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手段を目的化するのは、おかしな議論です。
おかしなものを強制しようとすれば、それは教条主義になります。
けれどいまの日本には、あまりにもそれが蔓延しているようです。

20180205 目的と手段
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【お知らせ】
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4月7日(土)18:30 第25回 百人一首塾
4月22日(日)13:30 第50回記念 倭塾公開講座
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夫唱婦随とか男尊女卑とか男は仕事で女は家事等々を道徳観としてきわめて重要視される方が結構おいでになったりします。
そのように教わって育ってきたから、そうあるべきだ、とお考えのようなのですが、すこし違うように思うのです。
それだけでは、
「なんのために」
という目的感が欠けているからです。
日本書紀を読むと、たとえばイザナキとイザナミが天の浮橋に立たれてオノゴロ島を築くときに、その目的、つまり何のためにオノゴロ島を築いたのかが明確に書かれています。
「豈国(あにくに)」を築くためです。
「豈」という漢字は、愛やよろこびや幸せや美しさのときに打ち鳴らす「楽太鼓」と呼ばれる据え置き型の太鼓の象形です。
従って「豈国」というのは、「明るく楽しく喜びあふれる楽しい国」を意味します。
イザナキとイザナミは、そうしてできたオノゴロ島に降臨し、そこで国生み神生みを行ないます。
それらはすべて「喜びあふれる楽しい国」で「愛とよろこびと幸せと美しさ」を実現するためであったということが、この「豈国」という一語で示されています。
これが目的になります。
一説によれば、オノゴロ島とは地球のことなのだそうです。
そうであれば、神様が地球を造った目的は、「愛とよろこびと幸せと美しさ」を実現することにあることになります。
そしてその生みの果てに、人類が誕生しています。
人類もまた、「愛とよろこびと幸せと美しさ」を実現することが目的になります。
そのために人類はイエを営みます。
そのイエの集合体がムラです。
ムラの周囲には、食べ物などの恵みをくださるハラが広がります。
そのハラの向こうには、また別なムラがあります。
そのムラとムラの集合体がクニです。
何のためにイエやムラやクニがあるのかといえば、誰もが「愛とよろこびと幸せと美しさ」を実現するためです。
けれど、イエの中でもそうであるように、ムラやクニにも、一定のキメが必要です。
そしてキメには、それを強制し実行する力が必要です。
いまの時代なら、それが憲法をはじめとした法であり、それを強制する権力です。
従って、憲法も法も強制力の権力も、すべては、クニを営むための手段です。
手段は、目的を達成するためのものです。
愛もよろこびも幸せも美しさも、それが常態化すると「あたりまえ」になってしまいます。
だから苦難や葛藤があります。
そのように考えると、悲しみや苦しみや葛藤も、「愛とよろこびと幸せと美しさ」という目的を得るために必要なこととわかります。
シミは、洗えばサラになります。
だから目に見えないケガレは、ミソギをしてハラヒます。
すべては、「愛とよろこびと幸せと美しさ」を求めるという目的のもとにあります。
サラのまま(あるいはサラだけ)では、感動がないのです。
シミがあるから、サラの感動があります。
つまり人生には苦難があるから、その向こうに幸せがあります。
戦後の教育では、
「国は悪いことをする。
 だからそれを監視するのが国民の役割なのだ」
ということを、学校で教えました。
この教育をまともに受けた優秀な生徒が、我が国の官僚になったり、我が国のエリートとして国会議員になったから、官僚も国会議員も、誰もが自分は監視役だと思いこんでいます。
けれど国民から見たら、彼らは監視役ではなくて、施政者です。
上の教育で教えられることでいえば、「悪いことをする側の人たち」です。
ということは、戦後的価値観に従えば、国会は、悪いことをする人たちが、悪いことをする人たちを監視する場」ということになってしまいます。
これを「目くそ、鼻くそを嗤う」といいます。
どちらもただのクソです。
クソならまだ肥料になって再生利用が可能です。
それさえできないものは、ただの害毒です。
道徳的価値観は、それ自体が目的ではありません。
誰もが豊かに安心して安全に暮らし、暮らしの中で愛と喜びと幸せと美しさを実現していけれるようにしようではないかという根本目的があって、そのために、みんなで守ろう、大切にしていこうというためのことが道徳です。
道徳は手段であって、目的ではありません。
東野圭吾作の『さまよう刃』という小説があります。
映画化もされたので、ご存知の方も多いかと思いますが、娘を監禁強姦致死させられた父親が、加害者の少年たちを殺しに行くという物語です。
この物語では、警察は加害者の少年の身を護るために、その父親を殺害します。
物語の中で「警察官が護るのは法であって人ではない」などというセリフが出てくるのですが、戦後的価値観の痛点を突いた作品として、たいへんよく売れた小説です。
要するに、法か正義か、どっちが大事なのかという問題提起をした作品のわけですが、これは鶏が先か卵が先かと同じ議論です。答えがない。
小説ネタには良いかもしれませんが、現実には、法も正義も、どちらも手段でしかありません。
人々が豊かに安心して安全に暮らせるようにするためにあるものです。
手段同士がどっちが大事かと議論しても、それは乾電池の+極とー極のどっちが大事かと議論するようなもので、意味はありません。
目的を見失うと、このようなパラドックスに陥ります。
これを空論といいます。
憲法議論も同じで、憲法を大切に守ることが目的化すると、意味の分からない議論になります。
日本の憲法であるならば、日本国民が豊かに安心して安全に暮らすことができるようにしていくことが目的なのであって、憲法はそのための手段にすぎません。
そうであれば、国民の安全と安心と豊かさのために、必要に応じて変えていくのがあたりまえです。
憲法を護ることが国家の目的ではないからです。
お読みいただき、ありがとうございました。
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