一同、死に至るまで、皆よくその職を守り、沈着に事を処置しました。
■私たちは、国家のため職に倒れ、死にます。
しかし、ただただ、私たちが遺憾とするところは、私たちのこの誤りが、将来、天下の士の潜水艇の発展に打撃をあたえはしないだろうか、にあります。
■願わくば諸君、益々勉励もってこの誤解なく、将来潜水艇の発展研究に全力を尽くされん事を。
■さすれば我れら、ひとつも遺憾とするところはありません。
(中略)
■浸水のため、乗員たちの衣が濡れ、寒冷を感じた。
■私は、「常に潜水艇員は、沈着細心の注意を要する。
大胆に行動せざれば、その発展を望むべからず。細心の余り畏縮するな」と戒めた。
■世の中の人は、この失敗をあるいは嘲笑するかもしれない。しかし、私は前言の誤りのないことを確信しています。
~~~~~~~~~~~~~~
メモではまず、艇を沈め、部下を死なせることを詫び、乗組員全員が職分を守ったことを述べています。
当時はまだ、わが国の造船技術は低かったので、佐久間艇長は、この事故で研究や技術開発が遅れることを心配し、逆に益々進むことを願っているのです。
そして上の文の(中略)のところで、艇内の様子、各機器の状況などが詳細に記されています。
専門用語が並ぶので、ここでは中略としたのですが、佐久間艇長は、薄れていく意識と闇、悪ガスが充満し、体が冷え、手が震える状況の中で、事故の原因、対処した事項、刻々と進む艇内の状況を仔細に報告しています。
次に「公遺言」として、次の記述があります。
~~~~~~~~~~~~~
謹んで陛下に申します。
わが部下の遺族をして、窮する者のないよう、お取りはからいください。
私の念頭にあるのは、これあるのみです。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
実は当時は、事故に対する補償金などの支払いの制度がまだありませんでした。
だからこそ上の文になるのですが、佐久間艦長は、自分が息を引き取ろうとしているその間際において、部下たちの勇気と冷静沈着な行動に感謝し、遺族に暖かな手を差しのべて欲しいと願い出ています。
自分のことより、部下やその家族までをも気遣う、日本の心がここにあります。
また艦長は、最後に次のように恩人へのお礼を述べています。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
以下の諸君によろしく(順序不順)
斎藤大臣、島村中將、藤井中將、名和中將、山下少將一、成田少將
(気圧高まり、鼓膜が破られるような感じがある)
小栗大佐、井手大佐、松村中佐、松村大佐、
松村小佐(自分の兄です)
船越大佐、成田綱太郎先生、生田小金次先生
十二時三十分、呼吸、非常にくるしい。ガソリンをブローアウトしたつもりだけれども、ガソリンに酔うた。
中野大佐
十二時四十分なり・・・
~~~~~~~~~~~~~
佐久間艇長のメモは、ここで終わっています。
艇長は、ここで息絶えたのです。
佐久間艦長は、ひとりひとり世話になった恩人に、名前をあげて別れを告げています。
海軍の関係者や上司だけでなく、学校で教わった教師にも、よろしくと伝えています。
果たしていま、なんらかの事故で息を引き取ろうとするとき、生徒から最期に名前を読んでもらえる教師が、どれだけいるでしょうか。

*
事件は世界中に、日本人の責任感と勇敢さを示したものとして、伝えられました。
イギリスの新聞グローブ紙は、
「この事件で分かることは、日本人は体力上勇敢であるばかりか、道徳上、精神上も、また勇敢であるということを証明している。今も昔もこのようなことは前例がない」
と賛辞の声を掲載しました。
各国の駐在武官も、詳細な報告を本国に伝え、わが国の海軍省をおとずれ弔意を表明しました。
それは通常の外交儀礼を超えたものでした。
明治天皇からは、遺族に見舞金が届けられました。
これは特別の計らいでした。
このころ朝日新聞が、全国から乗組員の遺族のためにと義援金を集めました。
集まったお金は、現在の貨幣価値なら億単位となる五万六千円にも達しました。
与謝野晶子も、次のように追悼の歌を詠み、評判となりました。
海底の 水の明かりに したためし
永き別れの ますら男の文
またこのお話は、「やるべきことを最後まで成し遂げる」「職務を全うする」ということで、戦前の小学校の修身の教科書に取り上げられました。
戦前戦中の子どもたちは、こうして修身の時間に、佐久間艇長のお話などを通じて、職務を全うすること、責任を果たすこと、部下を思いやることの大事さなどを学びました。
子どもたちは、わが国の素晴らしい先人達の行動から、生きていくための人として備えなければならない徳目を勉強しました。
戦前の教育の特徴のひとつが、こうして「責任」の自覚を生徒たちに求めたことです。
何ごとをなすにも「責任感」がなければ、物事は中途半端に終わります。
特に生死をかけた軍の活動には、この責任感の有無は部隊の死活問題となります。
この第六潜水挺事件があった年の8月(明治43年8月29日)に日韓併合が行われ、半島の人たちは日本人となりました。
けれど日本が、半島人を同じ日本人として併合しながらも、彼らを容易に軍人として採用しなかったことには理由があります。
半島の男性は、日本人一般とくらべて背が高く、体格も良いのです。
そして日頃は、その体力にものをいわせて、たいへんに威張るし、態度も大きかったりしました。
けれど、いざ敵弾が飛んでくると、すぐに「アイゴー」と叫んで銃を放り投げて逃げ出すのです。
しかも証拠隠滅のために、やたらに放火をしたがる傾向がある。
すべての人とはいいません。
しかし常に自軍の何倍もの、ときには10倍、20倍の敵と戦わなければならなかったギリギリの修羅場に、ひとりでもそういう人がいれば、部隊は全滅の危機に瀕するのです。
不良では軍人は勤まらないのです。
どこまでも正直であり、どこまでも愚直に、誰もいなくなっても最後まで任務をまっとうするような人でなければ、軍務は勤まらないのです。
昭和16年3月に陸軍省が発行した『戦陣訓の根本精神』は次のように書いています。
「戦場では勇怯の差の如きは、
甚だ小なるものである。
しかし責任感の差は非常に大きい。
故に本訓の二の第六「責任」の項において
『責任を重んずる者、
是真に戦場に於ける
最大に勇者なり」
と説き、如何なる恐怖心強き者も、
自暴自棄に陥ることなく、
献身殉国の大勇者たり得ることを捉えてゐるのである。」
もっとひらたく言うならば、どんなに体力気力に優れていても、不良ではいざというときに役に立たないのです。
どこまでも真面目。
どこまででも愚直。
決して責任を放棄しない気質こそが、戦場においては最大の力となるのです。
この点について、昨今、我が国でつくられる邦画やドラマなどでは、監督やプロデューサーや役者さんたちが半島系の人たちであるためか、体力のある不良が活躍して勝利を得るような展開のものが多くなっています。
けっしてそんなことはないのです。
なぜなら、不良は、いざというときに自分可愛さに逃げてしまうからです。
*
話が脱線しました。
第六潜水艇は、事故後に引き揚げられ、終戦までは海軍潜水学校に常設展示されていました。
けれど、GHQがやってきたとき、この潜水艦はGHQによって解体されました。
ちなみに解体された第六潜水艇は、鉄くずとして当時三国人を自称した在日朝鮮人のスクラップ屋がタダ同然で買い取りました。
そして朝鮮戦争で大量の鉄を必要とした米軍の軍需工場に高値で売り払いました。
戦後という時代は、こうして日本人の誇りを売り払うことが、莫大な金儲けになった、そんな時代でもあったのです。
※この記事は09/09/15の記事をリニューアルしたものです。
お読みいただき、ありがとうございました。

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