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この物語は、戦前の尋常小学校4年生の国語の国定教科書に載っていたお話です。
小学校でこうした美しい物語に触れた子供達は、そこから何を学んだのでしょうか。

20180321 舞を奉納する万寿姫_th2
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5月19日(土)18:30 第51回倭塾(公開講座)
6月9日(土)18:30〜 第27回 百人一首塾 公開講座
6月30日(土)13:30〜 第52回 倭塾 公開講座
 *****
ある日源頼朝は、鶴岡八幡宮に舞の奉納をするために、舞姫を集めました。
舞う少女は12名です。
推薦もあって、11人まではすぐに決まりました。
けれど、あとひとりが決まりません。
困っているところへ、御殿に仕える万寿姫がよかろうと申し出た者がありました。
頼朝は一目見た上でと、万寿姫を呼び出しました。
すると見目麗しく実に上品な娘です。
さっそく舞姫に決めましたが、万寿は当年13歳、舞姫の中で、いちばん年若でした。
奉納当日、頼朝を始め舞見物の人々が、何千人も集まりました。
一番、二番、三番と、十二番の舞がめでたく済みました。
なかでも特に人がほめたのが五番目の舞でした。
この時は、頼朝もおもしろくなって一緒に舞いました。
その五番目の舞が万寿姫でした。
明くる日、頼朝は万寿を呼び出しました。
「さてさて、このたびの舞は、
 日本一のできであった。
 お前の国はどこだ?
 また親の名は何と申す?
 褒美は望みにまかせて取せよう」
万寿は恐る恐る答えました。
「望みはございませんが、
 唐糸(からいと)の身代りに
 立ちとうございます。」
これを聞いた頼朝は、顔色がさっと変わりました。
深い事情があったからです。
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一年ばかり前のことです。
木曾義仲(きそよしなか)の家来の手塚太郎光盛(てづかのたろうみつもり)の娘が、頼朝に仕えていたのですが、頼朝が義仲を攻めようとするのを知って、義仲にその情報を知らせたのです。
義仲の動きは早いものでした。
「すきをねらい、
 頼朝の命を取れ!」
そして木曽義仲の家に代々伝わっていた大切な刀を送ってよこしたのです。
光盛の娘は、それから毎晩頼朝を狙いました。
けれど、少しもすきがありません。
かえってはだ身はなさず持っていた刀を見つけられてしまいました。
刀に見おぼえがあった頼朝は、この女は油断できないと思い、女を石の牢屋に入れました。
その女性が、唐糸(からいと)でした。
唐糸には、その時12歳になる娘がいました。
それが万寿姫だったのです。
姫は木曾に住んでいました。
風のたよりにこのことを聞き、乳母(うば)を連れて鎌倉を目指したのです。
二人は、野を過ぎ山を越え、馴れない道を一月余りも歩き続けて、ようやく鎌倉に着きました。
そしてまず、鶴岡の八幡宮へ参って、母の命をお助けくださいと祈り、それから頼朝の御殿へあがって、乳母と二人でお仕えしたいと願い出ていたのです。
かげひなたなく働く上に、人の仕事まで引き受けるようにしていたので、万寿、万寿と人々に可愛がられていました。
さて万寿は、だれか母の噂をする者はないかと、気をつけていたのですが、10日経っても、20日経っても母の名を言う者はありません。
ああ、母はもうこの世の人ではないのかと、力を落していたところだったのです。
ところがある日、万寿が御殿の裏へ出て、何の気もなくあたりを眺めていますと、小さな門がありました。
そこへ召使の女が来て、
「あの門の中へ入ってはなりません」
と言いました。
わけを尋ねると、
「あの中には石の牢屋があって、
 唐糸様が押し込められています」
といいました。
これを聞いた万寿のおどろきと喜びは、どんなであったことでしょう。
それからまもなくのある日のこと、今日はお花見というので、御殿には多勢の御家人たちが集まりました。
万寿は、その夜ひそかに、乳母を連れて、石の牢屋をたずねました。
八幡樣のお引合わせか、門の戸は細めに開いていました。
万寿は、乳母を門のわきに立たせておいて中へはいりました。
月の光に透かして、あちらこちら探しますと、松林の中に石の牢屋がありました。
万寿が駆け寄って牢屋の扉に手を掛けますと、
「たれか?」
と牢の中から声がしました。
万寿は、格子(こうし)の間から手を入れ、
「おなつかしや、母上樣、
 木曾の万寿でございます。」
「なに、万寿。
 木曾の万寿か!」
親子は手を取りあつて泣きました。
やがて乳母も呼んで、三人はその夜を涙のうちに明かしました。
これからのち、万寿は乳母と心を合わせ、折々に石の牢屋を尋ねては、母をなぐさめていたのです。
そうして、そのあくる年の春、舞姫に出ることになったのでした。
親を思う孝行の心に頼朝も感心し、唐糸を石の牢から出してやりました。
二人が互いに取りすがって、うれし泣きに泣いた時には、頼朝を始め居あわせた者たちに、だれ一人、もらい泣きをしない者はありませんでした。
頼朝は、唐糸を許した上に、万寿に、たくさんの褒美を与えました。
親子は、乳母といつしよに、喜び勇んで木曾へ帰りました。
 ***
この物語は、戦前の尋常小学校4年生の国語の国定教科書に載っていたお話です。
小学校でこうした美しい物語に触れた子供達は、そこから何を学んだのでしょうか。
戦前の教育といえば、すなわち軍国主義教育であったと一刀両断する論調がありますが、すくなくとも、そういうものではなさそうです。
また戦後教育では、心の教育は価値観を強要するものだからいらないものとされますが、果たして本当にそうなのでしょうか。
近年では、やたらと「愛」ということが言われます。
けれど、では「愛の意味はなんぞや」と問われて、即答できる人は少ない。
男女の愛、恋愛、愛情、なんとなくわかるけれど、では「愛とは何ですか」と聞かれても答えられる人は少ない。
ところが戦前の教育を受けたお年寄りは、これを即答します。
「愛とは、おもうことだよ。」
理由は簡単です。
日本書紀を国史として学んだ戦前の日本人は、持統天皇の章において、「愛国」と書いて「国をおもふ」と読み下すと、誰もが習っていたからです。
「愛」という字の訓読みは、「おもふ、めづ、いとし」です。
親が子をめでるような気持ちでいとしくおもふこと、
子が親をめでるような気持ちでいとしくおもふこと、
恋人をめでるような気持ちでいとしくおもふこと、
故郷をめでるような気持ちでいとしくおもふこと、
国をめでるような気持ちでいとしくおもふこと、
それが「愛」です。
人は魂の乗り物です。
人の体は、自らの魂と糸で結ばれています。
糸は寄り集まることで丈夫な「紐(ひも)」になり、紐が寄り集まって更に太くて丈夫な「綱(つな)」になります。
ですから、ひとりの魂の糸は、まだ半分です。
その半分と、誰かの半分をつなぐのが「きずな(絆)」です。
その糸と糸とを結ぶことを「結(ゆ)ひ」といいます。
個人主義が標榜されるアメリカでも、昨今の映画やドラマで特に主張されることが、家族の絆です。
結局、人はひとりでは生きられないのです。
だから互いに支え合う。
なかでも親子の絆は、何ものにも代え難いことです。
そういうことを、尋常小学校の4年生の授業で、戦前は教えていたのです。
では、いまの小学4年生の国語の教科書ではどうでしょう。
以下は光村図書の小4国語のもくじです。
  詩を楽しもう
  音読げきをしよう
  話し合いのしかたについて考えよう
  読んで,自分の考えをまとめよう
  調べたことを報告する文章を書こう
  声に出して楽しもう
  物語を読んでしょうかいしよう
  新聞のとくちょうと作り方を知ろう
  本は友達
  詩を楽しもう
  調べて発表しよう
  読んで考えたことを話し合おう
  説明のしかたについて考えよう
  写真と文章で説明しよう
  声に出して楽しもう
  物語を読んで,感想文を書こう
どの項目も、音読や、やり方などの形を重んじているだけで、人の心に踏み込んだものがありません。
戦後、もとのKorean系共産パルチザンに支配された日教組は、戦前の教育は、いわゆる軍国主義教育であり、子供達に価値観を強制したものだと主張して、日本の教育から心の教育を奪いました。
しかし上に紹介した万寿姫の物語の、どこが軍国主義教育なのでしょうか。
どこが価値観を強制したものなのでしょうか。
むしろ、親子の愛をこよなく大切なものとして、子供達の情操を育もうとした教育といえるのではないでしょうか。
徳育という言葉があります。
戦後教育のもとでは、「徳」と言われても、それがどのようなものなのか、これまた即答できる人は少ないように思います。
けれど、もともと「徳」という字は、「彳」に「悳」と書きました。
「彳」は進むこと、「悳」は見た目の通り、真っ直ぐな心です。
ですから、字を見たら、真っ直ぐな心で進むこと(生きること)とわかります。
戦後はこの字が改められ、「悳」のなかの「目」が横倒しになり、「L」が「―」に変形して「德」になり、さらに「L」が省かれて、「徳」になりました。
はたして戦後のこの字を見て、ひと目で意味が分かる人は、まずいないのではないでしょうか。
感じて動くから「感動」と書きます。
理屈で動く「理動」という言葉は日本語にはありません。
「理屈に偏重した昨今の教科書」と、
「親子の情愛や人の生きる道を教えた戦前の心の教科書」と、
どちらの教科書が、人間教育に必要な教科書なのでしょうか。
さらに、万寿姫の母は、一国の施政者である将軍の命を狙おうとした重大犯です。
しかしいかなる重大犯であったとしても、親子の情愛の前に、これを赦(ゆる)す。
そういう社会を日本は大切にしてきた、ということを物語っています。
つまり国は人が築くものであり、人には法よりもっと大切なものがある、ということを、学校でしっかりと教えていたのです。
昨今の憲法論議などを見ていますと、憲法こそが国の一番の大事であるかのような風潮があります。
しかし、そもそも国家は国民が「豊かに安心して安全に暮らせる」ための共同体です。
その「国民が豊かに安心して安全に暮らせる」という目的を達成するために、憲法があります。
つまり目的は「国民が豊かに安心して安全に暮らせる」にあって、憲法はそれを達成するための手段にすぎません。
国会も「国民が豊かに安心して安全に暮らせる」ようにするために、法を審議するところであって、もりそばやかけうどんに注文をつけるところではありません。
そのような履き違いが起こるのも、私にはあまりにも形式主義に走った戦後教育の申し子のように思えます。
教育を取り戻すということは、日本語を取り戻すことであり、それはとりもなおさず、親子の愛や家族の愛、そして地域社会や郷土への愛を育む心の教育を取り戻すことです。
お読みいただき、ありがとうございました。
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