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真理は、
見ることを拒まなければ、
私たちの誰の魂の中にも明りを灯すでしょう。
その明りは、
私たちの浅薄な才能、
卑しい意地悪利己心、
虚栄や嫉妬などを照らし出し、
他人のなかにある良さを見せてくれます。

写真は順に津田梅子、アリス・ベーコン、瓜生繁子、大山捨松
(画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)
平成から令和に元号が代わったことを受けて、お札もデザインが変わり、新1万円札には渋沢栄一、5千円札に津田梅子、千円札には北里柴三郎が採用されることになったそうです。
そこで今回は、津田梅子について書いてみたいと思います。
津田梅子は、明治初期に大山捨松と一緒に6歳で米国に留学した女性です。
もともと下総国(いまの千葉県)の佐倉藩の武家の娘で、父親は津田仙(せん)といって、福沢諭吉らとともに咸臨丸で日本初の親米使節団の一員となった人です。
佐倉藩は、江戸初期に春日局に重用されて佐倉11万石の大名となった堀田氏の家柄で、徳川綱吉の時代には大老職を拝命する家となっていました。
津田梅子の父の津田仙が学生の頃は、藩主が堀田正倫(ほったまさとも)で、彼は「オランダかぶれ」と噂されるほどの西洋的通でした。
そんな藩風もあって、梅子の父の仙は、15歳で佐倉藩の藩校である成徳書院(現在の千葉県立佐倉高校)を卒業すると、江戸に出てオランダ語、英語、洋学、砲術を学びました。
そして17歳のときには、江戸湾警護のための砲兵隊員になったのですが、その仙の前に現れたのが、黒船です。
外国船が日本に国交を求めて来日するのは、江戸時代を通じて何度もあったことです。
そのことごとくを幕府は打ち払っていたのですが、どうしてペリーの黒船だけを特別に来航を認めたのかと言うと、別に黒船の色が黒かったからとか、蒸気船であったからとかいうことではありません。
ひとつには、ペリーが船に搭載したペクサン砲が気になったということがあるのですが、それ以上に、阿片戦争に勝利した英国の圧力、すでにインドシナを制圧したフランスの圧力が高まる中、新興国であった米国を当て馬にすることで、国を守ろうとする軍事的外交的意図が幕府にあったことも事実です。
そうした時勢の中にあって、仙は、すでにオランダが世界を制圧していた時代は過ぎた。
これからは英米の時代、つまりオランダ語ではなく、英語の時代になったことを察するわけです。
| 『ねずさんのひとりごとメールマガジン』 |

「これからの時代は英語だ」
父は砲兵隊の職を辞すると、江戸の蘭学塾で、英語を猛勉強しました。
そして横浜に行って、英国人の医師のもとに弟子入りし、ナマの英語を学びます。
こうして幕府が米国に使節団を派遣することになったとき、父は、使節の通訳として採用になりました。
慶応2(1867)年のことです。
父・仙は、咸臨丸に乗って米国に行きました。
そして米国の巨大な富や、米国の社会システムを見聞しました。
戊辰戦争のあと、多くの幕臣が徳川さんと一緒に江戸から駿府(静岡県)に落ちた中で、英語の達者な仙は、北海道開拓使の嘱託に登用されました。
そこで黒田清隆など政府要人の知遇を得ます。
そして、
「北海道の開拓をするなら、
おなじく広大な土地を開拓した
米国に見習うのがよろしい。
米国は男女の別なく
教育の機会が与えられてもいる」
と北海道開拓官の黒田清隆に進言しました。
女子教育に関心のあった黒田清隆は、政府が派遣する岩倉使節団に女子留学生を随行させることを企画し、これを実現させます。
日本女子を米国に留学させ、米国女性を現地で観察させてその素晴らしさの秘密を探り、米国式教育を身につけさせ、帰国後は北海道開拓の良き母になってもらおうという計画です。
留学期間は10年間という長期に及びます。
そして米国人と同等以上のネイティブな語学力を身に付けさせるためには、なるべく幼い子どもが良い。
こうして父は、迷わず梅子を渡米させる決意をします。
実は通訳である父にも悩みがあったのです。
彼は、猛勉強して英語力を身につけたのですが、それは17歳になってからです。
すでに語学の完全習得には難しい年齢になっていたのです。
渡米に参加した女性は、14歳が2人、11歳、8歳、6歳の、計5人です。
このなかの11歳が山川捨松、最年少の6歳が津田梅子です。
いよいよ米国に向けて出発のとき、横浜港に見送りに来ていた人々は、幼い梅子を見て、
「あんないたいけな娘を
アメリカにやるなんて、
親はまるで鬼ではなかろうか」
と言ったそうです。
このとき梅子が知っていた英語は、「イエス」「ノー」「サンキュー」の三語だけです。
しかし父の決意は固く、梅子もまた、父の決意をかたくなに受け取っていました。
父は、幼い梅子に、小さな英単語の辞典と、日本の紙人形を持たせました。
船は明治4(1871)年に横浜を出発。サンフランシスコを経由して12月にワシントンに到着しました。
このとき米駐在公使であった森有礼(もり・あれ)は、最年少の梅子を見て、
「どうすればいいんだ。
こんな幼い子をよこして」
と悲鳴を上げたそうです。
わかる気がします。

渡米した梅子は、ジョージタウンに住む日本弁務官書記のチャールズ・ランマン家に預けられました。
ランマン夫妻は、惜しみない愛情を梅子に注いで梅子を育ててくれたそうです。
渡米して1年が過ぎた頃、7歳になった梅子は、自分からキリスト教の洗礼を受けたいと申し出ます。
夫妻が説得したわけでも、勧めたわけでもありません。
梅子はランマン夫人や周囲の米国女性の姿から、米国女性が聖書から道徳を学んでいることを発見したのです。
米国人女性のような立派な女性になることが、留学の目的です。
梅子の小さな心には“自分の留学の「使命」がはっきりと認識されていたのです。
少女時代の梅子は、英語、ピアノ、ラテン語、フランス語などのほか、生物学や心理学、芸術などを学びました。
そして明治14(1881)年には北海道開拓使から帰国命令が出たのですが、山川捨松(のちの大山捨松)と津田梅子の2名は、留学の延長申請しました。
この延長によって大学を卒業した梅子は、明治15(1882)年7月に帰国しました。
11年間のアメリカ生活を終えて帰国した梅子ですが、日本では厳しい現実が待ち受けました。
梅子を送り出した北海道開拓使そのものが、梅子帰国の少し前になくなってしまっていたのです。
北海道開拓使は、資産払下げにまつわる不正スキャンダル事件を起こし、組織自体が解散してしまっていました。
梅子の留学を計画した役所そのものがなくなってしまっていたわけで、このため帰国した梅子を受け入れる先がなくなっていたのです。
胸をふくらませながら帰国した梅子は、たちまち落胆と焦燥の日々を過ごすことになりました。
仕事がないのです。
さらに大きな問題がありました。
梅子は6歳から渡米生活を送っています。
このため、日本語能力がほとんど失われていたのです。
帰国当初は、家族と挨拶を交わすのすら難儀しました。
やむなく梅子は、父の仕事や家事を手伝います。
国費で10年以上にわたって、高い教育を受けてきたのです。
なんとかして自分の力を日本の発展のために役立てたい。
ところが当時の日本社会は、女性に教養も、義務も使命も求めていません。
梅子はこの頃ランマン夫人に宛てた手紙に、こう書いています。
「日本の女性たちは、
男性からましな扱いを受けることなど期待していず、
自分たちは劣っていると感じ、
向上しようなどとは全く思っていない」
「東洋の女性は、
地位の高い者はおもちゃ、
地位の低い者は召使いにすぎない」
このままではいけない。
女性の地位向上のためには、教育が不可欠だ・・・
梅子の使命感は、徐々に具体的な形となっていきました。
そして梅子の中に、女性のための学校建設をしよう、という明確な目的意識が芽生えて行きます。
それは「男性が考えた女子教育」ではなくて、
「女性が主導する女性のための女子教育」
というものでした。
ここに大切なことがあります。
梅子が目指した女性の地位向上は、最近のジェンダーフリーや、当世流行のフェミニズムとは、まったく違う、ということです。
梅子の教育論は、女性が権利ばかりを主張し要求する、いまどきのどこぞの、なんとか女史のものとはまるで違うのです。
「女性が自らを高める」というのが、梅子の信念です。
やみくもに権利を主張し、差別されていると被害者ぶり、特別待遇を要求したり、逆に男性を貶めたり、男性を声高に非難することは、かえって女性の尊厳を損ないます。
津田梅子が目指していた女性像は、自ら学び、成長し、聡明で公平な判断ができ、責任感に溢れ、能力がある、それ故に家庭では夫から尊敬され、社会から必要とされる女性です。
このことは、会社の社員を想定してみるとわかりやすいかもしれません。
社員として会社から給料をもらっていながら、やたらに被害者ぶって、上司や部下、あるいは同僚を非難・批判ばかりしているような社員は、男女の別なく、はっきり言って要らない社員です。
これに対し梅子が目指す、自ら学び、成長し、聡明で公平な判断ができ、責任感に溢れ、能力がある、それ故に尊敬され、社会から必要とされる人間像とは、どんな会社に行っても役に立つ人材であり、会社を成長へと導いてくれる有能な人材であり、女性です。
明治21(1888)年、梅子の留学時代の友人のアリス・ベーコン女史が来日します。
日本女性の地位向上の夢を追い求める梅子に、アリス・ベーコンは、再度の留学を勧めます。
父親の許しを得た梅子は、翌明治22(1889)年7月、再び渡米すると、フィラデルフィア郊外のリベラル・アーツ・カレッジ、ブリンマー・カレッジ (Bryn Mawr College) で生物学を専攻しました。
そしてこの大学を飛び級でわずか3年で早期卒業した梅子は、州立のオズウィゴー師範学校に入校し、ここで将来、自分が教育者となるための“教授法”の研究を行いました。

優秀な梅子に、大学は卒業後も米国に留まって研究を続けることを薦めるのだけれど、明治25(1892)年8月、梅子は、日本に帰国します。
そして女子華族院、明治女学院などで講師を務めた。
しかし、当時の女子大学や女学院は、行儀作法の延長教育が中心で、学問そのものを追及するような学校ではありません。
華族と平民という身分差による差別も歴然と存在していました。
当時の日本には、公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵、平民という身分制もありました。
梅子は、そうした身分差による差別の一切を廃し、女生徒たちの誰もが純粋に学問に打ち込める学校を創ろうと決心します。
こうして明治32(1899)年、梅子35歳の時、念願の「女子英学塾」を創設します。
これが現在の津田塾大学の前身です。
女子英学塾は、はじめ梅子やアリス・ベーコン、捨松など、梅子の友人らを教授陣とする無報酬の教授陣で授業を行いました。
しかし女子英学塾は、評判に評判を呼んで、生徒数が激増していきます。
新たな教授陣の確保、土地や建物の購入、事務経費の増大等、経費がかさみ、「女子英学塾」の経営はものすごく厳しいもので、大正4(1915)年、梅子は、日本の女子教育に対する貢献をたたえて、勲六等宝冠章を受章するけれど、梅子は創業の激務と心労で病に倒れてしまいます。
そして大正8(1919)年、塾長を辞任し、鎌倉の別荘で長期の闘病生活を送りますが、ついに昭和4(1929)年8月16日、64歳で、お亡くなりになりました。
生涯独身のままでした。
梅子は、わずか6歳で遠く異国の地に送られましたが、幼いながら自分の使命を自覚してひっしに勉強し、米国の学校内で誰からも認められる優秀な生徒となりました。
帰国した梅子は、共に留学した仲間が、次々結婚し、古い日本社会の慣習の中に埋もれていくのを見て、ひとり頑なに自らの使命に忠実に生きました。
結婚という女性の一般的生き方に抗い、日本女性の地位向上のため、その教育のために献身しました。
そして、日本の女子教育の先駆者として、歴史に名を残すことになりました。
ひとつ注意が必要です。
津田梅子は、いわゆる米国かぶれとは異なります。
その教育への情熱は、ひとえに日本の文化への愛を根本としています。
ですから彼女が「津田梅子文書」として英訳した本には、次のようなタイトルが選ばれています。
那須与一(平家物語)、益軒訓抄、小櫃与五右衛門と会津中将(常山紀談)、インスピレーション(徳富蘇峰)、姉妹の孝女(柳沢淇園)、敦盛最後の事(平家物語)、家康の聡明(常山紀談)、伏見の里(新撰日本外史)、清水(狂言)、自然の楽(貝原益軒)、粟津原(源平盛衰記)、朋友(徳富蘇峰)、正行吉野へ参る事(太平記)、西郷南州遺訓,小督の事(平家物語)、三人片輪(狂言)、瓜盗人(狂言)
女性でありながら、紫式部などではなく、平家物語などの武将の物語を選んでいるところに、なにか梅子の心を感じれるような気がします。
梅子の人生を俯瞰したとき、父と北海道開拓使から「社会の役に立つ立派な女性となる」という人生の目的意識を頑なに守り続けた様子を伺い知ることができます。
最近の学校では、子どもたちに「道徳を自分たちで考えさせる」という方針がとられているそうです。
しかし、そもそも人生の目的も、道徳観も価値観も教え込まれていない子供に、それを「考えろ」ということ自体、無茶な話です。
【先生】ワシントンが桜の木を切ったことを正直に話したとき、 彼の父親はすぐに許しました。
なぜだか分かりますか?
【生徒】ワシントンはまだ斧を“持っていた”からです。
笑い事では済まされないことです。
これではまるで特ア人です。
子供にはまず、国語と日本人としての倫理感、道徳観をしっかりと教えることが大事です。
そのプロセスを経てはじめて人は、自ら学び、成長し、聡明で公平な判断ができ、責任感に溢れ、能力があり、尊敬され、社会から必要とされる人材となっていくからです。
男女の別なく、学問はそのためにあります。
日本では女性が差別されていたのではありません。
女性には女性の役割があるということが重視されていたのです。
けれども、だからといって女性が高い教育を受けなくても良いということにはなりません。
むしろ女性には、女性らしさを高い教養のもとで磨く機会が必要です。
津田梅子の「女子英学塾」の目的は、まさにそこにあります。
津田梅子が塾の卒業生に贈った言葉です。
*****
先生をするのであれ、
主婦になるのであれ、
どのような方面の仕事をするのであれ、
高尚な生活を送るように努力してください。
古い時代の狭量さ、
偏屈さを皆さんから追い払い、
新しいことを求めつつ、
過去の日本女性が伝統として伝えてきた
すぐれたものは
すべて保つ努力をしてください。
******
真理は、
見ることを拒まなければ、
私たちの誰の魂の中にも明りを灯すでしょう。
その明りは、
私たちの浅薄な才能、
卑しい意地悪利己心、
虚栄や嫉妬などを照らし出し、
他人のなかにある良さを見せてくれます。
******
※この記事は2009年11月の記事のリニューアルです。
お読みいただき、ありがとうございました。

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