| 「過去はすでに起きた未来。 未来はこれから起こる過去」 これは手塚治虫の言葉です。 我が国においては、ただ単に昔を否定するだけでは、国民が生き残ることができません。従って単純な自己否定や、真逆の自己肯定のためだけの歴史認識は、我が国では通用しません。どこまでも、「よろこびあふれる楽しいクニ」を目指す。それが日本の形です。そしてそこにあるのは国家としての自己肯定感です。自己否定からは何も生まれません。 |

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最近「自己肯定感」について語られることが多くなりました。
「自己肯定感」というのは、自分で自分を前向き受け止めて、自分自身の存在価値や存在意義を肯定する感情のことをいいます。
近年の日本人は、特にこの「自己肯定感」が低いとされ、「自分をだめな人間だ」と思い、何事にも無関心を装い、ものごとをすぐに「どうせムリ」とあきらめてしまう傾向があるのだそうです。
ところがその一方で、この「自己肯定感」が低い人ほど、自慢話ばかりしたがったり、他人の批判をしたがったり、人からどう見られているかを過剰に気にしたりするのだそうです。
要するに幼少時から何をするにも「お前は駄目なやつだ」とか、「お前の先祖は悪人だ」とか言われ続けると、それへの反発から、過度に虚勢を貼っては、他人の悪口だけを言い続ける異様な人物になってしまったり、それとは真逆に現実逃避をして、人生そのものをあきらめてしまう。
最近、自動車を運転するのに、ボーッとして走っている若者を多く見かけたりしますが、要するに「自己肯定感」を失った若者が増えたということなのです。
このことは、小中学生の通学風景を見ただけでもわかります。
日教組の強い小中学校では、生徒たちにまるで覇気がない。
青春まっただなかのはずなのに、生徒たちが死んだ魚のような目をしてボーッとして並んで行列しています。
日教組の影響の少ない学校では、生徒たちにものすごく元気がある。
そしてこの「自己肯定感」が低い人は、相手よりも優位に立ったときには、ひたすらに威張り散らし、アマチュアボクシングの終身会長のような態度に出たりする。
これもまた「自己肯定感」の低い人の特徴です。
つまり「自己肯定感」の低い人の行動は、ネガティブであれ、ポジティブであれ、それが両極端に出てしまうのだそうです。
上下関係意識の強い在日Koreanなどもその典型で、幼少時から家の中では父親が威張り、子供たちは一番下とみなされ、何をやっても否定される。
すると「自己肯定感」がなくなるから、誰に対しても否定的となる一方で、自分よりも弱い者に居丈高になり、財だけに頼ってモノでやたらと身を飾ろうとするようになります。
電車に乗っていて、ブランド物の高級バックを手に、ひとりで二人分の席を占領してふんぞり返っているような人がその典型といえるかもしれません。
では、逆に「自己肯定感」が高いとどうなるのでしょうか。
自分は生きているだけで価値がある、自分は必要とされている人間だ、と確信を持てる前向きな感情を持つ自己肯定感の強い人は、自分に自信を持ち、いろいろなことに進んで挑戦し、はっきりと自分の意見を言い、自分を大切にでき、心に余裕を持ち、他人に優しく人間関係が良好だといいます。
問題が起きても、それを自分で解決できる力を持ち、周囲と協力して問題を乗り越えます。
そしてこの自己肯定感は、下の図の両極には決してあてはまることはありません。

自己肯定感が高い、つまり周囲と協調し、自他ともにその存在を肯定するという思考は、実は日本の社会のもともとの特徴です。
なぜなら日本は、そのための社会を築いてきたからです。
そしてその原点は神語にあります。
それがつまり「豈国無歟」、すなわち「よろこびあふれる楽しい国」です。
誰もが豊かに安全に安心して生きることができる社会。
普通に働けば、ちゃんと食べて行くことができる社会。
そのために、誰もがちょっとずつ我慢をし、誰もがお互いを思いやる心を持つ。
そしてこのことこそが、日本がこれからの世界を変える源泉となるものであろうと思います。
いまさら日本が軍国主義に陥るとか、どこか他国を支配するとか、そのようなことを望む日本人はどこにもいないと思います。
日本が目指す世界、そして日本が上古の昔から目指してきた社会は「豈国(あにくに)」です。
これは「よろこびあふれる楽しい国」を意味します。
ここでいう「国」は、大和言葉の「クニ」のことであって、共同体のことを意味します。
ですから江戸時代の諸藩は「クニ」でしたし、日本全体も「クニ」、地球全体も「クニ」です。
その「クニ」に住む誰もが、よろこびあふれる楽しい生を生きることができるようにしていく。
それこそが、神々の目指した地球です。
そして日本の神語りによれば、我々の住む時空間のすべては、神々の胎内にあるとされています。
ということは、我々は神々という母体の中にある胎児の細胞のひとつひとつです。
胎児が元気なら、母体もうれしい。
しかし胎児の体の中のどこかひとつの細胞が、自分だけの利益を考えて他の細胞を犠牲にするなら、それは癌細胞です。
癌はキラー細胞によって退治するか、大きくなっているなら、それは切除しなければなりません。
つまり両極端を指向したら切開の対象になるということです。
「過去はすでに起きた未来。
未来はこれから起こる過去」
というのは手塚治虫の言葉です。
我が国においては、ただ単に昔を否定するだけでは、国民が生き残ることができません。
従って、単純な自己否定や、真逆の自己肯定のためだけの歴史認識は、我が国では通用しません。
どこまでも、「よろこびあふれる楽しいクニ」を目指す。
それが日本の形です。
そしてそこにあるのは国家としての自己肯定感です。
自己否定からは何も生まれません。
古事記も日本書紀も、日本が国家として自己肯定をすることを前提に書かれたものです。
私達が神語を取り戻すことは、日本が日本人が、そして自分自身が自己肯定をすることにつながっていきます。
お読みいただき、ありがとうございました。

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