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そしてそのことが、必ず日本を取り戻していきます。

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以前、ChinaやKoreaは、戦前の日本に対する「対抗国家」であると書かせていただきました。
戦前の日本統治に抗して誕生したというのが建前ですから、日本への対抗が国家の正義です。
ですから、彼らにとっての愛国とは、反日です。
本来であれば、愛国というのは、自国の民衆の幸せのために発揮されるべきものなのですが、対抗国家の場合はそうはなりません。
自国の民衆の愛や喜びや幸せや美しさを犠牲にしてでも、反日であることが正義です。
反日のための国家なのですから、国民の生命や財産など、早い話どうでもよくなってしまうのです。
もっといえば、人類社会の一般通念では許されない悪行であっても、反日である、日本への対抗のためであると言い張れば、それは正義となります。
彼らは逮捕されると、ひたすらわめきちらし、脱糞までして理屈にもならない自己の正当性を訴えますが、彼らの国では、そうやって日本への対抗のためだ、反日のためだと言い張れば、それは無罪になります。
よく日本人女性が乱暴されて、彼らの国の警察に駆け込むと、「日本人だから仕方がないのだ」と逆に諭されてしまうというのは、警察官の姿勢というよりも、彼らの国で裁判になれば、実際にそういう理屈が通用してしまうからです。
それが彼らにとっての国家的正義です。
慰安婦象も、その延長線上にあります。
Koreaの場合は、その反日をさらに「恨み」にまで高めているわけですから、できるだけ派手に、できるだけ相手の名誉を奪い取るように反日すれば、それは国家的正義となります。
事実はどうであったのか、正義とは何かということは関係ないのです。
Chinaの場合も同様で、事実はともかく、日本にひどいことをされたことへの抗日が建国の建前となっているわけですから、日本に抗するのだと主張すれば、それが国家的正義です。
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残念なことに、両国とも、建国の際に政府が犯したあらゆる悪行や非道行為を正当化するためには、その前に統治をしていた日本はもっと悪質だったのだと言い張る他ありません。
ですからもし両国が反日を止めるとするなら、それは両国が国家の成立を否定することになるわけですから、両国が存在する限り、今後も反日・抗日があらたまることは決してありません。
ChinaやKoreaが対抗国家であることをやめるためには、どうしたら良いのか。
それは、現在存在している彼らの国が一度崩壊して別な国を建国することです。
そのとき、日本への対抗が新たな国の国是となるのではなく、幸運にも、日本への対抗国家であったことへの対抗をする国が誕生したとき、彼らははじめて、日本への対抗をやめることになります。
幸運にもと書いたのは、逆にいまよりもっと日本への対抗を強めるために、いまある国の枠組みを変えて、新たなもっと激しい対抗国家を誕生させるという選択肢もあるからです。
もともと国家というのは、互いに考え方や国家成立の基盤が異なるから、それぞれに国境をひいて、国家を営んでいます。
日本はたまたま四方を海で囲まれていますから、なかなか日本人には理解しにくいのですが、大陸にある諸国は、国境が陸続きになっているわけです。
通り一本隔てた向こう、つまり向かいの家は外国、などということも、頻繁に起きているわけです。
そして国が違えば、たとえ通り一本隔てた向こうとこっちの違いであっても、民族性も習慣も異なります。
そして国同士は、互いに仲が悪いというのが原則です。
仲が悪いから、たとえ通り一本でも、国境があるのです。
仲が良いなら国境の必要はありません。
そしてどんなに国同士、民族同士が仲が悪くても、相手が嫌いでも、自国を守るための必要や、ビジネスにおけるメリットがあれば、両者は同盟もするし、ビジネスもします。
99%互いにいがみ合っていても、1%にビジネスチャンスがあったり、紛争への対抗の必要があるときは、互いに手を結ぶのです。
それが大陸にある国家の常道です。
このことは、各家のお隣同士が、たとえどんなに日頃仲が悪かったとしても、火事になったら、一緒になって消火活動をするのと同じです。
それは、お隣さんが好きだからとか、尊敬しているからだとかではありません。
必要があるから、必要なときには手を結ぶのです。
それだけのことだし、それが世界においてはあたりまえのことです。
この点、日本の保守系言論人の一部にも誤解があるようです。
99%の良い点があっても、1%に妥協できない点があれば、同じ保守同士で対立し攻撃しあう。
そして一事が万事だとして、1%を針小棒大に騒ぎ立てれる。
すると簡単に分裂する。
逆なのです。
99%妥協できない相手であっても、必要があれば残りの1%で互いに協力しあうのが世界の常識です。
そしてこのとき、99%は妥協できない相手であるということを常時互いに意識して、衣の下から刃をチラチラと見せつけながら付き合うのが、国際社会の常識です。
このことは、動物園で猛獣を飼うのと同じことといえるかもしれません。
さて、ChinaやKoreaが対抗国家であるというお話をしましたが、では日本はどうなのでしょうか。
実は戦後の日本は、突き詰めていえば「お詫び国家」です。
戦前の日本をとにもかくにもお詫びすることが国是となっている国です。
それはGHQによって与えられ、日本国憲法の前文に記載され、まさに戦後日本の国是となっていることです。
ですから、ひたすらお詫びすることが日本の正義です。
企業でも組織でも国家でも、上に立つ者は常にお詫びをし続ける。
悪くなくても、ごめんなさいと謝罪する。
それが国家的正義なのだから仕方ありません。
そして国際社会では、お詫びをするということは、そのままお金を払わせることにつながります。
ですから戦後日本という国は、お詫びをさせるように仕向けさえすれば、いくらでもお金を払わせることができる。
しかも日本人は働き者で、モノづくりの達人でもありますから、日本人が一生懸命働いて得た利益は、屁理屈であれ捏造であれ、とにもかくにも日本のお偉いさんに「ごめんなさい」とお詫びをさせるようにもっていきさえすれば、まさに打ち出の小槌のように、いくらでもお金を吐き出させることができる。
そしてその戦後日本は、お詫びをすることが、国家的正義となっているわけです。
では、そのお詫び国家が、お詫び国家でなくなるにはどうすればよいか。
戦後日本は、お詫び国家としてスタートした国であり、お詫びが国是となっている国です。
これを変えるためにはどうしたら良いのかということです。
実は、ChinaやKoreaが対抗国家であることをやめるためには、現在の彼らの国が一度崩壊する必要があるのと同様、日本がお詫び国家を止めるためには、戦後日本というフレームを崩す必要があります。
それは、まったく新たな日本が誕生するということでもあります。
世界の歴史では、そのためには必ず流血の革命が起こっています。
それは実は日本では考えられないほどの悲惨な規模で起こります。
Chinaは、歴代王朝が交代してきた国ですが、その都度、人口の3分の2が失われたとも言われています。
人口がそれだけ減るということは、かつての地主階層が崩壊しているということです。
そこにまったく新たな人々が支配者として君臨します。
こうしてChinaでは、国が替わるたびに、ほとんど民族や文化まで入れ替わっています。
たとえば清国の時代、Chinaの男性の普通のファッションは辮髪(べんぱつ)と呼ばれる、頭髪を後頭部以外全部剃り、後頭部の髪だけを長く伸ばすというものでした。
想像したらわかりますが、たとえばいまの日本に清王朝が誕生して、サラリーマンは全員辮髪を義務付けられたら、おそらく多くの人は心理的に納得できないと思います。
けれど、Chinaでは、実際にそれが起こっているわけです。
辮髪は支配層の証であり、辮髪であることが高級官僚もしくはその身内であることの証だったのです。
西洋でもこれは同じで、支配層が替わるとき、世の中の支配層は全部入れ替わっています。
そして同時に人口も、大きく減少しています。
我が国も、源平合戦後の鎌倉政権、関ヶ原後の徳川政権など、戊辰戦争後の明治新政府など、歴史上大きな政権交代を経験してきているし、都度、たくさんの血が流れました。
ところが、それらの戦いは、いずれも日本の全体人口を大きく減少させるところにまでは一切、至っていません。
もちろん、大きな戦いによって、たくさんの人の命が失われはしましたが、その規模は、人口全体からすれば、実は諸外国と比べると微々たるものでしかなかったというのが、我が国の歴史です。
このことは、現代日本がお詫び国家であること。
それを変えるためには、なんらかの抜本的な改革が必要なこと。
その改革は、お詫び国家であることによって権益を得ている既得権益層との争いになりますから、一定のリスクを伴うことを私たちに教えてくれます。
しかしいまの日本がよろしくないと思う人は多くても、いまの日本に流血革命を歓迎する人は、皆無であろうと思います。
ではどうしたら良いのか。
その答えも、私たちの国の歴史の中にあります。
なぜ我が国が、大きな政権交代のたびに、人口の大幅な喪失をしないままに改革を実現することができたのか。
それは、我が国に天皇という最高権威の存在が常にあり続けたからです。
日本が天皇のシラス(知らす、Shirasu)国であるからこそ、政治権力の交代は、単なる政権交代の枠組みを超えることがなかったのです。
ということは、私たちが日本を取り戻そうとするならば、天皇の権威とはいったいどのようなものなのか。
古代に確立された天皇という存在の異議を、私たち自身がしっかりと学び、これを国家の常識としていくことこそが肝要であるということができます。
そうすることで、日本ははじめてお詫び国家からの脱却を、流血なしに、あるいはもし流血があったとしても、それを最小限に留めることができるのです。
早い話、「日本は天皇が知らす国である」というこの一事が国家の常識になることによって、日本は大きく替わることができるし、お詫び国家ではない、本来の平和で豊かで、愛と喜びと幸せと美しさを取り戻すことが可能になります。
そのための戦いは、ようやくいまはじまったばかりです。
しかし、おそらく向こう10年の間には、「天皇の知らす国」は、日本の常識となっていきます。
さらにそれだけでなく、「知らす」は世界の常識になります。
世界も変わるのです。
私たちのいまの活動は、そのためにあります。
少し考えたらわかることですが、およそ人類社会の成し遂げた社会システムや科学技術のほぼすべては、「戦争に勝つための技術」として発達してきたものです。
上下関係しかり、組織しかり、移動手段しかり、資源エネルギーしかり。
典型的なものが核技術です。
しかしもしかすると、これは人類6千年の大きな間違いであったのかもしれないのです。
本来、知識も知恵も神々のものです。
その神々のものを使って、民衆が最大限に愛と喜びと幸せと美しさを希求し、豊かに安全に安心して暮らせるようにしてくためにあるものが、技術であり科学でなければならなかったのです。
そしてそのために考案された社会システムが、我が国の「知らす」だし、勾玉に代表されるモノ作りの技術だし、農業のための各種品種改良や、古墳や堤防の生成です。
勾玉というのは、ヒスイやメノウで出来ています。
ヒスイやメノウは硬度が6・5あります。
鉄は4・5です。
鉄より硬い原石を、あの形に加工し、穴までうがっています。
当時としては、まさに最先端技術の結晶だったわけです。
その勾玉は、戦いのためのものでしょうか。
偉い人だけが身を飾るためのものだったのでしょうか。
古墳は、日本人になりすました似非学者が、「墓の大きさで権力の大きさを示そうとしたものだ」とアホな事を言っています。
全然違います。
原野を耕して水田にしたら、大量の残土が出るのです。
その残土は計画的に盛らないと、大雨のときに崩れて、周囲に大変な災害をもたらすのです。
だから何代もかけて荒れ地を水田にし、残土をきちんと処理したのです。それが古墳です。
古墳時代がなぜ終わったか。
簡単なことです。
水田が発達すると、たくさんの水路ができます。
その水路へは大きな川から水をひきます。
その川が氾濫しないよう、それまで古墳に盛られていた土を、今度は堤防工事に使うようになったのです。
一部の人が、圧倒的多数の庶民から収奪をして贅沢三昧をし、その一部の人たちが、もっと贅沢をするために戦争に勝つ技術が開発されてきたのが人類史です。
しかし本来は、民衆が「おほみたから」として大切に育まれ、民衆が喜びに溢れた豊かな生活ができるように使うのが技術でなければおかしかったのです。
このことを、いま、人類社会全体が、反省すべきときにきています。
そしてその起爆剤になるのは、まちがいなく日本です。
わたしたち自身なのです。
お読みいただき、ありがとうございました。

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