| 平成30年度 倭塾・百人一首塾動画配信サービス受講生募集中 |
←いつも応援クリックをありがとうございます。たった70年余で遅れたのなら、次の70年で取り返せば良い。
すでに門は開かれたのです。
これからは日本の時代です。

(画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。尚、本日の画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)
◆【お知らせ】◆
1月20日(土)18:30 第22回 百人一首塾
2月8日(木)18:30 第23回 百人一首塾
2月18日(日)18:30 第48回 倭塾公開講座
3月10日(土)18:30 第24回 百人一首塾
Facebookで投稿や写真などをチェックできます。
3月24日(土)13:30 第49回 倭塾公開講座
Facebookで投稿や写真などをチェックできます。
*****
今回は少し個人的な思いを述べてみます。
トップに貼ったのは、森田春代さんの絵です。
森田さんの絵は、他の作品とともに、ジグソーパズルで、日本をイメージする美しい絵画として、世界中に出回っています。
完成された絵は、とても素晴らしい。
ですが、ジグソーパズルのピースの単位でみたら、いったいそれがどの部分なのか、どこの部品なのか、さっぱりわからなくなります。
ひとつのピースだけを見るならば、それがこのような素晴らしい絵になっているなどと、おそらく誰も想像すらできますまい。
自分のやっていることは、なんだかこのジグソーパズルのピース集めのような気がします。
戦後73年の間に、壊れてバラバラになってしまった切片を集めて、再びその素晴らしさ美しさを表に出す。
けれどそれはジグソーパズルの切片にすぎなくて、部分ではなかなか元の絵の素晴らしさが見えてこない。
その絵というのは、ひとことでいえば「シラス(知らす、Shirasu)」です。
天皇のもと、神々とご祖先と、今生きている先輩たち、自分たち、後輩たちみんながひとつになって、より良い未来を築こうとしてきた。
そういう日本です。
日本は、長い歴史の中で紆余曲折はいろいろあったけれど、全体として、やはり良心が勝ることができた国だと思うのです。
なぜそれができたかといえば、それはひとえに天皇の御存在あってのことです。
日本には権力よりも上位の天皇という存在があり、その天皇によって、すべての民衆が「おほみたから」とされてきた国です。
これによって権力者は、民の私有者ではなく、民を預かる立場になります。
民と権力者は、対立関係ではなく、一体となって未来を担う関係になるのです。
日本が和の国だというのも、究極的には、陰陽の対立や並立の国ではなく、その上位に天皇という存在が置かれ、皇臣民の三者が、いわば鼎立関係になっていたことが、日本の土台となっているのです。
昨今、天皇機関説や、天皇制度説などを唱えて、天皇の存在そのものを無に帰そうとしている人たちがいます。
あるいは天皇の権威を下げることに血眼になっている人たちもいます。
その人達は何が目的なのでしょうか。
天皇の存在があるから、日本では民衆が権力からの自由を得てきたのです。
それを否定するということは、これは単に「民衆を権力によって私的に支配したい」という悪意としか言いようがありません。
なぜなら、天皇の存在がなくなったり形骸化したりすれば、民衆は権力者の奴隷に成り下がるからです。
そうなると、権力者持つ人にとって、麾下にある民衆は、自分たちが贅沢な暮らしをするための道具(私有物)でしかなくなります。
私有物なのですから、殺そうが生かそうが、権力者の自由です。
◆youtubeの動画サイトをはじめました。

↑よろしかったらチャンネル登録をお願いします。登録無料です↑
新しい動画がアップされました!
◆『ねずさんと語る古事記・参』絶賛発売中!!

本来、権力と責任は一体であるべきものです。
ところが、権力が最上位にあれば、誰もその最上位権力者の責任追求などできません。
「いやいや、総理の政治責任の追求をしているではないか」
という人もいるかもしれません。
しかし、それができるのは、その権力者が、自分の持つ権力を、自己の意志で部分的にしか行使していないことによります。
反対者を粛清して頬かむりできるのが、そもそも最高権力者なのです。
「そんなことはない。日本は三権分立だ」という人がいるかもしれません。
では、国家の非常大権は三権のどこにあるのでしょうか。
日本に爆弾が落とされた、あるいは行政機能が麻痺するような大規模な災害が起きた。
そのとき、誰が責任をもって事態への対処にあたるのでしょうか。
それは最高裁長官でしょうか、国会両院議長の役割でしょうか、内閣総理大臣の行政権でしょうか。
内閣は法の範囲で動くものです。
その法をつくるのが国会、法に沿っているかを判断するのが司法です。
では、法が想定していない事態が起きたときの政治責任は、誰にあるのでしょうか。どこにあるのでしょうか。
政治責任があるから、政治権力があるのです。
責任のないところに、権力はありません。
もし、責任抜きで権力行使ができるのなら、それは暴政を生みます。
何の責任も問われずに、ありとあらゆることができるのです。
それはまるで芸能界に巣食うマフィアと同じです。
昨今では、国益を損ね、世界の常識からすれば国家反逆の罪に問われてもおかしくないような政治家や、外国のいいなりになってしまったマスメディアが、あいかわらず議席を確保し、放送免許を取り上げられずに、人心を撹乱しています。
ところが、それに対して、誰も責任を問うことができない。
これはつまり、我々現代日本人が、日本という国家に、無責任政治、無責任報道を容認しているということです。
そのような社会においては、誰もが自分の幸せを守ることだけで精一杯になります。
子の未来どころではなくなってしまう。
自分のことで手一杯となって疲れ果て、華美な生活をしながらも癒やしを求めて徘徊するようになります。
現に昨今の日本がそうなっています。
人生のすべてをかけたとしても、できることはごくわずかです。
けれど、その「わずか」を、5年続けたら、10年続けたら、20年続けたら。
一日は24時間に1秒足らないのだそうです。
その足らない1秒が4年蓄積されると、うるう年の24時間になります。
まさにチリも積もれば山となるです。
東日本大震災は、本来の日本人の凄みをあらためて思い返させてくれた地震となりました。
困ったときに互いに助け合い、利他の心を持って整然と行動する日本人の姿が、世界の前で浮き彫りとなりました。
それは、日本人の中に本来あった、DNAに染み付いた日本人本来の姿でもありました。
では、どうしてそのような行動が、日本人のDNAとなったのか。
いざというとき、信じられないような暴行に走るのが世界ではむしろ標準なのに、どうして日本人は違ったのか。
それは、長い歳月をかけて、日本の中で熟成された日本の文化が、日本人のDNAにまで進化していったからといえるのではないでしょうか。
そして、なぜ長い歳月の中で、日本人にそのような文化性が染み付いたのかといえば、間違いなくそれは日本に天皇という存在があったからです。
ひとことでいえば、それが「シラス(知らす、Shirasu)」ということになるのですが、戦時中に、厳しい外地で勇敢に戦ってくれた父祖の思いも、それは単に家族を護るためというだけでなく、私たちの国が持つ、民こそが「おほみたから」なのだという、おそらく人類の理想ともいえるその文化を、誰もがしっかりと護り通したいと願ったからです。
そして戦後70年以上を経過したいまでも、そうした文化の片鱗は、まさにバラバラになったジグソーパズルのピースのように、歴史の中に、あるいは日常の中に散らばっています。
これを拾い集める。
もっとも、ピースをいくつか集めて部分的に再現しても、
「まさか、そんなはずはあるまい」という批判を受けます。
それはあたかも、洪水の神の啓示を受けたノアが、箱舟を造っていると、周囲から嘲笑を受けたことにも似ています。
たとえば、百人一首の言霊の中に、そこはかとない伝統美や日本語の美しさを感じる。
だからこれは日本人の本能として、百人一首の和歌に素晴らしさを感じます。
ところが、その歌の意味の解説は、どれをとっても和歌とは恋愛賛歌であり、当時の貴族たちは政務をほったらかして、もっぱら性夢にばかりうつつをぬかしていたかのように解説しています。
素性法師に至っては、敵味方の部下の兵の死を悼む将校の心が、なんとホモの愚痴の歌にされている。
ひどいものです。
しかし本当にそうなのだろうかと思って、いろいろ調べてみると、全然違う世界がそこにある。
古事記や日本書紀も同じです。
先日の倭塾でお話したことですが、「人類社会は進歩する」というのは、実はとんでもない幻想です。
いまの日本人は、千年前の日本人よりも、千年遅れてしまっている。
けれど日本人には、日本人にしかないDNAがあります。
そして天皇もご健在です。
日本には、まだまだ復活のチャンスがあります。
すでに門は開かれたのです。
これからは日本の時代です。
そうそう。
在日のことにもすこし触れて置かなければなりません。
彼らが戦後の日本でのしあがったのは、38度線という東西世界の境界線があったからです。
South Koreaの経済的成長と、社会の進化が、東側世界への大きな壁とされてきたから、South Koreaの経済成長があったし、国際的地位の向上があったし、その後背地に位置する日本における在日Koreanの横暴も許容されてきたのです。
彼らにとっては、それによって日本の猿に少々の被害があったとしても、世界全体の秩序維持に、それは不可欠の要素とされてきたのです。
ところが国際情勢は変わりました。
彼らを助けることは、国際社会の中で、もはや百害あって一利なしとされるようになったのです。
つまり、South Koreaは、国際社会から見放されるということです。
そして、そうなると日本国内に限らず、世界中でKoreanは、これまでのような横暴が通用しなくなります。
犯罪は犯罪とされるようになるのです。
今年、そのことがあきらかになります。
お読みいただき、ありがとうございました。

↑ ↑
応援クリックありがとうございます。


ねずさんのひとりごとメールマガジン有料版
最初の一ヶ月間無料でご購読いただけます。
クリックするとお申し込みページに飛びます
↓ ↓


