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《大人のための修身入門》(動画) 講師:小名木善行
第一回『修身教育とは何か?』
第二回『誠実とは何か?』
第三回『孝行とは何か?』
第四回「礼儀とは何か?」
第五回「博愛とは何か?」
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愛するがゆえに、相手のことを大切に思う。
ただ見守るだけの愛もあります。
遠く離れておもふだけの愛もあります。
子供が実家を離れて東京に出ていったからとって、親の子をおもふ気持ちが失われるわけではありませんし、親子の絆がなくなるわけではないでしょう。
どんなに離れていても、心の糸はしっかりとつながっている。
別々な人生を歩んでいても、互いに大切におもっている。
それが日本人の愛だと思います。
◆【お知らせ】◆
<東京・倭塾、百人一首塾他>
会場は都営新宿線船堀駅前にある「タワーホール船堀」です。
10月8日(月)13:30 第55回 倭塾 研修室 1330-160
10月27日(土)18:00 第30回 百人一首塾 407会議室
11月13日(火)18:00 第31回 百人一首塾 307会議室
11月25日(日)18:00 第56回 倭塾 研修室
12月6日(木)18:00 第32回 百人一首塾 301会議室
12月24日(月)13:30 第57回 倭塾 研修室
1月14日(月・祭日)13:30 第58回 倭塾
1月26日(土)18:00 第33回 ねず式ゼミナール
2月2日(土)13:30 第59回 倭塾
2月23日(土)18:00 第34回 ねず式ゼミナール
<関西・倭塾>
10月19日(金)19:00 倭塾・関西 第三回 (IK歴史勉強会 大航海時代と大国主)
11月9日(金)19:00 倭塾・関西 第四回 (IK歴史勉強会 唐の皇帝と日本の天皇)
12月8日(土)14:00 倭塾・関西 第五回 (IK歴史勉強会 稲作の歴史と古墳のお話)
<国内研修>
12月16日(日)~17日(月) 一泊二日 神話を体感する会
11月の倭塾関西の日程が11月11日(日)から、11月9日(金)19時に変更になっていますのでご注意ください。
『人生100年時代を楽しむ、大人の生き方 Magazine』というサイトがあります。
私もそこに「大人のための修身」というシリーズで動画出演させていただいているのですが、同サイトでは、動画だけでなくコラムの連載も行っています。
そのコラム記事の中に、中村うさぎさんの連載コラムがあります。
とても良いことが書いてありましたので、その一部を引用します。
全文は↓から読むことができます。
https://moc.style/world/serialization-writer-nakamurausagi-34/
******
<引用>
人と人とが繋がろうとすることを否定する気はまったくないのだが、声高に叫ばれる「絆」や「連帯」には非常に懐疑的である。
だって、それ、すごく危険だと思うのよ。
人間が一致団結する一番安易な方法は「同じ敵を作ること」だからね。
愛よりも憎しみの方が強い絆を生む。
人類の歴史を見れば、一目瞭然だ。
民族が心をひとつにして一致団結するのは戦争の時だけ。
社会運動や思想や宗教などの団体も、「仮想敵」を作ることで人心をひとつにまとめ上げる。
特定の敵を共有しない平和な境遇では、人々の心はすぐにバラバラになり、他者とはぐれてひとりさまようことになる。
今の我々が、まさにその状態ではないか。
登録会員募集中 ¥864(税込)/月 初月無料!
https://www.mag2.com/m/0001335031.html
ネットで特定の個人に狙いを定めて叩きまくる者たちも、有名人を槍玉にあげて鬼の首を取ったように正義漢面して糾弾するマスコミも、平和な社会に倦んだ人々が「仮想敵」を作っては徒党を組んで悪者叩きに興じる野卑な「疑似戦争」行為に見える。
こんな大人たちが子どもたちに向かって「イジメはいけません」なんて、どの面下げて言えるのか。
人間は敵を共有することでしか強い絆を保てない、本質的に「ヘイト」を好む生き物なのである。
では、我々は「愛」で繋がることはできないのか?
「家族」は? 「友情」は?
確かに、そういう感情で繋がりを持つこともできる。
だが、それは憎しみによる繋がりに比べると、はるかに緩いものだ。
何かの危機が生じれば発動するが、普段はそれぞれがよそを向いて勝手なことをしている。
だが、この「勝手なこと」を許す気持ちが重要なのだ。
憎しみによる団結は、個々の勝手な行動を許さない。
それどころか、敵に寝返る裏切り者がいないか、厳しく目を光らせる。
少しでも反論する者がいると、異分子として排除されたり粛清されたりする。
それは息苦しい同調圧力であり、「個」を消していく全体主義だ。
一方、「愛」による絆は、「個」を尊重しようとする。
相手を束縛したり支配しようとする「恋」は、私に言わせれば「愛」ではない。
それは相手という他者への愛ではなく、自分を満足させるためのナルシシズムだからだ。
相手の幸福を心から願うのであれば、相手の「個」を尊重するのは当然ではないか。
誰だって自分の「個」が尊重されないのは嫌でしょう?
自分がされて嫌なことを相手に強要するのは「愛」ではない、ただのエゴだ。
したがって、相手の「個」を尊重する「愛」を基盤とした関係は、しばしば双方が好き勝手な方向を向いているバラバラな関係に見える。
2人が同じ方向を向いて同じ経験を分かち合い、同じ価値観を共有するのが「愛」だと思っている人々にとっては、彼らはまったく「愛し合ってない」ように見えるだろう。
だが、それは違う。
たしかに「共有」は「連帯」と「一体感」を生み強い絆を作るため、それが「愛」のあるべき形と考えるのはよくわかる。
が、じつのところ「愛」の本質は他者の「個」の尊重であり、「個」を埋没させる方向とは真逆のベクトルだと私は考えるからである。
*********
たいへん良い論考だと思います。
「敵を共有する憎しみによる連帯」
「ネットで特定の個人に狙いを定めて叩きまくり、有名人を槍玉にあげて鬼の首を取ったように正義漢面して糾弾する人たち」
それらはいずれも、
「息苦しい同調圧力であり、「個」を消していく全体主義だ」
というのです。その通りだと思います。
これに対し相手の「個」を尊重する「愛」を基盤とした関係は、
「しばしば双方が好き勝手な方向を向いているバラバラな関係に見える」
これもまたその通りと思います。
URLから全文をお読みいただけますが、文の全部に賛同するわけではありません。
私は、個人にとっても、国や団体にとっても、記念日等はとても大切なものだと思います。
同様に、人の書いた文章や講義講演などについて、一から十まで、全面的にそのすべてを賛同できるようなものは、そうそうありません。
人は十人いれば十通りの、百人いれば百通りの考え方があるものだし、また一念三千(いちねんさんぜん)といって、同じ人の中でも、一瞬のうちに三千通りの思考があるものです。
つまり人によって考え方も行動も異なるし、その人自身も、一瞬の中に三千通りの思考のゆらぎがあります。
少し考えたら、誰にでもわかる、あたりまえのことです。
逆にいえば、誰もが一様に同じ考え方や行動をとるなら、そのほうが逆におかしいのです。
それこそまさに全体主義であり、ファシズムです。
日本の近くに、兎にも角にも反日に凝り固まった国というか民族がありますが、彼らは要するにそのように思考し行動するように、いわば調教されているのです。
もともと熱くなりやすい民族性があるところに、そのような偏った思考を刷り込めば、国をあげておかしな国になるし、世界中から見放されるおかしな民族になってしまいます
逆に日本が、戦後70年以上もの歳月をかけて徹底的な民族洗脳工作を行なわれながら、日本人が日常においても、またいざというときにおいても、きわめてまっとうな行動を取り、洗脳に完全に染まった人にあらゆる特権や財力を与え、そうでない人を差別し追い込んでも、いまだに染まった人が少数派にすぎないのは、日本人がもともと愛情豊かで、人を大切にするという国民性を持っているからです。
そのことについて、この論考の筆者は、
「じつのところ「愛」の本質は他者の「個」の尊重である」
と書いています。
愛する人がいるから、その愛する人を奪おうとする。
奪えなければ、相手を中傷したりからかったりする。
それではまるで思春期の悪ガキ男子に見られる行動です。
逆に愛するがゆえに、相手のことを大切に思う。
ただ見守るだけの愛もあります。
遠く離れておもふだけの愛もあります。
子供が実家を離れて東京に出ていったからとって、親の子をおもふ気持ちが失われるわけではありませんし、親子の絆がなくなるわけではないでしょう。
どんなに離れていても、心の糸はしっかりとつながっている。
別々な人生を歩んでいても、互いに大切におもっている。
それが日本人の愛だと思います。
映画化され、歌にもなった岩下俊作著の小説『無法松の一生』の主人公の富島松五郎(通称:無法松)は、急病死した陸軍大尉・吉岡の未亡人・良子に恋をします。
けれど愛するがゆえに、良子との間に距離を置く。
それが身分や役職を越えてつながった吉岡大尉との友情を大切にする松五郎の男らしさであり、良子をたいせつに思う愛あるからです。
それこそ日本人的な愛だと思います。
愛という漢字の訓読みは、「めづ、いとし、おもふ」です。
日本人にとって愛は、古来、めでるようにいとしくおもふことなのです。
組織もおなじです。
自分の組織を大事に思うがあまり、仮想敵をつくることは、すくなくとも、日本人的な愛ではありません。
もしその組織が、それでいて愛を説いているなら、その組織はインチキだということになります。
同様に、自分が主張することが正しくて、ほかは全部間違っているというのも、それはインチキだと思います。
物事にはいろいろな見方があるからです。
ただ、考察には、浅い深いがあることと、見方が浅いと、それは群盲像を撫づと同じで、全体像を見過ごしてしまう。
まして歴史なら、歴史はストーリーですから、同じ事件等でも、それをどちらの立場で考えるかによって、筋書きは全然別なものになります。
たとえばフランス革命といえば、マリーアントワネットが贅沢三昧な暮らしをしたために、貧困に至ったパリ市民が決起して起きたなどとよく説かれます。
しかしこれはおかしな筋書きです。
なぜならマリーアントワネットが服飾やヘアスタイル、あるいは宝石貴金属のためにお金を使いあげただけでなく、その影響で他の貴族の婦女子たちも贅沢で華麗な消費に走ったわけです。
賭場でも大金が使われました。
それは富が王宮や貴族たちから、民間に付け替えられたということを意味します。
つまり王宮から富が流出した分、パリ市民は豊かになっていたのです。
すると財力を得た民間は、今度は権力を欲しがるようになります。
ロベスピエールなどは、仕事もせずに政治活動ばかりしていますが、人は食べなければ生きていくことができないし、彼が反権力のための運動体を組織するためには、そこにスポンサーの存在がなければ、活動経費が出ません。
つまり巷間言われる、貧困にあえぐパリ市民が立ち上がったという説は、実は、王宮からの富の流出によってパリ市民が潤い、そのパリ市民に極端な貧富の差が生まれたときに、一部の金持ちが貧困にあえぐ人々を扇動して起したのが、フランス革命とみることもできるわけです。
日本なら、古墳といえば、いまの学会では「豪族たちが自分の墓の大きさで自己の権力を示そうとした世界的にみても稀有な遺物」という解釈が定説です。
しかし現実には古墳が作られた時代というのは、平野部が開墾されて、広大な農地ができあがった時代です。
それだけの農地を開墾すれば、当然、大量の土砂が生まれます。
土砂は、ただ積み上げるだけなら、大雨のときに崩れて大災害をもたらします。
ですから計画的に盛土にしていかなければなりません。
こうして生まれたのが古墳なのだ、という説もまたあるわけです。
世界が対立と闘争によって形成されていて、世の中にあるすべての事柄は2つに分けることができ、その2つが互いに対立し闘争し抗争するのが世界の姿であり人類の歴史なのだという歴史観は、19世紀に生まれた共産主義思想に基づく思想です。
ところが日本の歴史は、完全に有史時代となる7世紀から起算しただけでも、すでに1400年の歴史を持ちます。
共産主義などが生まれるよりも、1200年も昔から、日本には日本の文化があるのです。
つまり日本の文化や歴史は、そのような対立闘争史観では、決して説明がつかない、深さを持つのです。
どういう視点でものごとを捉えるかによって、物事の見方には様々なものがあります。
それを、
「俺の考えだけが正しく、
他はすべて間違っている」
として他人をそしるのは、傲慢にすぎないし、それこそエゴそのものでしかありません。
そういう人たちの仲間になって、エゴに引きずられる自分になるのか。
それとも主体性を持って、自立した自分を築いていくのか。
それもまたそれぞれの人生です。
すくなくとも自分は、「仮想敵」に頼るような子供でいたくはない。
人の肉体とその人生は、魂が成長するための乗り物です。
そして人生は、長く生きても100年です。
60代になれば、10代のときと比べて、一年はその6分の一しかありません。
感覚的には10代の1年は、60代の2ヶ月に相当します。
時間は、歳を重ねる毎に短くなっていくのです。
残された人生を、ただ他人の批判だけに使うのか。
それとも自分の魂の成長のために使うのか。
それもまた、個々の選択であろうと思います。
お読みいただき、ありがとうございました。

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