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少し古いものですが、平成7年11月6日に産経新聞に掲載された中静敬一郎著の『やばいぞ日本』という記事をご紹介します。
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81歳、進駐軍兵士だった元ハワイ州知事、ジョージ・アリヨシ氏から手紙(英文)が、記者の手元に届いたのは今年10月中旬だった。
親殺し、子殺し、数々の不正や偽装が伝えられる中、元知事の訴えは、
「義理、恩、おかげさま、国のために」に、日本人がもう一度思いをはせてほしい、というものだった。
終戦直後に出会った少年がみせた日本人の心が今も、アリヨシ氏の胸に刻まれているからだ。
手紙によると、陸軍に入隊したばかりのアリヨシ氏は1945年秋、初めて東京の土を踏んだ。
丸の内の旧郵船ビルを兵舎にしていた彼が最初に出会った日本人は、靴を磨いてくれた7歳の少年だった。
言葉を交わすうち、少年が両親を失い、妹と2人で過酷な時代を生きていかねばならないことを知った。
東京は焼け野原だった。
その年は大凶作で、1000万人の日本人が餓死するといわれていた。
少年は背筋を伸ばし、しっかりと受け答えしていたが、空腹の様子は隠しようもなかった。
彼は兵舎に戻り、食事に出されたパンにバターとジャムを塗るとナプキンで包んだ。
持ち出しは禁じられていた。だが、彼はすぐさま少年のところにとって返し、包みを渡した。
少年は「ありがとうございます」と言い、包みを箱に入れた。
彼は少年に、なぜ箱にしまったのか、おなかはすいていないのかと尋ねた。
少年は「おなかはすいています」といい、
「3歳のマリコが家で待っています。一緒に食べたいんです」といった。
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アリヨシ氏は手紙にこのときのことをつづった。
「この7歳のおなかをすかせた少年が、3歳の妹のマリコとわずか一片のパンを分かち合おうとしたことに深く感動した」と。
彼はこのあとも、ハワイ出身の仲間とともに少年を手助けした。
しかし、日本には2カ月しかいなかった。
再入隊せず、本国で法律を学ぶことを選んだからだ。
そして、1974年、日系人として初めてハワイ州知事に就任した。
のち、アリヨシ氏は日本に旅行するたび、この少年のその後の人生を心配した。
メディアとともに消息を探したが、見つからなかった。
「妹の名前がマリコであることは覚えていたが、靴磨きの少年の名前は知らなかった。私は彼に会いたかった」
記者がハワイ在住のアリヨシ氏に手紙を書いたのは先月、大阪防衛協会が発行した機関紙「まもり」のコラムを見たからだ。
記者は経緯を確認したかった。
アリヨシ氏の手紙は、「荒廃した国家を経済大国に変えた日本を考えるたびに、あの少年の気概と心情を思いだす。それは「国のために」という日本国民の精神と犠牲を象徴するものだ」と記されていた。
今を生きる日本人へのメッセージが最後にしたためられていた。
*
幾星霜が過ぎ、日本は変わった。
今日の日本人は生きるための戦いをしなくてよい。
ほとんどの人びとは、両親や祖父母が新しい日本を作るために払った努力と犠牲のことを知らない。
すべてのことは容易に手に入る。
そうした人たちは今こそ、7歳の靴磨きの少年の家族や国を思う気概と苦闘をもう一度考えるべきである。
義理、責任、恩、おかげさまで、という言葉が思い浮かぶ。
*
凛(りん)とした日本人たれ。
父母が福岡県豊前市出身だった有吉氏の“祖国”への思いが凝縮されていた。
■厳しい時代に苦闘と気概の物語
終戦直後、米海軍カメラマンのジョー・オダネル氏(今年8月、85歳で死去)の心を揺さぶったのも、靴磨きの少年と似た年回りの「焼き場の少年」であった。
原爆が投下された長崎市の浦上川周辺の焼き場で、少年は亡くなった弟を背負い、直立不動で火葬の順番を待っている。
素足が痛々しい。
オダネル氏はその姿を1995年刊行の写真集「トランクの中の日本」(小学館発行)でこう回想している。
「焼き場に10歳くらいの少年がやってきた。
小さな体はやせ細り、
ぼろぼろの服を着てはだしだった。
少年の背中には
2歳にもならない幼い男の子
がくくりつけられていた。
(略)
少年は焼き場のふちまで進むと
そこで立ち止まる。
わき上がる熱風にも動じない。
係員は背中の幼児を下ろし、
足下の燃えさかる火の上に乗せた。
(略)
私は彼から目をそらすことができなかった。
少年は気を付けの姿勢で、
じっと前を見つづけた。
私はカメラのファインダーを通して
涙も出ないほどの悲しみに
打ちひしがれた顔を見守った。
私は彼の肩を抱いてやりたかった。
しかし声をかけることもできないまま、
ただもう一度シャッターを切った。
(冒頭の写真)
*
この写真は、今も見た人の心をとらえて離さない。
フジテレビ系列の「写真物語」が先月放映した「焼き場の少年」に対し、1週間で200件近くのメールが届いたことにもうかがえる。
フジテレビによると、その内容はこうだった。
「軽い気持ちでチャンネルを合わせたのですが、冒頭から心が締め付けられ号泣してしまいました」(30代主婦)
「精いっぱい生きるという一番大切なことを改めて教えてもらったような気がします」(20代男性)。
1枚の写真からそれぞれがなにかを学び取っているようだ。
オダネル氏は前記の写真集で、もう一つの日本人の物語を語っている。
激しい雨の真夜中、事務所で当直についていたオダネル氏の前に、若い女性が入ってきた。
ほっそりとした体はびしょぬれで、黒髪もべったりと頭にはりついていた。
おじぎを繰り返しながら、私たちになにかしきりに訴えていた。
どうやら、どこかへ連れていこうとしているらしい。
それは踏切事故で10人の海兵隊員が死亡した凄惨(せいさん)な現場を教えるための命がけともいえる行動だった。
オダネル氏は「あの夜、私を事故現場まで連れていった日本女性はそのまま姿を消した。彼女の名前も住所も知らない。一言のお礼さえ伝えられなかった」と述べている。
苦難にたじろがない、乏しさを分かつ、思いやり、無私、隣人愛…。
こうして日本人は、敗戦に飢餓という未曾有の危機を乗り切ることができた。
それは自らの努力と気概、そして米軍放出やララ(LARA、国際NGO)救援物資などのためだった。
当時、米国民の中には、今日はランチを食べたことにして、その費用を日本への募金にする人が少なくなかった。
日本がララ物資の援助に感謝して、誰一人物資を横流しすることがないという外国特派員の報道が、援助の機運をさらに盛り上げたのだった。
こうした苦しい時代の物語を、親から子、子から孫へともう一度語り継ぐことが、今の社会に広がる病巣を少しでも食い止めることになる。
(中静敬一郎、産経新聞 平成7年11月6日「やばいぞ日本」より)
*****
戦後生まれのわたしたちは素晴らしい時代を生かさせていただいたものだと思います。
子供の頃は、舗装道路なんてそんなになかったし、道端には必ず側溝(ドブ)があったし、雨が降れば小学生の長靴など沈んでしまうくらい深い水たまりもできました。
学校給食は、コッペパンに脱脂粉乳で、校舎も木造校舎でした。
けれど、日本はみるみる豊かになり、学生たちが角帽持って赤軍デモなどをしている横では、大人たちが黙々と毎日建設に明け暮れ、道に建築中の建物の音が絶えた日がないくらいでした。
社会人になると、高度成長経済に浮かれ、入社したての新人OLが、その年の夏のボーナスで南の島やヨーロッパなどの海外旅行に出かけて行きました。
戦後70年。
その間、日本は戦禍に遭うこともなく、交通戦争とか企業戦争などいう言葉はありましたけれど、実際に徴兵などもされることもなく、おそらく自衛隊や警察官以外の人であれば、ホンモノの銃など見たこともないという人のほうが、圧倒的多数ではなかろうかと思います。
バブルは崩壊しましたが、それでも日本は食べ物も豊富にあり、外食レストランに行けば、世界中のおいしい料理を食べることもできます。
誰もが車に乗り、冬暖かく夏涼しいエアコンの効いた部屋に住むことができ、どこのご家庭にもテレビがあり、電子レンジがあり、冷蔵庫があります。
けれども、よく考えてみれば、戦後生まれの私たちの世代は、戦前の教育を受け、長く苦しい戦いを経験し、戦後の焼け野原から裸一貫でこの国を立てなおした多くの諸先輩たちが社会の中核を担う中で、ただ言われたとおりに若さと労働力を提供してきたにすぎません。
私たちの世代は、子供の頃は戦後の貧しい中で給食のコッペパンが不味いと文句を言い、若い頃は「俺たちは戦争を知らない子供たちだ」といいながら口先だけの反戦を唱え、長じては先輩たちが爪に火を灯すようにして蓄えた貯蓄を浪費し、ついにはバブルのマネーゲームに精を出して日本の富を散財させ、郵貯まで失い、いまや日本経済はChina以下となっています。
爺ちゃんたちが若かった頃は、苦しくつらい戦場でした。
オヤジの世代は、焼け野原の日本の復興の汗の時代でした。
私たちの世代は、いったい何だったのでしょうか。
もうすこし象徴的に言うならば、
爺さんの世代は、荒れ地を耕しました。
オヤジの世代は、畑を作りました。
私たちの世代は、できあがった作物を腹いっぱい食べ、土地をころがして贅沢をし、それだけじゃなく自分の代では払いきれない借金を作り、いままたさらに友愛や世界平和と綺麗ごとを並べてこの土地を日本を敵対視する国に売り渡そうとしているように思います。
私たちの世代は、親の代までに本当に血のにじむような努力をして築き上げてきた財産の恩恵にたっぷりと浸からせていただいただけでなく、もし、何もかも食い散らかした世代というならば、それってシロアリと同じかもしれません。
私たちは親や祖父母に多大な恩恵を受けていながら、私たちの子や孫に、いったい何を残すのでしょうか。
多少のお金ですか?
そのお金も国がなくなれば、通貨が仮にゲンやウォンに変わったら、その瞬間に紙切れです。
ありきたりな話に思われるかもしれませんが、私たちにとっていま本当に必要なことは、子や孫のためにも、これまで多くの日本人がくだらないとしてきた「義理、恩、おかげさま、国のためにに」という概念を、もう一度深くかみしめ、取り戻す必要があるのではないでしょうか。
流行りの言葉に「自由」というものがあります。
しかし英語の「Liberty」は、なんでもありの自由とは意味が異なります。
英語圏で言われる「Liberty」は、むしろ「道義」と訳すべきものです。
だから自由民主主義は、本当は道義民主主義です。
なんでもあり、というのは「Freedom」です。
けれどこの言葉は、英語圏でさえ自嘲用語や不道徳の意味に用いられています。
いまさら「Liberty」を「自由」と訳した誤訳を訂正するのはむつかしいかもしれないけれど、自由を謳うなら、同時に「ならぬことはなりませぬ」という日本古来の文化をも、私たち日本人は思い出す必要があるのではないかと思います。
公に奉じ、感謝の心を涵養し、恩を忘れず、義理に固い、そういう精神を取り戻すことこそ、いま日本にもっとも求められていることなのではないでしょうか。
※この記事は2010年12月の記事をリニューアルしたものです。
お読みいただき、ありがとうございました。

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